夜の風、記憶の墓
眠れない夜だった。
いや、もう2週間まともに寝れていない。
ただ理由なんて、いらなかった。
レイガのいない部屋は、とても広く胸の奥がざわついて、ベッドの上では呼吸がうまくできなかった。
手にしていたのは、革張りの手帳。
アルファードが遺した、たった一冊の記録。
何百回と読んだはずなのに――
それでも、今夜もまた、そのページを開いていた。
《この命が尽きるまで、君が穏やかに笑えますように。》
「……ずるいなぁ。そんなふうに書かれたら、忘れられないじゃん……」
ミコトは手記を胸に当て、ふぅとため息を吐いた。
そのまま、そっとレイガの部屋のベランダへ出る。
風が頬を撫でていく。
空は雲ひとつなく、月だけがじっとこちらを見ていた。
「……そういえば、あのときもここから……逃げようとして……怒られたっけ?」
当時は、あんな高さ無理だと思ったのに。
今なら――飛び降りられそうだった。
「……死にたいわけじゃないんだよ? ただ、もし飛び降りられたら……」
ミコトは少し笑って、囁いた。
「――アルファードに、会いに行こう」
そう言って、手記を置くとひらりと柵を越えた。
***
その頃、別の棟の護衛詰所では――
「……ミコト様の姿が見えません!」
慌てて駆け込んできた若い護衛に、ベテランが立ち上がる。
「……なんだと……!? どこにもいないのか!?」
「はい、ベランダの扉が開いたままで……靴がありません。代わりに……これが」
差し出されたのは、革張りの手帳。
ミコトが大切にしていたものだった
それを見た瞬間――
誰もが、最悪の可能性を思い描いた。
***
その日俺とカナト率いる騎士団は、2週間ぶりに、ようやく王宮へ戻れた。
山を越え、国を跨ぎ、溜まりに溜まった公務を片づけ――
やっと、彼女に会える。
扉を開けた瞬間、ミコトは振り向いて笑った。
「おかえり、レイガ」
その笑顔に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
本当はもっと早く帰ってきたかった。
でも、どうしても無理だった。
「……すまない。待たせたな」
謝罪の言葉に、ミコトは首を横に振る。
「大丈夫。気にしないで? ね、あなたは忙しい人なんだから」
――気にしないで。
そう言って、彼女は変わらぬ笑顔を見せた。
***
その日の夜だった。
「……レイガ様!!」
書類に追われていると、護衛が血相を変えて飛び込んできた。
「ミコト様が……いません!」
「……は?」
「ベランダの扉が開いていて……お部屋にも、どこにも……」
言葉が途中で切れた。
その手に握られていたのは、一冊の革張りの手帳。
レイガの瞳が、見開かれる。
「……それは……っ」
彼女が大切にしていたものだった
ベランダにぽつりと置かれていたという。
「ミコトが……いない?」
「は……はい。靴もなく……門番も、誰も通った覚えがないと……」
思考が真っ白になる。
何かがおかしい。
あの笑顔は、あんなに優しかったのに。
「……探せ」
「はっ……!」
「城の中、外、森、別邸、墓地、街のすべてをだ。
――絶対に、見つけろ」
声が震えた。
あの子は“逃げた”わけじゃない。
けれど、きっと――誰にも言えないまま、ひとりで何かを抱えていた。
そう、気づいたときにはもう、姿はなかった。
――ぱら、と護衛が持ってきた革張りの手帳を何気なく、指がページをめくった。
そして、視界に飛び込んできたのは、たった一行の筆跡。
《君がまた、笑えますように。》
「……っ」
レイガの呼吸が、一瞬止まった。
(……誰だ、これを書いたのは)
めくる指が、自然と止まらなくなる。
《この国の人たちはおかしい。
なぜ、貴族だの平民だのと区切る?》
《命に重さの差なんて、あるはずがないのに》
真っすぐな言葉だった。
正面から世界を睨んでいるような、痛烈な叫び。
そして、何度も繰り返される名――
“ミコトっていうんだって”
“すごく優しい。なんであんなに怖がらないんだろう”
“……かわいい”
「……っ」
何かが胸の奥で軋む。
読み進めるほどに、その筆跡は、彼女を知っていく。
“癒しすぎると倒れるって言ってた。
そんなの、許されるわけないだろ”
“だったら、俺が守る。絶対に守る”
“お前は、生きてるだけでいい”
その言葉に、レイガは震える指でページを止めた。
(……俺は……)
俺は、あの子にそんな言葉を――
言ったことが、あっただろうか。
最後のページに、何かが挟まっていた。
古びた一枚の紙。筆跡は、震えていた。
“君が封じられたと聞いた。
村が燃やされたのも、父が命じたと”
“もし、もっと力があれば。もっと声を上げていれば”
“――そんな世界、壊したいとすら思った”
「……王族……?」
読みながら、レイガの顔から色が消えていく。
“君が出てきた時、恥じる国じゃないことを”
“君がまた笑えますように。
――そして次こそ、僕が君を救うよ”
最後の一文に、胸の奥がぐしゃっと潰れた。
“君は、僕の初恋でした”
“そして初めて、僕と同じ思想を持った、たったひとりの人間だった”
――パタン。
レイガは、ゆっくりと本を閉じた。
指先が、かすかに震えている。
「……こんなやつが……過去にいたのか」
声はかすれていた。
「王家に……こんなやつがいたなんて……」
怒りでも、羨望でもない。
混じり合った感情の正体は、たぶん――悔しさだった。
「……でも、もう……いないんだな」
レイガはゆっくりと顔を上げた。
あの夜の笑顔が、頭から離れない。
(“気にしないで?”……じゃねぇんだよ)
今、彼女がどこにいるのかもわからない。
この手帳を、どんな気持ちで置いていったのかも。
でも――
「……だったら、今度は俺が」
レイガは、そっと手記を抱き締めた。
「俺が、あいつを救う。何度でも」
***
その頃、王宮のはずれ――
森の奥にひっそりと立つ、ひとつの慰霊碑の前で、ミコトは座り込んでいた。
「アルファード久しぶりだね。
あの頃は、あそこから逃げ出すのも怖かったのに。
今なら、こんなふうに、ひとりでも歩いて来れるんだよ」
月の光を仰ぐ。
「……でもね。なんか、またちょっと、怖くなってきたんだ」
「また、みんな私を置いていくのかなって。
笑ってないと、壊れそうで。
だから……会いに来ちゃった」
夜風が静かに吹く中、ミコトは目を伏せた。
「――ねぇ。
どうやったら……死ねるのかな?」
ぽつりとこぼれた言葉は、すぐに風にさらわれていく。
「……もう、ひとりぼっちは怖いよ」
「一人で過ごすのも、夜を越えるのも……全部、もう、怖い」
ミコトの肩が、かすかに震える。
でも涙は落ちてこない。泣き方を、忘れてしまったかのように。
「アルファード……」
名を呼ぶ声は、どこか子どものようだった。
「ねぇ……助けてよ」
「お願いだから、今だけでいいから――
誰か、そばにいてよ……」
そう呟いたそのときだった。
「――大丈夫だ」
静かに、でも確かに。
背後から、低くて、優しい声がした。
ミコトの肩が、びくりと跳ねる。
振り返ることが怖くて――でも、どうしてもその声を無視できなくて。
ゆっくりと、首を動かした。
月の光の中に、息を切らしたレイガが立っていた。
その顔は汗に濡れ、髪は風に乱れ、
それでも――まっすぐに、ミコトだけを見ていた。
「……すまない。遅くなった」
ただ、それだけだった。
責めない。問い詰めない。
ミコトの“心の声”だけを聞き取って、たった二言で包み込んだ。
ミコトは言葉を失ったまま、目を見開いていた。
「……なんで……」
ようやく出たのは、震える声だった。
「なんで……ここが、わかったの……?」
レイガは、ゆっくりと歩み寄りながら答えた。
「お前が、“ここに来るしかなかった”って、気づいたからだよ」
「……俺も、同じように、逃げ出したくなった場所がある。
でも、お前にだけは……そこに一人で立たせたくなかった」
その言葉に、ミコトの瞳が揺れる。
(……ああ)
この声を、この言葉を――
本当は、ずっと、待ってた。
「レイガ……」
名前を呼んだ瞬間、ミコトの足元がふらりと揺れる。
レイガはすぐに駆け寄り、その体を抱きとめた。
「……もういい。もう一人にしない」
「だから、帰ろう。な?」
ミコトの小さな嗚咽が、レイガの胸に染み込んでいく。
必死で押し殺していた涙。
もう誰にも届かないと思っていた心の声。
「……よかった……」
レイガはその額にそっと触れながら、静かに囁いた。
「泣けるうちは、大丈夫だ」
そして、ふと体が傾ぐミコトを、レイガはためらいなく抱き上げた。
「……歩けないだろ?」
問いは要らなかった。
ミコトは小さく、首を振っただけだった。
そのまま、細い道を歩き出す。
レイガの足音と、夜風と、月の光だけが世界を満たしていた。
しばらくして――木立の間から、もうひとつの足音が響いてきた。
「……ミコト……!」
駆け寄ってきたのは、カナトだった。
肩で息をしながら、焦燥と安堵が入り混じった表情で二人を見つめた。
けれど――
泣いているミコトを見た瞬間、その足が止まる。
カナトは、一歩だけ近づいて、そこで足を止めた。
何も言わなかった。
「……カナト」
レイガが静かに呼ぶと、カナトは小さく頷く。
「……あぁ。……わかった」
でもその目は、どこか切なかった。
ミコトを抱きしめたくて、言葉をかけたくて――
それでも、“今それをしてはいけない”と、カナトは本能で理解していた。
涙を流すミコト。
その涙を、誰にも見せたくないように、レイガの胸に顔をうずめる姿。
カナトはそれを見て、ただ、一歩引いて見守った。
“それは、何か聞いてはいけない気がして”
だからカナトは言わなかった。
「どこに行ってたんだ」とも、
「無事でよかった」とも、
「寂しかった」とも。
言葉じゃないものが、ちゃんと伝わっていた。
ミコトにも、レイガにも、カナトにも。
三人の間に流れるのは、風と、夜と、
そして“それでも生きている”という、かすかな温度だけだった。