夏の日の来訪者
夏の陽射しが、庭の草木をまぶしく照らしていた。
別邸の中庭では、洗濯物が風に揺れ、どこかの蝉が声高に鳴いている。
その穏やかな空気を破るように、門の方から荒々しい声が響いた。
「ここは通せん。帰れ」
シオンの声だ。
剣呑な語調に、ミコトは思わず顔を上げる。
縁側で干し野菜の仕分けをしていたフキも、眉をひそめた。
「……門の方で、何か揉めてるねぇ」
「見てきます」
ミコトは立ち上がり、草履を突っかけて玄関の方へ向かう。フキもあとに続いた。
門扉の前には、怒気を孕んだシオンと、土下座する男女の姿があった。
まだ若い夫婦。服は擦り切れ、足元は裸足に近い。汗と埃にまみれた顔には、必死の色が浮かんでいる。
その腕に抱えられていたのは、小さな子供――
幼い女の子だ。
年の頃は、三つか四つといったところか。顔は真っ赤に火照り、ぐったりと意識を失っていた。
「……っ、どうか、お願いします……!」
父親が額を地面に擦りつけた。
「この子が……もう三日も、熱が下がらないんです……! 町医者にも診てもらえなくて……!」
「俺たち、貧民街の者ですが……でも、それでも、この子だけは……!」
母親の目は涙で濡れていた。
「もう、どこに行っても断られて……『癒し手様がここにいる』って噂を聞いて……っ」
「お願いです……命だけでも……この子の命だけは……!」
ミコトは、風に揺れる門の隙間から、その光景を見ていた。
震える両親の肩。
小さな体で、必死に熱と戦っている少女。
そのすべてが、過去の記憶を掘り起こす。
(……昔の、わたしみたい)
「ミコトさん、どうする?」
フキがそっと問いかける。
ミコトは、ためらわず一歩踏み出した。
門の隙間から声をかける。
「……門を、開けてください」
シオンが眉をひそめ、しかし何も言わずに頷いた。
鉄の門が、ゆっくりと開かれる。
真夏の陽が、光の帯となってミコトの足元に落ちた。
「わたしが、診ます」
その声に、父親が顔を上げた。
母親が泣き崩れ、何度も何度も頭を下げた。
ミコトはただ、黙って小さな少女の額に手を伸ばす。
その肌に触れた瞬間――
少女の体から、濁った赤い光が立ち上った。
「……っ、これは……!」
ミコトの眉が、わずかに動く。
その赤い光は、まるで苦しむ魂のように揺れていた。
「……深い、熱毒。普通の病気じゃない」
ミコトは静かに目を閉じた。
(……でも、助けられる)
その瞬間、彼女の手が光を放ち始める。
柔らかな金色の光が、少女の体を優しく包み込んだ。
夏の日差しの下――
静かに、一つの命が癒されていく。
そして、それはミコトが、癒し手として歩み出す、新たな一歩でもあった。
少女の体を包んでいた熱は、嘘のように引いていった。
「……あ」
微かに開いた小さな瞳が、真っ直ぐミコトを見上げた。
「……ありがとう、おねえちゃん」
その言葉に、母親がわっと泣き崩れる。
父親も、こらえていた涙を流しながら、地面に額をこすりつけた。
「……本当に、本当にありがとうございます……!」
「この子は……うちの、宝なんです……」
ミコトは何も言わず、ただ少女の額から手を離した。
その目に宿るのは、やさしさとも、痛みともとれる不思議な光だった。
「もう、家で休ませてあげてください。……水分をしっかり取って、熱が上がらないように。三日は寝かせること」
「は、はいっ……!」
フキが、手ぬぐいに包んだ氷と、冷ましたおかゆを渡す。
「お代なんていらないよ。子供が元気でいてくれたら、それでいいのさ」
母親は、娘を大事に抱きしめながら、何度も何度も頭を下げた。
そして――その場を後にした。
それから、三日後。
別邸の門の前に、ふたたび人の影が現れた。
「癒し手様はここにおられると聞きました!」
「うちの息子が熱で……!お願いします……!」
「私の母が、もう長くなくて……どうか……!」
「この薬代の代わりに……この品を……!」
一人が、二人に。三人が、十人に。
噂はあっという間に広まり――
一週間も経たぬうちに、門の外には長蛇の列ができていた。
赤子を抱いた母親。
足の不自由な老人。
顔に布を巻いた若い娘。
彼らの目には、誰もが“希望”の光を宿していた。
しかし――
「……通すわけにはいかない。これ以上は、限界だ」
門の前で、シオンの声が響く。
背後に控えるフキも、眉間に深いしわを寄せていた。
ミコトは、門の奥から人々の姿を見つめていた。
その目は、どこか静かに揺れていた。
彼女にとって、これは「報い」だったのかもしれない。
力を使えば、誰かを救える。
だが、同時に――その力は、争いの種にもなる。
「ミコト、無理をしては……」
フキの声が、そっと届く。
ミコトは静かに目を伏せ、門の外から聞こえる叫び声に耳を澄ませた。
「……次に進むには、何かを選ばなければいけない」
そう呟いた彼女の手は、微かに震えていた。
癒し手であるということは、時に“裁き手”であることと同じ――
そう、彼女は知っていた。
そしてその影は、すでに王宮の奥――“制度の根”へと、静かに伸び始めていたのだった。
──それは、嵐の前の静けさ。
少女の「ありがとう」が呼び込んだ、運命のうねり。
ミコトの夏は、ここから大きく動き出す。