第一話 月廻(げっかい)
光の宮廷ルミエル──
それは、三つの月が照らす地上でもっともまばゆく、もっとも秘密に包まれた都。
白銀の尖塔がそびえる《ミラザリス宮》の回廊には香が流れ、四季を問わず庭園には花が咲き、
暖かな陽が差し込むたびに風が花弁をさらう。
その景色は、誰もが一度は夢に見る、永遠の幻のように美しい。
この国を統べるのは、女帝アミルネア・ミラザリス。
銀の髪に紅玉の瞳を持ち、慈愛と鉄の意志で国を導く絶対の存在だ。
そして彼女の血を継ぎ、王国の未来を託された三姉妹がいた──
長女、ヴァミ・ミラザリス。
剣の稽古を欠かさぬ実直な性格で、朝の庭園では騎士のように剣を振るい、誰よりも自分を律している。
だが日中は紅を帯びたドレスに身を包み、無言で気品を湛える姫としての務めを果たしている。
父王が遺した封印の“聖剣”──その破壊の力を手にするのは、まだ遠い運命の夜。
それまでは、模擬剣での静かな修練と沈黙の誓いを貫くのみ。
次女、リヴォン・ミラザリス。
理知に長け、感情を見せず淡々と振る舞う。
彼女は魔法水晶《ミラグラスの瞳》を用い、過去に刻まれた術式を再構築し、空間に防御魔法を展開する。
音もなく広がるその結界は、まるで空気が意志を持つかのように、周囲を守る。
その力は静寂の盾、王国の秩序そのものと称される。
三女、ノン・ミラザリス。
自由で無邪気。感情に素直で、花を追いかけ、城の石畳を裸足で駆けることもある。
誕生日に女帝から贈られた銀のブレスレットにより、彼女は“心の調和”を紡ぐ魔法を行使する。
ただし本人はそれを魔法とは思っておらず、「なんとなく気持ちが伝わる気がするだけ」と笑う。
兵士や民からは癒しとして慕われているが、彼女は何も知らず、ただ在るだけで人の心を整えている。
──だがこの三姉妹には、誰にも明かされぬ“始まりの真実”がある。
彼女たちは確かに人として生まれた。
だが、その魂の奥底には、かつて黒猫であった頃の記憶が、月のように潜んでいる。
それは、呪いか、祝福か。
女帝アミルネア・ミラザリスだけが知る、王国最大の秘密。
彼女が三姉妹の正体を明かさぬのは、ただ母として守るためだけではない。
彼女たちの存在そのものが、この国の運命の鍵だからだ。
やがて、宮の奥の《記録の間》に異変が起きる。
敵国の魔導軍が、封印された記憶と力を暴こうと進軍を始める。
重なる三つの月。解き放たれる魔法。呼び起こされる獣の記憶。
美しく、強く、優しい三人の姫君──
彼女たちは己の魂と、王国の未来の両方を背負い、
花が舞い、剣がきらめくその夜、静かに戦場へと足を踏み出す。
今、彼女たちは人として選び、立ち、そして誓う。
誰かの光になるために。
誰かの希望になれるように。
この物語の中で、あなたは「何かを守りたい」と願う心に出会うだろう。
それは剣よりも鋭く、魔法よりも真っ直ぐな――愛の形。
どうか、彼女たちの旅に寄り添ってほしい。
あなたの記憶にも、きっと似た誰かがいるから。
花咲き乱れる〈光の宮廷ルミエル〉――
それは三つの月が地上を見下ろす世界でも、最も美しく、最も謎に満ちた都。
白い城壁が陽光を反射し、尖塔の影が静かに庭をなぞるとき、空気はまるで楽器のように鳴り、
風が吹けば、香が揺れ、花が舞い、人々の胸に“永遠”の幻想を灯す。
けれどその朝――いや、正確には夜が終わりきる直前――
ルミエルの庭は、誰にも見えない緊張を孕んでいた。
◇
「……二十三、二十四……もう一回」
赤いドレスの裾をひるがえしながら、少女は黙々と剣を振っていた。
まだ空に星が残る刻、石畳の庭でただ一人、剣を握る姿はどこか儚くも凛としている。
ヴァミ・ミラザリス――女帝アミルネアの長女。王国の次代を担う姫君でありながら、誰よりも剣に厳しい。
「……もっと深く、斬り込んで」
独りごとのように小さく呟きながら、刃先の軌道を修正する。
その瞳は暗闇の中でかすかに光を宿し、どこか猫を思わせる。
ふと風が吹く。
花の香が漂い、季節外れのスノーフィリアがひとひら、地に舞い落ちた。
「ねえねーっ!」
石畳を叩くように、元気な足音が近づいてきた。
振り向かずとも分かる――あれは末妹、ノンの声だ。
「おはようございます。お姉さま! 今日も剣のお稽古を?」
「……ああ。もうすぐ終わるところだ」
ノン・ミラザリス。三女。赤茶の髪に朝露をまとい、銀のブレスレットが手首で光る。
足は相変わらず裸足。花びらを踏んで、草の匂いをまといながら、笑顔で駆け寄ってきた。
「ねえ、見て見て! あの花、咲いてたんだよ。今の季節では珍しい?」
「本来なら、まだ蕾のはずだな……」
ヴァミは剣を静かに収め、ノンの指差す方に目を向けた。
その白い花は、確かにまだ咲くには早すぎる。
「まさか、また……」
「またって、なに?」
そのとき、三人目の姉妹の声が、静かに回廊から差し込んできた。
「おはようございます。お姉さま。ノンちゃん。
月の軌道が逸れておりました。昨夜、観測しておりました。」
リヴォン・ミラザリス。次女。
知識に長け、いつも冷静で、必要なことしか話さない。
けれどその声は、姉妹に対してはどこか柔らかさを含んでいた。
「月が……また近づいてる?」
ヴァミが問うと、リヴォンは小さく頷いた。
「五度南に傾いておりました。前に“あの夜”が来たときと、同じ動きかもしれません。」
「……まさか。あんなこと、また起きるのか?」
ノンの顔から笑みが消えた。
銀のブレスレットが、かすかに光る。
その瞬間だった――
宮の奥から、深く低い鐘の音が響いた。
「……この音、なんか変」
「記録の間かもしれない。魔力の気配が揺れてる」
リヴォンの声が少しだけ硬くなった。
「私が行ってみましょう。」
「だめだ、私が――」
リヴォンは真っ直ぐにヴァミを見て、首を振った。
そして、ノンの頭に手を置いてから、回廊の先へと進んだ
「……さすがリヴォンお姉さま」
ノンが小さく呟いた。
「……あの子は、ずっと見てるからな。私たちのことも、空のことも」
ヴァミは、三つの月が残る空を仰いだ。
そこには確かに、前よりも近づいた光の輪が浮かんでいた。
そして、胸の奥がかすかに疼いた。
それは記憶――
過去の名残。毛並みの感触、冷たい床、独夜。
“自分ではない何かだった時”のかすかな残響。
「お姉さま?」
「……いや、なんでもない。ノン。花を見に行こう。剣の稽古は、あとで一人でやる」
「うん!」
ノンはぱっと笑顔を取り戻して、ヴァミの手を取った。
その手は小さくて、あたたかかった。
花は庭に咲き誇り、月は空で重なろうとしている。
変わらぬ日常の中で、確かに何かが動き始めていた。
そして、それはただの偶然ではない。
運命の歯車が、また一つ、音を立てて廻り始めたのだ。