それでも、私は癒し手だった
──王都全域に、新聞が行き交っていた。
『癒し手に救われず、幼子死亡――制度への不信と怒り、噴出』
その見出しは、雨のように広がった。
怒りが、失望が、希望に裏切られた痛みが。
市民の鬱憤は、ついに理性を越えた。
***
日没の鐘が鳴る頃。
癒し手・ミコトは、屋敷から忽然と姿を消した。
たまたまカナトもシオンも不在だった。
フキは拘束され――
抵抗は、一切なかったという。
そして数時間後。
王都中央、かつて処刑場だった広場に、民衆が集まりはじめた。
暗い夜空の下、松明に照らされた石畳の中央――
一本の十字架に、少女が吊るされていた。
手足を縛られ、両腕を広げられ、顔をうつむけたまま。
その姿を、群衆は怒鳴り声と罵声で包み込む。
「お前のせいで……!」
「癒し手? 笑わせるな! 神なら全部救ってみろよ!」
一つ目の石が飛ぶ。
肩に当たり、布が破れ、血が滲む。
ミコトは、動かない。
叫ばない。泣きもしない。
ただ、黙って受け止めていた。
「……痛くないのかよ!」
誰かが叫んだ。
「お前が黙ってるせいで! こっちは何人失ったと思ってるんだ!!」
次の石が飛ぶ。
そして、また次も――
少女の身体に、容赦ない石が降り注いでいく。
***
王宮では、怒号が響いていた。
「ミコト様が市民に捕らえられた!? なぜ即座に止めなかった!!」
「騎士団を出すにも……!」
「群衆の数が多すぎます……! 彼らの怒りは――本物です!」
国王は怒っていた。
だがそれ以上に、民衆の怒りは、膨れ上がっていた。
「国は癒し手だけを守るのか!?」
「この国は、誰のためのものだ!!」
王宮の兵も、身動きが取れなかった。
攻めれば、暴動はさらに拡大する。
無抵抗の少女を救おうとすれば、国民を敵に回すことになる。
***
――夜の広場。
ミコトの全身は、すでに傷と血に染まっていた。
足元に転がる石。
耳元で飛び交う怒号。
でも、彼女は一言も発さなかった。
(……どうしてだろう)
(涙も、声も……もう、出てこない)
遠のく意識のなかで、彼女はぼんやりと思う。
(これが……罰なのかな)
(誰かを救えなかった、“癒し手”への)
***
「お前の名前は?」
――遠い記憶。
柔らかな陽の下で、少年が笑っていた。
「ミコトっていうのか!おれ、アルファード!友達な!」
眩しいほどの笑顔。
ミコトは困ったように眉をひそめながらも、口元を緩めた。
「……わたしは、平民なのに」
「だから? 魂に、貴族も平民もあるのかよ?
そんなの馬鹿げた思想だろ?」
その言葉は、子どもながらに真っ直ぐで。
偽りが一切なくて。
「お前の力、すげーよ!癒せるんだろ?すげぇよ!」
「だってお前の力、多くの人を救えるんだろ?」
「でも……たくさん使うと、私……倒れちゃうの」
「じゃあさ――」
「“お前は、生きてるだけでいい”」
ミコトの胸に、あの時の温かさが蘇った。
十字架に縛られ、石を投げられてもなお、涙が流れなかったのに。
その声を思い出しただけで、頬を伝うものがあった。
「……アルファード……」
呟いたその名は、風に乗って消えた。
けれど、たしかに。
いまも彼の言葉が、ミコトの心に灯をともしていた。
(生きてるだけでいい)
それは――“救いの言葉”だった。
大きな石が、ミコトの腹を直撃し、ミコトは意識を取り戻した。
「っ……」
口から微かに息が漏れる。
「癒せよ!子供を助けられなかったくせに!」
男が叫んだ瞬間――
ミコトは、うつむいていた顔をゆっくりと上げた。
ボロボロの髪の隙間から、血の滲む瞳が浮かぶ。
そして、静かに問いかけた。
「……あなたは、何に怒っているの?」
ざわりと群衆が揺れる。
松明の火が、風に煽られ、不安定に明滅する。
「私に?」
「癒せなかったことに?」
「それとも……死んでしまった、小さな命に?」
ミコトの声は震えていなかった。
淡々と、静かに、でも鋭く。
沈黙を切り裂くように響いていた。
「怒っていい」
「悲しんでいい。叫んでいい。壊したくなる気持ちもわかる」
「でも、誰かを殴ったところで――」
「命は、戻ってこない」
群衆の中から、すすり泣く声が漏れた。
石を投げようとしていた者が、拳を握ったまま動けずにいた。
そして――
ミコトは、最後に言った。
「私は、神じゃない」
「万能でも、完璧でもない」
「ただ……命を見つめることしかできない、“人間”だよ」
その言葉には、怒りも、悲しみも、自己弁護もなかった。
あったのはただ、疲れきった本音だけだった。
***
そんな中大きな石が飛ぶ。
頬を裂き、血が滲む。
ミコトは一瞬、首を垂れたまま沈黙していた。
だが――次の瞬間。
バチン、と何かが弾けたように、顔を上げた。
ミコトは血の滲む唇をゆっくりと開いた。
「……じゃあさ」
静かだった。
でも、その声は――空気を切り裂いた。
「そんなに私を責めるなら」
「じゃあ――この命、くれてやるよ」
群衆がざわめく。誰かが「は?」と小さく呟いた。
「私は……ずっと魂削って癒してきた。
ひとりでも多くの命が、救われればって、それだけで」
「それでも間に合わないこともある。
それでも……“足りなかった”って言うの?」
「なら、あんたらの誰か、教えてよ」
「私の命と引き換えに、その子を生き返らせる方法を――!」
声が跳ねた。怒鳴ったのではない。
でも、魂の底から叩きつけた言葉だった。
「これだけ人がいるんだ。誰か一人くらい知ってるんじゃないの?」
「制度がどうとか、癒し手がどうとか、言葉を投げるだけの口があるんだから、
方法くらい、持ってるんでしょ!?」
「だったら言ってよ!」
「言えないのなら、黙れ!!」
ミコトの目には、もう怒りすらなかった。
あったのは、焼け焦げるような、絶望と、諦めと、覚悟。
「私はね、最初から“癒すため”に生まれたわけじゃない」
「でも、この力があるから、やれることをやってきた」
「それで、恨まれて、命を投げて、それでもまだ足りないなら――」
「くれてやるよ。私の命くらい」
「だから……だからせめて、その子を助けてよ!!」
叫んだその顔に、涙はなかった。
ただ、こびりついた血と、傷と、泥と、…そして真っ直ぐな、絶望的な願いだけ。
静寂――
それは、群衆の怒りすら呑み込むほど、重く、深く、残酷な沈黙だった。