初恋の名を、君に
王宮・西棟の医務室。
白いカーテンがゆらゆらと揺れている。
ベッドに座るミコトの体には、もはや傷はない。だが、その瞳には少しだけ倦怠の色が滲んでいた。
「……もう、痛くもないの。お願い、別邸に戻りたい」
何度目かのその訴えを、レイガは無言で聞いていた。
その腕には分厚い資料が抱えられ、部下の報告も山積みになっていたが――
ミコトの言葉だけには、即座に返した。
「……却下だ」
「っ、どうして。もう大丈夫だって、診療師も……!」
「“もう大丈夫”の基準は、俺が決める」
レイガの声は冷たく、しかしどこか焦燥を滲ませていた。
その視線には、あの日の惨状が今も焼きついているのだろう。
「お前をまたあんな目に遭わせるくらいなら、国ごと潰したほうがマシだ」
「っ……」
ミコトは言葉を失った。
「……ここには、日々、護衛が十人以上ついてる。誰かが不用意に近づけば、即刻拘束される。
もう誰も、お前に手出しはできない。それが――“安全”ってやつだ」
「でも……!」
「帰りたがるな。今は“ここが”お前の家だ」
その瞳は、まるで鉄のようだった。
どれだけ訴えても、今の彼の決意は揺らがない。
「……今度は、絶対に守る。もう、何があっても手放さない」
***
ミコトは言葉を失いながらも、諦めきれずに王宮内をふらふらと歩き――
その足は、自然と“あの場所”へ向かっていた。
広大な蔵書室。
王家の記録、過去の法律、戦争の記録、そして血統の系譜図。
「ここ……面白いかも」
最初は気晴らしだった。
でも次第に、ミコトはその知識に引き込まれていった。
そして――
ある日、彼女はひとつの巻物に目をとめた。
それは、二百年前の王家の家系図。
「……アルファード……?」
その名が、そこに刻まれていた。
“第四王子・アルファード”
目を見開くミコト。
そして、さらに小さな書棚の一角で、埃をかぶった革張りの手記を見つける。
表紙には、誰かの手による古い筆跡。
──『また、君に会える未来を願って』
ページをめくるミコトの手が震えた。
それは、確かに――アルファードの手によるものだった。
(……これ……全部、わたしのために?)
革張りの手記は、思ったよりも分厚かった。
ミコトは慎重にページをめくる。
──この国の人たちはおかしい。
そんな一文から始まっていた。
“なぜ、貴族だの、平民だのと区切る?”
“みんな同じ、人の子なのに。どうして命の重さに差をつけるんだ”
真っすぐな筆跡。少年らしい怒りと疑問。
ページをめくるごとに、その筆跡は少しずつ変化していく。
──今日、とても不思議な子に会った。
“可愛い女の子が来た。癒せるらしい。……ほんとに?”
“試すようなことはしたくなかったけど、水をあげてみたら、ありがとうって笑った”
“すごい。ちゃんと話せる。怖がってない。俺のことも、誰のことも”
ミコトは息を呑んだ。
──それ、あの日のことだ。
初めて王都の屋敷に連れて来られた日。
自分が“道具”として扱われ、怯え、孤独だった日。
その時、たった一人だけ――真正面から声をかけてくれた少年がいた。
“名前を聞いた。ミコトっていうんだって”
“あの子、すごく優しい。なんであんなに怖がらないんだろう”
“……かわいい”
ミコトの顔がかすかに赤くなる。
思わず目を逸らして、でもまた次のページをめくる。
“あの子、癒しすぎると倒れるって言ってた”
“そんなの、許されるわけないだろ”
“だったら、俺が守る。絶対に守り抜いてやる”
ページの端に、力強く記された文字。
“お前は、生きてるだけでいい”
その一言が、胸の奥でじんわりと熱くなる。
ミコトは本を胸に抱きながら、ぽつりと呟いた。
「……あのときの、言葉だ……」
――数年分の記録を読み終えた頃、ミコトはふと、ページの後ろに貼り付けられた一枚の古びた紙に気づいた。
それは、アルファードの最後の手記だった。
“君が封じられた、と聞いた。”
“村が燃やされたのも、父が命じたと……。わかっている。きっと僕のことも、恨んでいるだろう。”
“あの時、もっと力があれば。”
“あの時、もっと声を上げていれば。”
ペンは強く、乱れていた。
“君が不死だと知っていたら、僕はどうしていただろう。”
“人を癒して、命を救って、その報いが孤独や死なら――”
“そんな世界、壊してしまいたいと思った。”
ミコトの指が、微かに震える。
“でも君は、きっと……”
“それでも人を救おうとする。”
“だから僕は、残りの人生を君に捧げる。”
“君が帰ってくる未来を信じて。”
"君が出てきた時、恥じる国じゃないことを"
“どうか、この記録が、君に届きますように。”
“――君は、僕の初恋でした。”
“初めて、僕と同じ思想を持った、たった一人の人間だった。”
そして最後に一行だけ、震える筆跡でこう記されていた。
“心から愛していました。
君がまた、笑えますように。
そして次こそ僕が君を救うよ”
ミコトは、そのページを閉じられなかった。
手帳を抱きしめるように胸に当てて、小さく呟いた。
「……なんで……今さら……」
ぽた、と静かに、涙が落ちた。