心が届かない日々に
あれから2ヶ月が過ぎようとしていた。
何度レイガに抗議をしても"話にならない""承諾できない"そればかりだった。
ーそんなある日ー
それは、静かな部屋だった。
いや――静かすぎた。
朝も、昼も、夜も、ミコトの部屋からは何の音もしない。
護衛が食事を運び、テーブルに置き、三時間後に回収する。
皿は――いつも、手つかずのまま戻される。
「……本当に、召し上がっていないのですか?」
「はい。何も……お水以外は」
王宮の中で、じわじわと広がっていく噂。
『癒し手の少女が、断食をしている』
『ずっと部屋に閉じこもっている』
『王子と喧嘩したらしい』
***
「なぁ」
書類をめくるレイガに、カナトがぼそりと声を落とす。
「……あいつ、本気だぞ?」
「……何の話だ」
「とぼけんなよ。ミコトだよ」
レイガの手が止まる。
「……食べてない」
「知ってる」
「……部屋で全く動かないらしい」
「それも知ってる」
カナトは、ため息混じりに椅子へ身を投げた。
「お前、何回“話にならない”って言った?」
「……それは」
「何回、あいつの“気持ち”を見ようとした?」
沈黙。
「なぁ、レイガ。あいつさ、“本気”で拗ねてんだよ」
「……拗ねて、って」
「そう。“子どもみたいに”って意味でな。
でも、そこには“信じたい誰かに拒まれ続けた”って、積もったものがあるんだ」
「……」
「だから、あいつ今――お前が折れるまで、一歩も動かないぞ?」
***
その夜、ミコトは毛布に包まりながら、天井を見ていた。
(もう……何日目だろう)
頭は重くて、体もだるい。
でも不思議と、空腹感はなかった。
「……別に、私は死なないし」
ぽつりと呟く。
「ちょっと、“話を聞いてほしい”だけだったのに」
(レイガの馬鹿)
涙は出なかった。
あまりにも、心が遠すぎて。
***
その夜遅く、レイガは部屋の前で立ち止まり、扉に手をかけた。
けれど――開けられなかった。
(怖い)
あの子の目を見るのが。
自分を信じて、信じて、信じて、
それでも踏みにじられた瞳。
(……どうすれば、俺に、話してくれる?)
(あの笑顔を、また見せてくれる……?)
中では、ミコトがまた小さく呟いていた。
「……ねぇ、アルファード。
これ、間違ってたのかな……
子供っぽいって馬鹿にするかな?」
「私は、ただ“信じたかった”だけなのに」
その声は届かない。
でも確かに、扉の向こうの誰かに刺さっていた。
***
その日、いつものようにミコトは部屋の隅で、毛布に包まっていた。
食事はもう数日、口にしていない。
体は重く、けれど心は、もっと重かった。
――そのときだった。
バンッ、と勢いよく扉が開く音が響く。
ミコトは、ゆっくりと顔を上げる。
「……」
そこに立っていたのは、カナトだった。
「……来たよ」
ミコトは目を伏せる。
「帰ってください」
「やだ」
即答だった。
カナトは、いつもの軽さを消した顔でゆっくり近づくと、
しゃがみこんで、ミコトを見つめた。
「……無理矢理だって言われてもいい。
でも、お前……このままじゃ、本当に壊れそうだ」
ミコトは言葉を返さなかった。
代わりに、目の前の青年を――
どこか、遠くの存在のように見つめた。
「ここでなら、誰にも迷惑をかけません」
「迷惑なんて、一度も思ったことない」
沈黙。
やがてカナトは、小さく息をついて言った。
「……じゃあ、“俺のわがまま”だ」
そのまま、カナトはそっと毛布ごとミコトの体を抱き上げる。
周囲の護衛が一斉に動く
「隊長やめてください。レイガ王子の許可が」
「うるせーよ、俺が隊長だよ、
俺はこいつを守らなきゃいけねーし、
こいつは将来の俺の嫁候補だ」
「っ……!」
ミコトの体が、ぴくりと強張る。
「……ここで何も言わなくなったお前を、
“見てるだけ”なんて……俺には、できない」
その言葉に、ミコトは言葉を失う。
カナトの腕の中で、ただ静かに目を閉じた。
それは、拒絶ではなかった。
でも――受け入れでもなかった。
ただ、“仕方なく任せた”だけの選択。
それでも、彼女の頬をかすめたのは――
風の匂いがする外の空気だった。
***
別邸の門が開いたとき――
そこには、フキとシオンが立っていた。
フキはミコトの姿を見るなり、声も出さずに駆け寄った。
「……ミコト……やっと、帰ってきてくれたのね……」
ミコトは、ほんの少しだけ目を伏せて囁いた。
「……ただいま」
その声は、かすれていても、確かに――生きていた。
***
「……なんだと?」
執務室にいたレイガは、報告を受けた瞬間、手にしていたペンを止めた。
「癒し手様が、別邸に……?」
「はい。騎士団長カナト様が、強引に王宮より連れ出したとのことで……」
沈黙。
「護衛たちが止めたのですが、彼は、“俺のわがままだ”とだけ言って……」
「……“俺のわがまま”……か」
レイガは小さく呟いた。
拳が、机の上でかすかに震える。
(あの子が、口を閉ざしても、動かなくなっても……
俺は、“王族”の顔をして、“守る”という名の命令しか出せなかったのに)
(カナトは――)
「……っ」
次の瞬間、椅子が音を立てて引かれた。
「馬車の用意を。……すぐに、別邸へ向かう」
「はっ、かしこまりました!」
レイガの足は、廊下を音を立てて進む。
いつも冷静で、誰よりも静かだった彼が――
今は息が乱れ、足元さえ定まらない。
胸の奥が焦げるように痛い。
何も言わずに部屋を出ていったミコト。
「話にならない」と何度も突き返したあの日々。
そして今、“誰かの手によって”取り戻された少女。
「……俺は、何をしていた……」
呟きが風に溶けたとき、
レイガの背中からは、もう“王子”の影など消えていた。
ただ、一人の人間として――彼女のもとへ向かっていた。