第十話 暁衣
第十話《暁衣》
静寂に包まれた光の宮廷ルミエル──
その黎明は、まるで銀の筆で描かれた絹のように、ゆるやかに空を染めていく。
だが今朝ばかりは、風の香りさえ異なる。
花は揺れず、鳥は囁かず、天の三つの月すらも、夜明けに抵抗するように空に残っていた。
ミラザリス宮、北の翼塔。
その最上階、天蓋のある女王の間に近い部屋の扉が、音もなく開かれる。
ヴァミ・ミラザリスは、赤を秘めた長いドレスを身にまとい、鏡のない壁面を背に、静かに立っていた。
──否、今朝の彼女が纏うのは、初めて目にする深紫のドレスだった。
胸元には、父王がかつて王妃に贈ったとされる「薄紅石」の首飾り。
その石が、剣ではなく“愛”の証であったことを、今のヴァミは誰よりも理解していた。
侍女が控えめに頭を下げると、ヴァミはかすかに微笑んで、袖を整えた。
「今日は、舞台に立つ日。
けれど、演じる気はない。私たちは……もう、誰の影にも隠れない」
赤い光を秘めた瞳に、一瞬だけ金色の輝きが走る。
それはまだ覚醒ではなく、予兆。
剣を手にする日は近い。
彼女が静かに歩き出すと、従者たちは誰一人声をかけず、ただ彼女の“選択”を見送った。
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一方、リヴォン・ミラザリスは、塔の結界制御室を抜け出し、東の神殿へと向かっていた。
彼女が身につけていたのは、墨色のローブと青銀の刺繍が施された袖飾り。
足元は静かな革靴。いつものような王家の気品よりも、学者としての冷徹さが際立つ出で立ち。
しかし、首元にそっと輝く宝石だけが違った。
それは──花の王国リシアールから届いた、親友が贈ってくれた「暁の守珠」。
親しき者の心を守るといわれる青い宝玉。
彼女はそれを身につけたとき、初めて「誰かを想って戦うこと」を自覚した。
風が流れる神殿の中、彼女は呟く。
「守るだけじゃ……足りない。
誰かが私を信じてくれた。なら、私は信じ返す。
これは、私自身の戦い」
手のひらに浮かぶ術式は、いつかより複雑に、緻密に、そして──優しかった。
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そして──最も遅れて部屋を出たのは、三女ノン・ミラザリスだった。
その足どりは軽く、スカートの裾を少し持ち上げて駆けるように。
身にまとっていたのは、まるで春の光を編んだような、やわらかな桃色のドレス。
肩には絹の花びらが飾られ、銀のブレスレットが光を跳ね返している。
「へへ……お姉さま方はカッコいいんだもん。私も……今日はちゃんと、姫らしくしよっかな」
彼女が手にしていたのは、昨晩焼かれたばかりのフルーツケーキを包んだ布。
それは、侍女や厨房の兵たちからの“がんばってね”の贈り物だった。
ノンはそれを懐にしまいながら、庭へ向かう。
「きっと今日も花は咲く。
たとえ怖いことが待ってても……わたしが笑ってれば、大丈夫」
陽の差し込む廊下で、彼女はそっと笑った。
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三姉妹がそれぞれの“選択の衣”を纏い、出会ったのは、宮廷中央にある《記録の間》。
かつて王たちが戦争と条約を記した石碑の眠る聖域。
その場には既に、女帝アミルネアの姿があった。
白金のローブに、緋色の瞳。
その眼差しは、かつてないほどに柔らかく、そして強い。
「……おまえたちが、自らを選んだのなら。
この国もまた、おまえたちに応えるだろう」
アミルネアの声に、ヴァミは深く頭を垂れた。
「母上……わたしたちは、恐れません。
今日の一歩が、誰かを守るなら……剣も、術も、心も、使いましょう」
リヴォンは静かに頷き、ノンは微笑んで言った。
「怖いけど……わたし、誰かの光になりたいの」
その言葉に、アミルネアの唇がかすかに震えた。
だがすぐに背を伸ばし、玉座のような石の椅子に腰掛けた。
「では行くがよい。
三つの月が重なりきる前に。
これは“運命”などではない。おまえたちが選んだ“生”なのだ」
三人の姫君は、夜明けの庭を背に、静かに歩き出す。
まだ剣も、術も、解き放たれてはいない。
だがその歩みこそが、この国を変える“始まり”だった。
──光は、まだ完全に消えていない。
だが、戦場の鼓動は、確かに近づいていた




