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ユーグレトはアジェット国で二番目に大きな都市であるシェイデットで聖職者をしている。
国でいちばん大きな教会のあるシェイデットは多くの聖職者を有しているが、そのなかでもユーグレトは有名な存在だ。理由は簡単で、両親が国の英雄であり、そのふたりの大恋愛のすえに生まれたのがひとり息子のユーグレトだからだ。聖職者の婚姻はゆるされていなかったが、そのふたりがいたからこそ、むしろ推奨されるものとなった。
周囲はユーグレトに期待をする。もうひとつの伝説ができないものかと思われているのだが、そんな容易に伝説がつくられてしまうものでは伝説ではないだろうとユーグレトは思う。多くのひとが同じように奇跡と感じる事象なんて何百年に一度ではないだろうか。
カーテンを引いて暗くした部屋のベッドの上、時間をかけて胸元のリボンを結び終えた女性が、情事のあとの残るはだけたシャツをそのままにあぐらをかいている男の袖を摘む。
「ユーグレト様、あの」
ぼんやりとしていたユーグレトは微笑むと彼女の額を撫で、頬に口づけた。聖職者が祝福を与えるものであり、それがユーグレトからの回答だ。
「あ……」
女性は少し悲しそうに顔を歪めてから、ユーグレトに頭を下げる。しかし謝るならば自分のほうだとユーグレトは自覚しているから、ごめんね、と言う。
「いいえ、一度だけでもとお願いしたのは私のほうです」
彼女の頭を撫でて、ユーグレトは立ち上がる。
「好きなときに帰っていいから」
椅子にかけていた羽織りを持ち、ユーグレトは部屋から出て行く。静かに扉を閉めて、はだけていた服を直す。誰にも聞こえないようにと深呼吸をしてから歩き出した。
見慣れた廊下は、ユーグレトの寮の隣に建てられた客用の古い宿泊施設だ。もっと新しく広い宿泊施設があるから、ここはあまり使われていない。そのこともあって、ユーグレトはいわゆる逢引きの場として使っていた。
夕暮れの赤みのまぶしさに目をすがめる。性行為は明るいうちからするようなものではないだろうと真面目な聖職者の誰かから言われたことがあるが、夜に相手を受け入れてしまえばそれこそ申し訳ないとユーグレトは思っている。夜は大事にしたい誰かと過ごすべきだ、と。
ユーグレトがしているのは、相手を探すための行為のひとつである。自分から誘ったことは一度もない。相手が求めてきたときに、きみが運命の相手ではない限りは一度きりになるけどいいか、と許可をとっている。
婚姻前の性交渉は禁止されているわけではないし、避妊はしている。しかし恋人でもないひとを相手にして、あまりいいことではない自覚はある。
けれどユーグレトはどうにかして、たったひとりの誰かを見つけたかった。
天井が高く明るい自然光が差し込む部屋で、ユーグレトはもうどれくらい座りっぱなしかわからない。しかも足の位置や手の置き方、顔の向きまですべて決められている。
ゆるされるのは、何を喋ってもいい口だけだ。
「あのさあ、疲れたんだけど」
「……」
ユーグレトに指示を出し目の前で筆を持ってキャンバスに向かっているサイは、集中しているのか無視しているのか、何も反応しない。
サイは肖像画を描くために呼ばれた画家の女性だ。これまで肖像画を描くためにユーグレトのもとをおとずれた画家は男だったから最初は珍しく思っていたが、どの画家とも変わらずユーグレトに動くなと言う。なんなら誰よりもユーグレトに動くなと言っているほどだ。
本人いわく売れない画家であり、教会関係者にそれを言ったところユーグレトの肖像画を描く仕事をもらえたのだという。
「ねえねえ動いちゃだめ? そろそろ休憩しない? サイちゃん、ね、どう?」
赤みがかった茶髪は無造作に高い位置でひとつに結ばれている。風が吹けばなびくそれだが、そうでもないと一切動かない。絵を描いているときのサイは、まるでつくりもののようにそこにある。
筆に乗せられた色は白っぽいグレーに見える。長く銀色の髪の毛を無造作に下ろしたままのユーグレトの髪の毛を塗っているのかもしれない。
ユーグレトは、教会で朝に聞いたメロディを落とすように、そっと左手の指を動かした。
「動かないで」
ぴしりとサイは言う。
「はいはい」
そう言ってユーグレトは、サイの持ってきたカップケーキに手を伸ばした。
「動くなって言ってんでしょ」
「動かなくたって出来上がるのは今こうして座ってる俺の絵じゃないんでしょ」
サイの描く絵はそうだ。動くなと言っておきながら、出来上がった絵は教会で祈りを捧げているユーグレトだったり、散歩をしているユーグレトだったりする。
「描いてんだから動くなって言ってる」
「食べ終わるまで待ってよ」
サイは絵を描くとき、いつも手作りのお菓子を持ってくる。それはユーグレトのためのものではなくサイが描きながら食べるためのものであり、ユーグレトはそれのおこぼれをもらっている。甘すぎるほうが集中できるらしく店で買うものよりも甘みの強いそれはユーグレトの好みだ。
「うまい」
「それはどうも。わたしのぶんまで食べないでくださいね」
もぐもぐと口を動かしながら手でマルをつくって了解の合図をする。
しっとりとした生地に、花の香りがする。
「イチューク?」
「お嫌いですか?」
「好きだよ」
紫色の花びらが三枚重なって咲くイチュークは、年に二回花ひらく。
花のあとに結ぶ実はお菓子に使われることもあり、今日のカップケーキにも練り込まれている。歯触りは木の実だが、イチュークの香りが口のなかに広がる。
香り自体はそうではなくとも、食べ物に使われるには好き嫌いのある香りではある。しかしユーグレトはすっきりと香る後味は好きだ。
「ご馳走様でした。おいしかったよ」
「それはよかった」
親指で口もとを拭い、最初の位置を思い出して同じように座り直す。
「あとどれくらいで描き上がる?」
「今日は出来上がらないですけど、来週には」
ユーグレトの絵を欲しがるひとは多いらしい。
「ひとんちの肖像画なんで欲しいものかねえ」
「これは宗教画なんですよ」
ユーグレトは眉間に皺を寄せそうになる。
「あ、ごめん」
サイが何かを言う前にユーグレトは謝罪する。しかしサイは視線をよこしただけだった。
「祝福をいただきました、だって」
「なにが」
「昨日ユーグレト様と寝た女性が言っていたらしいですよ」
「あー、まあ、そうだね」
ユーグレトがベッドで祝福を与えるのは、きみではなかった、という意味となる。
ユーグレトの運命の相手に選ばれれば人生が変わる。それは金銭的な意味もあるし、宗教的な意味もついてくる。国でいちばん憧れられていると言っても過言ではない男女の子どもがユーグレトなのだ。
「……でもそういうのも、やめることにした」
「どうしたんですか?」
ここになってサイは初めて筆を止めてユーグレトと視線を合わせた。キャンバスから半分だけの顔が出ている。年齢を聞いたことはないが、ユーグレトとそう変わらないくらいだろう。
「昔から知ってる子たちがようやく恋人同士になったんだ。ていうかもう結婚しそうなきがしてる。はやいよねえ」
「そのおふたりを見て、自分の生活を見直そうと思ったんですか?」
「そう。なんかいいなあって」
ふ、とサイが笑う。
「なあに」
笑ったことが意外で、ユーグレトは身を乗り出す。動かないで、と声が飛んだ。
「俺のただれた生活が表立たないのは、誰もが口をつぐむからだよ。俺と関係をもつのは簡単なのに、俺に選ばれなかったっていうのは不名誉らしいからね」
傲慢にも聞こえるだろう。しかしそれがユーグレトが思っていることだ。
「ユーグレト様は、そのように思っているんですか」
サイはあきれた声で言った。それから、いいですか、とキャンバスからひょいと顔を出した。
「さっき笑ったのは、ユーグレト様は、あなたと寝た女性たちみたいですね、と思って思わず微笑ましくなっちゃっただけです。そういうところ、気が合うんじゃないですか」
「なんで?」
「彼女たちはたしかにあなたに一攫千金を狙っているところはありますが、それよりも恋をしたい気持ちであなたの元を訪れてるんです」
わけがわからず首をかしげると、動くな、と言われ、今きみは描いてないだろう、と返す。
「ユーグレト様は新しい人生を歩もうとしているところなのですね」
「言い方に棘を感じる」
「気のせいでは」
キャンバスの向こう側にふたたび引っ込んだサイの手が伸びて、筆が置かれる。
「本当に気のせいですよ。ただ、わたしと同じだなと思っただけです」
「きみも新しい人生を?」
「ええ。この絵ができたらこの職を辞することになりました」
「は?」
言葉が出てこないユーグレトを前にして、これまでありがとうございました、とサイは平坦な声で続けた。