誰のものでもない、意志
翌朝早く、レイガは国王に面会を求めた。
王座の間にはまだ朝の冷たい空気が残っており、重厚なカーテンの隙間から、かすかに陽が差していた。
レイガはひざまずき、静かに報告した。
「癒し手・ミコトが、“旅に出たい”と望んでいます。
……今の自分の力では足りないと感じ、多くの命に触れ、学びたいと」
国王は黙って話を聞いていた。
レイガの真っ直ぐな言葉を否定することはなかった。
だが、そのまま、長い沈黙が続いた。
そして、国王は静かに言った。
「……すぐには返事ができない」
レイガは何も言わず、ただ深く頭を下げた。
***
数日後。
レイガとカナトは、南方の辺境地帯へと公務に出向いた。
災害の復旧支援と視察のため、しばらく王都を離れることとなった。
彼らが不在の王宮では、静かに、しかし確実に“重鎮たち”が動き出していた。
国王の名代による会議が開かれたのは、レイガとカナトが王都を離れた翌日のことだった。
癒し手ミコトを国外に出すべきか――
一見「協議」と呼ばれたそれは、実質的には既定路線の“押し切り”だった。
癒しの力を国外に出すことへの懸念。
国威の低下。
他国への技術流出とみなされる危険性。
政治的混乱の種。
あらゆる“理由”が飛び交い、ミコトという存在は、
もはや“人間”ではなく“国家資源”として扱われ始めていた。
そして、ある者が言った。
「いっそ、第一王子レイガ殿下と婚姻させればよいのでは?」
誰かが息を呑んだ。
しかし次の瞬間、別の者が頷く。
「確かに。妃とすれば、旅にも出せまい」
「民衆も納得する。むしろ支持されるだろう」
「癒し手が王族に入る……これは国家としての威信だ」
「妥当な手段だ。よし、決を取ろう」
わずか十数分のうちに、
本人たちの意思を一切無視した“婚姻”が、事実上の“国の決定”として可決された。
その場で唯一、国王だけが静かに異を唱えた。
「……子らの意思を問わず、婚姻を定めるなど……それは、“政治”ではない。
それは――ただの“封じ込め”だ」
しかし、その声は多数決の中にかき消された。
王ですら、ひとりでは止められなかった。
***
数日後。
ミコトの元に、正式な通達が届いた。
“第一王子レイガ殿下との婚姻が決定されたことを通知する。
今後は王宮側との連携のもと、儀礼・行動・公務の調整が開始される”
彼女は――呆然と立ち尽くしていた。
(決まった?……わたしの、知らないところで?)
(わたしは、“行きたい”と願っただけなのに)
言葉が出なかった。
怒りも悲しみも、何も湧いてこなかった。
ただ、“すべてが仕組まれていた”という現実だけが、心にぽたりと落ちていった。
***
王都に帰還したレイガがその話を耳にしたのは、翌朝だった。
報告を聞いた瞬間、部屋の空気が一変した。
護衛たちが思わず一歩下がるほどの、張り詰めた沈黙。
レイガは即座に玉座の間に向かった。
「どういうことですか」
怒気を孕んだ声で、国王を真正面から見据える。
「どうして、“婚姻が決定された”んです。
……どうして、本人たちの意思を問わずに?」
国王は苦しげに目を伏せる。
「……国の、決定だ」
「答えになっていません」
レイガは一歩踏み出した。
「これは政治ではない。押し付けです。
“癒し手を妃にすれば動けなくなる”――それが、理由でしょう?」
誰も答えなかった。
レイガは踵を返し、会議室へと向かう。
そこには、あの日ミコトの旅を否定した、重鎮たちの顔が揃っていた。
彼は、正面に立ち、まっすぐに言った。
「本日をもって、癒し手ミコトは――私の“婚約者”であることを了承する」
ざわめく声。
だが、その次の言葉が場を支配した。
「ただし――」
レイガは一瞬、周囲を睨むように見渡し、堂々と言い放った。
「私の妻になる者の“自由”は、私が決めます。
そして、彼女には“旅に出る自由”を認めます」
「それは、この国の未来にとって――
“極めて有益な旅”となるでしょう」
沈黙。
重鎮たちは声を失った。
誰も、第一王子の“許可”という手段を想定していなかった。
その日、“王家の力”によって、ミコトの自由が取り戻された。
皮肉にも、彼女を縛るための“婚姻”が、自由の盾となった。
レイガの瞳は、誰よりも冷静で、
誰よりも、怒っていた。
(彼女の意志を、俺が守る。
この国に奪わせるものか――)