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光のただなか


艦橋から見えたガダルカナル島は水平線に薄く盛られた青い土のようであった。薄く煙りかかり、遠雷のように戦争の音がした。夜明けのさざなみ、旋回する海鳥の鳴き声が未だ出発した長崎港より進んでいないのではないかと思わせるが、ガダルカナルより私たちの体を押し戻そうとする風は日本の匂いはしないのだ。それはこれから激化する戦火を島の女神が拒むようだった。私は隣でともに島を見ていた高橋といくつかの言葉を交わしたと思う。寝ぼけと冴えの間に立って、思うままのことを話したが、高橋は「そうだな、立浪」と波に揺れるように頷くばかりだった。

故郷で見た星にまみえたい。目を瞑り、故郷に遺してきた母、父、妹、弟のことを思い返す。この戦争は長くは続かない。続かせてなるものか。我々が勝つのだ。我々が勝たねばならない。しかし、勝たねばならないという思いが強いほど、裏腹に私の中で故郷、もしくは陛下、あるいは軍に対する裏切りともいえる予知がちらついていた。軟弱な精神である。腹が空いたからだ。二週間前より満足に食べていない。しかし、それは故郷に遺してきた皆もそうだ。甘ったれるな。みんな頑張っている。一所懸命に頑張っている。私が戦って速くみんなをこんなつらい思いから解き放たねばならない。故郷のみんな、日本のみんな。


 戦況ハ劣勢ナリ。美晴第十中隊、士気極メテ旺盛ナルモ、「ガ島」第一戦線ニテ全滅。クリカエス、戦況ハ劣勢ナリ……


 美晴第十中隊は一粒の食なくとも、士気は極めて高く、水筒一杯の水を滾々とした活力の源とした。水さえあれば敵兵十名を一度に相手するのは不可能ではない、というのは美晴中隊長殿の御言葉であった。

実に天晴であり、最期は皆背中を見せることなく、真正面より弾丸吹き荒れる嵐の中に飛び込んで、欧米列強の兵士たちが雄叫びを放つ夕焼けの中で砕けた。

 

戦況は彼らの身命を賭した活躍をもってしても劣勢なのだ。下駄底をあげるように我々が奮闘しても、もっと高いところでこの戦争は敗北へと向かわされている。海原の潮流が砂浜からは観測できないように、我々のようなものたちはこの戦争の行方を知らない。知る必要などないのかもしれないが。


 一粒の食もない。一滴の水ももはやなくなりつつある。幸いなことにガダルカナルは雨が降りやすいために飲み水には困らなかったが、ぬかるむ土は我々の足場を不安定にする。一歩一歩、ゆっくりと体力をすり減らされていく。地獄の行軍だ。しかし、あてどもない旅路にならずに済んだのは斥候の役を買って出た三島が安息の地を見つけてきてくれたからだ。


 今日もまた、生き残ってしまった。


 三島が見つけてくれたのは崖に空いた自然の洞窟だ。かつて現地人が使ったような跡も見られず、入り口からどこまでも地下に続いている、まるで地獄の口である。その先には水溜まりもあったが、これは茶色く濁り、腐臭を放ち、飲める水ではなかった。中で我々、山岸隊はつかのまの休息をとった。洞窟の中には蝙蝠、百足などが豊富におりこれを我々二十名で分け合って食べた。夜間、敵に煙で見つかることがあってはならないから、もちろん火をつけることはできない。みんなで仕留めたものを口の中で噛み潰す。生で食べる動物の味にももう慣れた。酸っぱく、苦く、何より匂いが一番きついのだが、今日は兵士を殺した。殺した敵兵から流れた血が鼻腔の中でこびりついて不味い味を戦場の味にしてくれる。もはや味覚も正常に機能していないが、せめてもの救いは血の中にしか残っていなかった。血と死の匂いを嗅ぎながら、我々は生きる活力を得るのだ。生きたまま喰うのにも慣れたし、寧ろ死骸を漁らなければならないことよりもいい。あるいは、死人の肉を食らうよりも。

 明日また南に降りて戦線に戻るとき、少しでも我々は精神の力を回復させなければならない。

 夕焼けが島を紫色に包んでいく。新緑の森は藍色に霞んでいく。落陽はどうやらこの洞窟の反対側であり、我々の洞窟からはきっと明日は朝日が見えるに違いなかった。それが希望だろうか。日が落ちてなお熱帯夜であり、喉の渇きは次第に真綿のように我々を締め上げる。 恵みの雨をまたねばならない。だが、待っている間に殺されるのが先やもしれぬ。

 誰も彼もの顔に疲労が見えた。虚ろで、魂の飛び去ってしまったような顔が夜闇の中でカラカラに干からびている。

 私も目を閉じて、寝る。

 あと、何かい私は月を見て、寝ることができるだろうか。故郷の星が見たい。だが、無理だ。私はここで玉砕せねばならない。この異国の甘ったるい熱を嗅ぎながら、日本の故郷に朝日を届けなくてはならない。あぁ、ならば辞世の句はこうだ。


 夜風吹く 甘きふくみの パパイヤよ ガ島の月影 日本の夜明け 


◇◇ ◇ ◇ ◇

 

 溢れる、白い、形のないもの。

 薄っすらとした温かみを瞳の奥に印すもの。

 あぁ、これは白昼のぬくもりだ。心地よい。洞窟の中の鋭い岩壁は我々を傷つけ苛め、夜になれば更に冷たく我々を責めるばかりだった。その真逆の温かみの中に我々は、私はいる。行軍の時期にあった蒸し暑い初夏の暑さとも違う。これはかつて、どこかで我々が原風景としたもの。蝉と向日葵と朝顔と、その他もろもろの大地を這い湿った土の匂いを放つ苔と、山を蔽う大木たちと、仏壇の間の夜に灯された蝋燭の光に群がる甲虫、蛾、蚊。それら生命の滞留する暖かさだ。なんと心地よいのだろう。


「この夜がだんだん待ち遠しくなる 張りつめた気持ち後押しする」


 奇妙な抑揚をつけた聞きなれない音楽が耳元を掠めた。三島か、誰かが鼻歌を歌い始めたのだろうか。にしては軍歌ではない調子をしている。歌謡曲でも、演歌でもない曲だ。


「この夜をどんどん好きになってくる 強大な力が生まれてる」


 誰かが即興でこのガ島での夜のことを歌にしているのか。この夜を好きになることなんてありえはしないだろう。戦況は劣勢であり、明日の陽の目を見るのも難しい。けれども、こうでも鼓舞していなければやっていられないということだろうか。或いは、誰かキチガイになってしまったに違いない。それも無理ないことだ。ガダルカナル島での作戦を実行している間に、ソロモン諸島や他の地域に派遣された者達が次々と戦死していることは分かっている。そして、この島でも何人もの桜が散った。黄土色の砂浜に薄緑の海の波、その波間の向こうから黒船が無数にやってきて、砲弾を飛ばしてきた。そうして、ジャングルの中に隠れれば今度はゲリラ化したガ島の村民に襲われる始末だ。この島にもはや味方はいないのだ。


「ドリカムかい? 『決戦は金曜日』なんて意味深だねぇ。なんだい、週末はパチンコかい?」


 ガラガラと引き戸が滑る音がして、しゃがれた老人の声がした。まるで間島大佐の如き重鎮が現れたようだったが、その人物はへべれけの酔っ払いのようにのらりくらりとした雰囲気を醸し出していた。しかし、身なりはその雰囲気とは全く逆で警察官のようである。そうだ、気がつけば、真っ白く染まっていたはずの私の眼の内はちゃんと景色を掴みだしていた。今、私はどうしてか、どこぞかの警察の派出所にいるようだった。

 『金曜日の決戦』とはなんのことだ? 明日のこと? いや、さっきの鼻歌の曲名か。


「巡査長、お疲れ様であります!」

「はい、見回り終わったよ。今日も椎名町は平和でござんす」

「こちらも報告書書き終わりました」

「うん。立浪巡査は仕事が速いな。でなけりゃ、鼻歌なんて歌ってられないよねぇ」


 立浪?


「はっ、失礼しました! 以後気をつけます」

「ははは。なに、業務にさえ支障なきゃいいんだよ。今夜、カラオケスナック行こう」

「こ、今夜でありますか?」

「なに? 巡査が巡査長のお誘いに乗れないっていうの?」

「いえ! 滅相もございません! 立浪巡査、今晩喜んでデュエットでもなんでもやらせていただきます!」

「はははは! デュエットか。きみ、三年目の浮気とか歌えるかい?」


 警察たちはひとしきり談笑するとまた書類を整理する業務をしたり、交番の椅子に座って街の様子を注視したりした。

 巡査長殿の姿は見えているが、立浪巡査と呼ばれた男の姿は見えなかった。声を聴く限り私と同じほどの年齢か、実際はもう少し上かもしれない。そして、もう一つ奇妙なのはこの派出所の窓から見える景色はどことなく日本のようにみえるけれども、全く違っても見えるような気がすることだった。石造りの巨大な建築物があり、道路には見慣れない設計の軽自動車が走っている。よく見たら電柱も木の柱ではなく、コンクリートではないか。まるっきりしらない日本に来てしまったようだ。どのみちにしろ、ガ島ではないのだ。ガ島の文明水準ではないし、あの洞穴のある山はどこにもない。

ここで私は一つの推論に至った。私は何を見ているのか、私はどこにいるのか。立浪巡査とはだれなのか。

私の視界は、つまり、立浪巡査殿の眼を通してみているのではないだろうか。まるで祖先の霊が子孫のことを見守るというように。

私はようやくあの島で死んでしまったのか。自分のことなのに気づきもしなかった。だが、確かに喉の渇きはないような気がする。これは立浪巡査の感覚であるからだろうか。

自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらもあいまいであった。最後、私を生かしていたのは携えた銃と日本に遺してきた家族を思う心だ。日本兵としての教示と立浪家の長男としての意志が私を生かし続けていた。そう、私もまた『立浪』の姓を持つ男だった。私がこのように奇怪にも立浪巡査の眼と耳を通して世界に触れているのも、血の繋がりがさせた霊的能力のおかげなのだろうか。もしそうであるならば、一目彼の姿が見て見たかった。本当に私の子孫であるならばきっと顔を見ればわかるはずだ。私の父と母がそうであったように、私もそうであるはずだ。


 私たちが戦い、血を流した世界大戦はどうなったのだろうか。少なくとも、立浪巡査は鼻歌を歌っていた。戦時下であればそんな余裕はないし、警察なんて率先して前線に送られるだろう。特に私くらいの年齢であれば。


 この日本では世界大戦は終わっているのだ。末路は一体どうなったのだろうか。こんなにも、平和そうなのだ。きっと日本は勝ったに違いない。そうでなければこのような呑気は軍に示しがつかん。きっとこうだ。噂に聞いた海軍が建造中とかいう超機密戦艦が、戦況を将棋の駒が成るようにひっくり返してくれたに違いない。そうして、勝って、私は生きて故郷に帰り、お嫁さんを貰って子を得たに違いない。きっと、この立浪巡査がその子孫だ。私の子か、孫か、あるいはひ孫である。

 先の見えない暗く冷たい長崎の山々を揺らす嵐の中、十禅寺へ行く坂をやみくもに登るように辛い道程だった。しかしながら、こうして子孫がいることが分かり、戦争に勝てることも分かったのは私には雲間より出でたほんの一筋の月明かりのようだった。細い糸のようであれども、天と私を繋ぐ強固な薄明りである。

立浪巡査が私の子孫であるならば、私は死ぬことはない。この夢が白昼夢や走馬灯の類でなければ、私は生き延びることができるのだ。あぁ、そうして西欧列強の白人たちを、鬼畜米英を皆殺しにし、ガ島に日の丸の旗を掲げよう。あぁ、そうだとも。今、光は見えた。


 しかしながら、どうして私は彼の夢を見るのだろう。今の今までずっと故郷のことを思うばかりで、自分が嫁を貰ったり、子供を授かったりするような展望は見えていなかった。死の迫りくる足音に怯えて、生存本能が働いたのか。いや、命なんて惜しくはない。寧ろ何も為せずに死んでいく方が恐ろしい。名誉ある特攻隊員たちのように、自らの命を使って必ず敵をうち滅ぼせるような勇気ある日本兵でいたいのだ。立浪の男はそうでなくてはならない。身命を賭して使命を果たした美晴隊のようにあらねば。例え、この身が朽ち果てて、二度と故郷に戻れずとも。


 今のところ、立浪巡査は黙々と私には理解しかねる書類を読んだりしているばかりだ。文体も私がいた日本のものとは違う。特に漢字の字体の幾つかは、文脈で分かったが、どうやら変更か省略かをされているようだった。私の居た日本よりも一体どのくらい後のことなのだろうか。十年だろうか、二十年だろうか、もしかしたら百年先の未来かもしれない。


「そろそろ、見回り行ってきます」


 立浪巡査は書類をかたすと、いくつかの装備品を身に着けて、派出所内にいる他の警察官にそう言った。間島巡査長(間島大佐殿に似ているためにそう呼ぶ)も、平和な声音で適当に一言二言声を掛けられて、立浪巡査は外に出られた。

 前かごに警棒と誘導灯の入った白い警察自転車だ。後ろにも白い玉手箱のようなものが付いている。この中に武器でも入れているのだろうか。窓から見えていただけの景色が今度は視界いっぱいに広がって、私の予想を全て裏切っていった。どこもかしこも私の居た日本の面影はない。いくつか英語で書かれた看板も見える。どういうことだ? 敵性言語が店の看板に? 日本は東亜だけでなく、アメリカをも領土にしたのだろうか。車がビュンビュンと走り、通行人は何やら耳に見慣れないものを当てて、独り言をつぶやいていた。トランシーバ―か、電信の類か? 女子供まで、軍人として働けるように教育が施されるようになったのだろうか。疑問は尽きない。だが、たまに新聞を読みながら煙草をくわえている初老の日本人と自転車がすれ違うと私は大いにホッとする。あの老人は私に似ている気がするからだ。


 横断歩道を渡って、右の方にカラカラと進んでいくと大通りに出てきた。そこは車道であるはずなのに、人々が大勢出てきている。信号機は壊れたようにどこのものも赤色に点滅するばかりで役に立っているように思えない。テロルが起きたか?

 だが、街の入り口にかかったアーチ状の看板を見るにここは「歩行者天国」というらしい。知らない言葉であるがこの様子を見るに好きに歩ける、ぐらいの意味合いだろうか。私のいた頃は車道も、歩道もごちゃまぜであったが、立浪巡査の住む日本ではどうやらきっぱりと分けられているようだった。なので、逆にこの歩行者天国という場所の方が私になじみがあったように思われたが、そこにいる若者が全く私には理解ができないことをしているのだった。

 なにやら大きなスピーカーを肩に乗せて、面妖な踊りを興じているのだ。それも妖怪みたいな、或いは西洋かぶれの格好で。そういえば、誰一人として着物や和装をしている者がおらず、まるで違う国のような衣服を着ている者達ばかりだった。そして、ここではそんな輩が音に乗せて、きいきいと動物のような奇声を上げて、意味不明の踊りに興じている。これが立浪巡査の日本の姿なのだろうか。受け入れがたい。


「道端で踊らないでください。歩行者天国は踊る場所じゃないです!」


立浪巡査は自転車から降りて、赤や緑や橙色を着て、サングラスをした頓珍漢な若者たちに指さして注意をした。そうすると、その輩どもも「警察だ!」とかなんとか大笑いしながら、でっかいスピーカーを担いだまま蜘蛛の子散らすように逃げるのだった。


 だが、一隊が逃げてもこの道の沿いに永遠と踊り子たちは連なっている。巡査の注意も虚しく、熱狂的で奇怪な音と歌声を流すスピーカーに尽くかき消されてしまっていた。かつて私たちが見た日本の原風景はこれら世俗の輩によって全て塗りつぶされてしまい、跡形もなくなってしまったようだった。これでは結局、何のために戦ったのか分からない。なんだか拍子抜けをしてしまった。もたもたしている立浪巡査にも私は憤りを覚える。今すぐにこの体の持ち主が私に変われば、これらの輩をこの道から追い出すのは一時間もかからない。ガ島から米兵をたたき出すのは二月三月掛かるやもしれないが、こんなチンピラ集団に立浪巡査はなんと軟弱な態度をとっているのだろうか。持ってきた警棒を振るい、打ち付ければ餓鬼どもを追っ払うのは簡単なことだ。だが、立浪巡査は一つ一つ丁寧に声をかき消されながらも、注意していく。一秒、二秒でケリがつくこともままあった戦場ではありえないほど悠長なことをしている。私の中の目覚める陸軍的精神がこの軟弱な指導に活を入れよ、と木霊するが私はいつまでも見聞きする立場にあり、体と感じるものは指一本たりとも動かない。間違いない。この体は立浪巡査の体で私はその人生を追体験しているだけに過ぎないのだ。


「警察」


 と、誰かが呟いたような気がした。入道雲が山間の漏斗のような谷間から顔を出し始めるようにゆっくりと、自然に、こんな雑音の最中であれば全く気付かない具合に言い零したのだった。実際、立浪巡査は飛び跳ねる若者たちを注意していて、気づいていなかった。しかしながら、私にはよくわかる。この背筋に伝わる異様な気配は、息をひそめ我々を殺そうとするゲリラの類のものだ。ジャングルの木々の影に隠れ、銃口をこちらに向けている島の者どもと同じだ。こういう気配を感じたらば、すぐに翻って、こちらも銃を構えなければならない。


 立浪巡査は、銃を構えなければならない。


「警察」

「はい?」


 今度は立浪巡査も気づいた。二度、雨粒が石段に跳ねて、雨が降ってきたことを確信するように、立浪巡査は空を見上げるが如く振り返った。

間違いなく、曇天だと気づいていながら。


 ぶすり。


 そこにいたのは鬚を生やした縄文時代の原始人のように小汚い男だった。何か月も防空壕や密林に隠れていると身なりに気が回らなくなり、原始人のような身なりになる軍人はままいたが、立浪巡査の日本では珍しい人物だった。

 そして、その人物が立浪巡査の首を小刀のようなナイフで刺したのだった。


「くっ、あはァ……!」


 立浪巡査! しっかりしろ、立浪巡査ッ!

 私は呼びかけるために叫ぼうとするが声はやはり一切出てこない。しかしながら、逆に首を斬られた痛みだけは私の方に流れ込んでくる。首からドクドクと血が流れているのを感じる。コンクリートにはポタポタと赤黒い見慣れた点が染みた。急に暖かい腐臭が顔の横を通ったように気持ち悪くなる。眼には見えない力を使われて、体が急速に末端から冷めだす。時期は未だ夏の最中であるのに、まるで病気をした時のように一気に寒気が体を包み込む。しかし、それでも立浪巡査は通り魔の男の方をじっと見て、足をくじくことなく、首に手を当てたまま拳銃をホルスターから取り出して片手で構える。銃身がふらふらしていて狙いは定まっていない。この距離でも片手で銃を撃てば、反動で絶対に狙いがぶれる。だが、どうだ。命を懸けたのならば。立浪の男ならば為すべきことを為せるはずだ。


 群衆は警察を置いて逃げまどい、誰一人として男の手からあの小さなナイフを取り上げようと試みるものはいない。男はそれをいいことに卑しい笑みを浮かべたまま、巡査にもう一刺ししてやろうと男は血の付いたナイフをぶんぶんと振り回している。コイツ、正気ではない!

 警察に恨みがあるような態度であるが、でもなぜ立浪巡査を狙ったのか。ただ狙いやすかったからか。どのような恨みが警察にあるにしろ恐らくこの男に立浪巡査は何もしていない。どんな人間に対しても言葉を尽くし、みをつくし、時間を掛けて説得する。暴力や権力で圧することない善良な刑事であったではないか!

 それがこの不届き者の苛立ちの解消のために殺されなくてはならない不合理に私は憤怒し、殺意を覚えた。初めて心の底から自らの純粋な意思での殺意だ。故郷の為とか、家族の為とか、それこそ立浪巡査の為でもない私の純粋な殺意が魂だけのこの私に鮮烈な光線となって宿った。

 立浪巡査はゆっくりと朦朧としだした意識をひっぱたきながら、後ずさりをする。いまだ溢れる血が右掌をぬるぬると温める。零れ落ちる血の雫がまるで立浪巡査の足跡のようにふらふらと後方に引き下がる様子を描き出した。


「警察! 警察! しね! 警察しね!」


 男が大笑いしながら、外れた調子でそう叫んでいる。立浪巡査は口をパクパクとさせながら、何かを言おうとしている。喉を深く切られたせいか上手く言葉になっていないが、私には分かる。身体の感覚を、この痛みを、血を分かつ私には理解できる。


 それ、以上、動いたら、撃つぞ


 発砲に際しての警告をしていた。

 やがて、右手を首筋から離す。直後、圧迫が解けた動脈から一気に血がまた噴き出すが、それでもかまわず立浪巡査は両手で拳銃を握る。血に濡れた右手の指をトリガーにかけ、安全装置を解除し、死を覚悟してこの国の平和を脅かす存在を抹殺するのだ。


 しかし、その時、立浪巡査の中にも純粋な殺意があることが分かった。


 男の耳にはもちろん、立浪巡査の警告なんて聞こえていない。聞こえていたとしても、ナイフを振って暴れることは止めなかっただろう。


「うぅ、っぁあ、ああああああああああああ――!」


 引き金を引く。

 真鍮色の弾丸が飛ぶ。

 プシュン。

 戦場で聞きなれた水っぽい着弾音が聞こえた。と、同時に立浪巡査が膝から崩れ落ちる。膝立ちの状態で最後の根気を振り絞って、敵のことを睨む。


「頭の、ま、ま、真ん中、だよ。ビンゴ」


 ナイフを持った男――眉間に穴の開いた男はそれだけを言い残すと寄り目をして、歌舞伎役者のように見栄を切り、その場にばたりと倒れこんだ。

 二つの血だまり。二つの死体。

 立浪巡査の身体の感覚がまったくなくなっていく。唇から色が抜けるのが分かる。全身が風雨の日に晒された裸体のように凍てつき、腿の部分に痺れが出だす。ようやく遠くから警察の服装をしたものたちが走ってくるのが見えたが、すでにぼんやりとしていて、その者たちがなんと立浪巡査に声を掛けているのかは分からなかった。


 冷たい。洞窟の中のように、辛い。

 ただ真上には洞窟のような岩はなく、太陽が輝いている。入道雲に押し出されるように輝く太陽だけが、この死に行く身を暖かく迎え入れる。


 あぁ、真っ白な光の中へ。


 あぁ、立浪巡査が鼻歌を歌っている。また間島巡査長に怒られてしまう。


近づいてく 近づいてく 押し出される

近づいてく 近づいてく 決戦の金曜日


◇◇ ◇ ◇ ◇


 夜明けの明かりが洞窟に入ってきて、私は目覚めた。酷い悪夢を見た気がした。早朝ではあるが、まだどこかで銃声が聞こえるような気がする。それも、今のガ島の銃声なのか、立浪巡査の撃った音なのか、判然としない。


 首筋に手を当てる。勿論、血など出ていない。

 私はまだ生きている。あの夢で死んだのは立浪巡査なのだ。


 夢だったのだろうか。正夢、予知夢というやつだったとしたら。


 私は生き残ることができたとして、私の子孫は無惨にも通り魔に刺されて死ぬのだ。何の脈絡もなく、何の因果もなく、繰り越された悪夢が何の関係もないものに当たる。まるで地震や台風のような厄災にも等しかった。


 決戦の金曜日、というのは今日のことである。


 今日は暦の上では金曜日だった。東の太陽もまるで黄金に輝いている。洞窟の中で暗闇にばかり慣れた眼では太陽の光を見ることはできない。まるで土の中を這うモグラにでもなった気分だ。全身に光を浴びて、仲間が起きる前に私は外に出た。ガ島独特のバナナのような南国の甘ったるい匂いが鼻孔を突く。その匂いが我々にいまだこの現実の戦場にいることを思い出させてくれる。太陽の方から吹く風は、べたつく潮の匂いを運び、同時に血の匂いも運んでくる。ガ島の匂いとそういった後から来たものたちの匂いが混ざり合って、この時、この場所の人々は独特の高揚の中に漬け込まれる。まるで人を殺しかねないような。

私が太陽を拝んでいると、その光の内に何やら人影がいることに気がついた。太陽を浴び、逆光の影の中にいるもの。それはまるで西洋の宗教画のような構図であった。後背より神の光を受けるもの。レンブラントが描くパウロの像のような具合だろうか。その表情は狙ったように見えず、しかし、携えられたものが銃であるというのは分かった。あぁ、命運はここに尽きたか。向こうはこちらに気が付いている。構えこそしないが、私と光のただなかの人物はお互いの間にはっきりとした緊張感の中にあることを悟っていた。私たちはこれよりこの朝をまた血を流す戦場に変えるのだ、と。それには少しの覚悟と勝つ勇気さえあればよい。引き金を引く勇気が最も重い勇気だ。


 私の命は続くかもしれない。しかし、この先、私の子孫は私が生き残ることで確実に苦しみながら死ぬ道を歩ませねばならない。私の生が、子孫の死を齎す。苦しみを齎すのだ。そうであるのならば、ここでこの太陽を背負う侵犯者の銃によって私は殺されるべきかもしれない。故郷に遺してきた誰彼のことを思ってこれまで生きなければという使命を握っていたけれども、私の生が誰かの苦しみを、家族の苦しみを生み出してしまうことに私は決断できない。


 私たちはいつも誰かを苦しめてばかり。故郷の家族を、桜に散った同胞たちを、ガ島の人民を、敵対する米兵を、そして、未来に生きる子供たちを。


 それでも、私は生きなければならないのだろうか。


 光のただなかにある人物がゆっくりとこちらに銃を向ける。米兵ではないのだろう。まるで緩慢な素人の動作だ。そして、年若く、青い。まるで熟していないバナナのようだ。


 生きるか。死ぬか。その螺旋、その二者択一、その円環を断ち切るのには光のただなかにあらねばならない。私は光によって何も見えなくなっている。ならば、私は光を背にするしかないのだ。照らされた全貌を知るために。


 私は走り出した。どんな獣よりも、低い唸り声を上げながら、命に食らいつくことを決心して、走りだした。慌てた彼は引き金を引くが、私に照準を合わせることに失敗し、銃弾は木々に穴をあけた。一発だけ、私の肩に風穴を開けた弾丸があったが、その頃には私は彼を追い抜いて彼より太陽の近くにいた。


 彼が振り向く。ようやく照らされたその顔はあどけなさの残る戦災孤児の顔だった。そして、彼は私を見ることはできない。今度は私が太陽の光のただなかにあるのだ。影が私の表情を隠し、光が少年の眼を蔽う。もはや銃は狙いを定めることはできない。そして、私がその銃を奪うのだ。掴みかかり、蹴り飛ばす。肩より流れ出る血が黄金色になり、朝焼けと同じように青く染まっていく。

 銃口を少年に向ける。

 少年は手で目を覆い、光の中にある私の顔を見ようとする。眼を細め、自分の命運に震えているのだ。光の中にあって、私は彼の全てを知った。そして、それでなお私は全知全能には成れなかったのだ。引き金を引く勇気よりも重い、引き金を引かない勇気を私は持ち合わせていなかった。


「ぐっ、あああああああああああああああ!」


 パァン。

 ことは決着した。酷く乾いた音がした。そう、私の聞きなれた銃声はこの音だ。人の命を殺める音だ。立浪巡査の持っていた拳銃は人を殺めない音がした。それでも、彼はあの時、明確に、純粋な殺意を宿して、敵の脳天に玉をぶち込んだ。その時、彼は私と同じ兵士になっていたのだ。死ぬ直前に私へと戻ってきた。円環をなぞる指が結び目へと還るように。


 私は黄金の光のただなかにいる。銃声を聞いて、起きてきた仲間たちの寝ぼけ顔が太陽の光に当てられてよく見える。しかしながら、彼らからは私の顔は見えないだろう。光が私の顔に濃い影を落としているからだ。だから、顔についた血をぬぐうような真似はしなかった。


 あぁ、また生き残ってしまった。


 幸いな勝利を手にしても、私は嬉しくはなかった。そして、どんな劣勢の絶望ももう私の心を軟弱にさせることはない。

 明けの明星が輝いている。アレは故郷でも見た星である。白みゆくその星が私の命運であるかのように瞬いていた。あぁ、あぁ。聞こえる。波の崩れる音、銃声の音、軍靴の音、ぬかるみの音、生命の音、どよめきの音、涙の音、羽ばたきの音、星の音。戦いの音。やがて、全ての音は静まり返る。私の魂の中に入り込む音はもうここになかった。


 しかし立浪巡査の悲痛な雄叫びだけが鼓膜にこびりついて離れなかった。



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