46,悪役の練習
手にしたワイングラスの中身を、手首を使ってぶちまけた。
勢いよく飛ばされた水は、放物線をえがきながら狙った服をびしゃりと濡らす。きれいな服は濡れて台無しになった。
「…ほら、これで完璧」
私は、悪役令嬢の笑みを浮かべ…。
「あぅぅ~」
胃が痛くなった。
「…なにやってるか、聞いてもいいか?」
いつの間にか、背後に立っていたエリックが聞いた。
「エリック…」
「ほら、泣くな。トルソー相手に」
エリックがハンカチを差し出してくれたけど、まだ涙は流してない。
「大丈夫。まだ泣いてないよ! やっと、泣かなくても出来るようになったの」
「…これで何回目だったんだ?」
「えっと、五回くらい、かな…」
「…」
旧校舎の家庭科室の中で、エリックが遠い目になった。
「これも、イベントの練習か…?」
とりあえず、休憩しろと言われたので、手近な椅子に座る。
それでも、まだ練習するつもりでいた私がワイングラスを離さずにいたら、なぜかエリックに取り上げられてしまった。
「エリック!」
「まずは休め」
頑張った運んだトルソーも下げられ、エリックが手早くお茶の準備を始めた。
「…年末の舞踏会があるでしょ」
「あぁ。毎年、生徒が帰省する前に、大規模なパーティーをやるよな」
「うん。…そこで、私はティファニーちゃんの純白のドレスに赤ワインっぽいものをぶちまけるの…」
何度も旧校舎に入り浸っているから、常備されるようになったお茶セット。
今日は、家庭科室なのもあって、すぐに紅茶を入れてくれた。
お礼を言って、一口飲む。
寒くて冷えた体がほっと緩むのを感じた。
「その練習か? 何十回もする必要はないだろう」
エリックも椅子に座り、背もたれに寄りかかって自分の分を飲む。
…五回以上練習してたの、ばれてた…。
「うん。ドレスにワインをかけるのは、ね」
胸元にバシャリとかける。
至近距離で無防備な相手にかけるのだから、そんなに難しいものではない。跳ね返りも、そんなに心配する必要はないし。
「ただ、舞踏会の中盤でティファニーちゃんのドレスにワインをかけなくちゃいけなくてね」
舞踏会で、ビクター様にドレスを褒められたティファニーちゃんに嫉妬して、ソフィアはそんな行動に出た。
ティファニーちゃんは、ショックで舞踏会から姿を消す。
「ティファニーちゃんのドレスを汚したあと、ソフィアは何食わぬ顔で舞踏会の会場に戻るの。それで最後にもう一度ってお願いして、ビクター様と踊ってもらう」
そのときのソフィアは、ティファニーちゃんのことなど忘れている。
ただ、ビクター様とのダンスを楽しみ、みんなの羨望の眼差しを受けて上機嫌。
暗いところで、隠れるようにうずくまるティファニーちゃんとの対比がすごかった。
「あぁ、そうか…」
エリックは察してくれたようだ。
「…今まではティファニーちゃんに嫌がらせをしたあとは、すぐにここに逃げ込めたけど、次のイベントは違う。すぐにビクター様と踊らなくちゃいけない…」
私がこっそり泣いている暇は、ない。
にっこにこの満面の笑みで、足取りも軽く踊らなくてはならないのだ。
「だから、練習が必要なの。ティファニーちゃんのドレスを汚しても、泣かないように」
イメージトレーニングは大事!
何度もティファニーちゃんに見立てたトルソーで練習すれば、きっと本番も出来るはず。
エリックもこれで納得してくれただろうと、ワイングラスに手を伸ばすも、遠ざけられてしまった。
「理由は分かった。でも、練習と実戦は違うだろう」
私が家から持ってきたワイングラスを、エリックが持ち上げる。
「…他に練習のしようがないよ」
何回も何回も、頭のなかであの場面を再生して、体に覚え込ませる。
「このイベントは、ティファニーちゃんがビクター様と踊れる大事なイベントだから、失敗は許されないの」
ドレスが汚れたことで、ティファニーちゃんは人目を避けて帰ろうとする。そこで偶然ビクター様に見つかり、なにかを察したビクター様はティファニーちゃんと踊るのだ。
音楽もない、月明かりを頼りに踊る二人。
絶対にはずせないイベントだ。
「…まぁ、そうなんだろうけど」
このゲームはティファニーちゃんが入学して一年間の物語。
もう物語も佳境に入ってきているとエリックも分かっているのだろう。
「…俺で練習してみるか?」
エリックが言った。
「どういうこと?」
「俺に水をかけてみるほうが、練習になるだろう」
「!」
なんてことのない風にエリックは言うけど。
「駄目だよ!」
私は即答した。
「なんでだ?」
「だって、濡れるよ! 冬だし、冷たいし。服が濡れちゃうし! 濡れたら寒いよ!」
「ほぼ同じことしか言ってないな」
なんだか楽しそうな顔だ。
「言い返すようであれだが、舞踏会はもっと寒くなってからやるよな。その上、ドレスを着た女子生徒。さらに、赤ワイン」
「うっ!」
「対人で練習しないと、絶対にソフィアは慣れないと思うけど?」
「あぅっ」
こんなこと慣れたくない。
けど、慣れなくちゃ国が滅ぼされてしまう。守れない。
「これは作業着だから水に濡れても別に平気だし、なんなら生地が分厚いから、寒くもないな」
追い討ちをかけるようにエリックが続ける。
「何十回もやってあの程度だと、何百回とやる必要があるな。そんな時間をかけてられないだろう」
「くぅっ。確かに…」
あくまでもこのイベントは、最後のイベントに向けての伏線。
ここの練習ばかりをしていると、最後のイベントが間に合わない。
「でも、エリックはいいの?」
「別に、ワイングラス一杯分濡れるくらい、大したことはない」
この旧校舎は、用務員さんが住んでいる場所からは、少し遠いはず。でも、着替えとか持ってるのかも。
私は一度深呼吸をして、覚悟を決めた。
「じゃ、じゃあ一回だけ。練習に付き合ってくれる?」
「一回だけ?」
「一回だけ!」
それ以上は、絶対無理だから!!




