止まらぬ怒り
男たちが倒れ、静寂が戻ったそのときだった。
――ギ……ィ……
また、扉が開く音。
鈍く、いやに重たく響いたその音に、ミコトが顔を上げる。
リナが――震えた。
明らかに、さっきまでとは違う反応だった。
「……あいつ……」
階段の上から、ひとりの男が姿を現した。
太った体。だらしなく垂れた目。
腰には鞭。手には鍵束。
「なんでお前、立ってるんだよ?」
ぬっと現れたその男は、あくびを噛み殺すように言った。
「まぁいい。また切ればいい。何度でもな」
ミコトが固まる。
リナの目が見開かれる。
男は続けた。
「“あんなに”可愛がってやっただろ。
子どもも二人、産ませてやったのによぉ」
ミコトの頭が、真っ白になる。
「……子ども?」
男は唇を歪めた。
「抱かせてもやらなかったけどな。
産ませた途端に売ったよ。
ギャンギャン泣いてうるせぇし、
金にもなるしよぉ」
リナの顔が、苦しげに歪む。
「お前の腱切ってやったのに……
まったく、世話が焼けるぜ。
今度は、両足まとめて切り落とすか?」
ミコトの中で――何かが爆ぜた。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと深く、
もっと根源的な、
“命を守る者”としての本能が――限界を超えた。
彼女の背後に、空気の歪みが生まれる。
地面に、淡い紋様が浮かび上がる。
それは、癒しの力が“怒り”という形をとったときだけ現れる、封印の陣。
「リナさん……ごめん、知らなかった……」
ミコトが呟く。
その声は、震えていた。
けれど――
その手は、確かに前を指していた。
「これが、あなたの“答え”なんですね」
男が顔をしかめた。
「は? なに言って――」
その瞬間だった。
ズゥン――!!
空気が、重力を持ったように沈む。
男の膝が、がくんと折れる。
「……ッ、なんだ、こ……れ……っ」
肺が潰れたように、呼吸ができない。
心臓が冷たくなっていく。
身体の中から、命がこぼれ落ちていく。
「言ったでしょう」
ミコトが、静かに歩く。
一歩ずつ、ゆっくりと。
「“完全に止める”って」
男は呻き、爪で床を引っかきながら、必死に後退る。
しかし、呼吸ができない。
立ち上がることもできない。
ただ、ミコトの足音が、終わりの鐘のように迫ってくる。
ミコトは、しゃがみ込んで男の顔を見下ろした。
「子どもを産ませた?」
「売った?」
「腱を切った?」
「それが、愛情だと?」
唇が、かすかに震えていた。
それでも、目はまっすぐに、静かに、怒りで澄んでいた。
「“痛みを知る者”だけが、人を癒せると思ってた。
でも今、違うってわかった」
「“あなたみたいな人”がいるから、
この世界は、ずっと……ずっと壊れてたんだ」
彼女は、手を差し出した。
手のひらに、淡い光が宿る。
でもそれは、癒しではない。
“静かな、終わり”の光だった。
「――リナさんが、子どもたちが、
二度とあなたを思い出さなくて済むように」
「その“記憶ごと”、消えて」
光が男を包み――
彼の全てが、音もなく、跡形もなく消えた。
その場に、静けさだけが残された。
リナは、座り込んだまま、涙を流していた。
言葉にならない声を、喉の奥で噛み殺して。
ミコトが、そっと近づき、手を差し出す。
「……行こう。ここはもう、終わったから」
リナは、震える手で、その手を握った。
牢の奥――
遠くで見ていた子どもたちが、今度こそ、わずかに顔を出していた。
火の粉が、ゆらりと舞った。
ようやく、長い長い夜が終わろうとしていた。