また君に会うために
王宮・レイガ私室――朝
柔らかな朝陽がカーテンの隙間から差し込んでいた。
レイガはゆっくりと目を覚ます。
隣にあるはずの温もりが――そこになかった。
「……ミコト?」
体を起こし、周囲を見渡す。
しかし、部屋には誰もいない。
ふと、テーブルの上に目が留まる。
そこには――焼きたての香りが残る、小さなクッキーと、一通の手紙。
レイガは静かに立ち上がり、手紙を取った。
封を開けるその指先が、わずかに震える。
『レイガへ』
あなたと過ごした夜、私はとても幸せでした。
でもきっと、私がここにいる限り、あなたは“王子”としての責務から逃れられない。
“私”を選ぶことが、誰かを傷つけることになるのかもしれない。
それが怖くて、何も言えなかった。
でも、今なら少しだけ、勇気が出せそうです。
私は旅立ちます。
このまま、誰かに守られるだけの“癒し手”でいたくない。
もっと、誰かを救える力を持ちたい。
そしてまたいつか、あなたに――
“隣で笑える自分”で会いたいから。
ごめんね、直接行ってきますの挨拶をしなくてー
きっと泣いちゃうから。
でも、あなたならわかってくれると思った。
クッキーは、この前の約束。
上手に焼けたんだ。
レイガ、元気でいてね。
――ミコト
レイガは手紙を静かに読み終え、目を伏せた。
指先に残る紙の感触と、かすかな甘い匂いが、やけに鮮明だった。
「……そうか。行ったんだな」
その表情は、どこか穏やかで、そして少しだけ寂しそうだった。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
その先にある空の向こうに――彼女がいるのかもしれない。
「……今度こそ、“行ってこい”って言えるようになりたい」
ぽつりと、呟いた。
そして、ひとつだけクッキーを口に運ぶ。
ほろりと崩れる食感と共に、涙が――ほんの少しだけ、滲んだ。
ーーーーー
朝霧がまだ地面に漂う別邸の中庭。
「……本当に、行くんだね」
背後から声がした。
振り返れば、カナトが立っていた。
いつもの軽装ではない。旅用に仕立てた防具に身を包み、肩には剣。けれど、表情はいつものように軽い。
「今さらやめるとか言ったら、泣いてくれる?」
「泣かないけど、怒るかも」
「ひっでぇな。俺、命懸けで護る気満々なのに」
そう言って笑ったカナトは、ポケットから何かを取り出した。
手のひらに乗っていたのは、小さな――木彫りの護符だった。
「これ、ばあちゃんが作ったやつ。
直接渡したかったけど、泣くからってさ
旅のお守りだって。ほら、受け取りな?」
ミコトは、そっと手を伸ばす。
木彫りには、小さな花と“羽”が刻まれていた。
「……ありがとう」
「ま、でも本音言えばさ。俺、国を飛び出すとかどうでもいいんだよね」
「え?」
「俺はただ――“ミコトが笑える場所”にいたいだけ」
その声は、いつになくまっすぐで。
ミコトは一瞬、目を伏せたあと、小さく微笑んだ。
「私、あなたのそういうとこ、嫌いじゃないよ」
「ん? “好き”って言ってくれていいんだよ?」
「言わない」
「ちぇーっ」
そんな軽口の裏で、確かに心が通っていた。
ふたりの間に流れる空気が、やさしくて、そして少し寂しかった。
その時――背後から、重い足音。
現れたのは、シオンだった。
「……お前に、預けたいものがある」
そう言って近づいたシオンは、カナトに一本の剣を差し出した。
かつて、自身が使っていた騎士団隊長時代の剣だった。
「これは、隊長としての“重さ”だ。だが、お前はその肩書きを捨てた。だからこそ――お前なら、この重さを背負える」
カナトは、しばらく剣を見つめていたが、やがて笑って首を振った。
「……やっぱ俺、肩に乗るもんより、手に握るもんの方が性に合ってる」
「そうか」
「でも――その剣、使ってくれる人いるでしょ?」
シオンの眉が僅かに上がる。
「……俺はもう、騎士団を引退した身だぞ」
「でもさ、父さん」
カナトの声は、どこか誇らしげで。
「俺がいなくなるなら、誰が王都を護るの?」
「……!」
「この国はまだ、誰かにちゃんと護ってほしい。
だから俺は、頼れる“最強のじじい”に戻ってもらうしかないって、そう思ってる」
しばしの沈黙――
シオンはその剣を静かに握りしめた。
「……馬鹿な息子を持ったな、俺は」
「それ、褒め言葉?」
「さぁな」
そのやりとりを見ていたミコトは、胸が熱くなるのを感じていた。
カナトは背を向けながら、小さく手を振る。
「よし、行くか。“俺の自由”を、探しに」
そして、振り返らずに言った。
「王都は、父さんに任せた」
シオンは、息をひとつ吸い込み――
「……任された」
その声には、久しぶりに“騎士団長”としての風格が戻っていた。
中庭の霧が晴れていく。
旅立つ者。残る者。
それぞれの背に、誓いと想いを抱いて――朝日は、ゆっくりと昇っていった。