60,遠回り
エリックがいつものように校舎の補修点検をしていると、いつの間にか見慣れてしまった栗色の髪の女子生徒が音楽室に向かうのが見えた。
「…随分早いな」
早朝の学校。授業開始時間まで大分あるから、暖房もつけられていないはず。
時間を確かめようとポケットに手をいれかけて、エリックは懐中時計を手放したことを思い出した。
「…そうだった」
何度も直しながら長いこと持っていた懐中時計は、つい数日前にソフィアにあげたのだ。
望めば大概のものは手に入るだろうに、彼女は武骨な古ぼけた懐中時計を大事そうに受け取ってくれた。
それが思いの外、嬉しいと感じるとは…。
今もきっと、彼女は懐中時計を側に置いていてくれるのだろう。
目覚めれば、教えた通りにネジを巻き、針を合わせる。
数ヶ月後、どんな形でこの関係が終わるかは分からないが、あの懐中時計が少しでも彼女の役に立ってくれればいい。
「おっ、…来たな」
エリックの視線の先には、ソフィアの婚約者であるビクターがいた。
彼もまた、早朝に鍛練することがあった。
ソフィアがこの事を知っているのかは知らない。
「…」
エリックは、廊下に作業中の看板を置いていた。
そうすれば、あの王子はこの廊下を通れずに、遠回りするしかない。
この廊下を使わずに、彼の教室へ行くためには、音楽室の前を通る必要がある。
「さて…」
窓枠の点検をしつつそれとなくビクターの動きを追っていると、予想通り、音楽室の前で立ち止まる姿が見えた。
しかし、教室内には入らず、直ぐにその場から立ち去った。
…これで、好感度とやらは上がった…か?
早朝の音楽室でダンスの練習をしている姿を見た。
これで少なくとも、ティファニー・アンブローズが舞踏会を楽しみにしていると、印象付けることは出来たはずだ。
『ねぇ、エリック。私気付いたの。ダンスは、剣術と同じだって!』
『…何を突然』
『一度でも一緒に踊れば、その人がどんな人かは分かってしまうものなのよ!』
『それがたとえ、ステップが一種類しか踏めない奴でもか?』
『うん。それだけで充分』
『へー、それはそれは。じゃあ、俺とのダンスでは何が分かったんだ?』
『内緒!』
屈託無く笑って言ったオレンジ色の瞳の少女のことを思い出す。
「さて、舞踏会はどうなるんだかな」
これくらいしかしてやれないのがなぁ。
看板を回収しながら、エリックは呟いた。




