第2章 第1節「愚かなる者、無謀の営為に投げられた賽は表か裏か」
第2章 第1節「愚かなる者、無謀の営為に投げられた賽は表か裏か」
勢いよく掲げたティーカップから零れ落ちる紅茶を見て確信した。この世界は紛れもなく現実の世界と同じ物理法則に則って営まれている事を。そして、まだ誰にも気付かれていない俺の能力が、無謀を無謀でないものにする。『欠落者』と自分を卑下してはみたものの、それ故に進化を遂げた感覚がある。俺の目には、魔法式の存在や構造、簡単な発動条件ならば、呼吸をするのと同じ様に目に見えているのだ。どうせなら、透視能力や千里眼的な能力の方が嬉しかったと常々思ってはいたが、今この場所だけは、神様がくれたこの能力に感謝しなくてはならない。
この目のおかげで、この空間を支配していた、異形で禍々しい魔法式の消失にも気が付くことができたからだ。おそらくその禍々しい魔法式こそ、ちあちゃんをこの鳥籠の中に閉じ込めていた、呪いの正体なのだろうことは、容易に想像ができる。
「さて、乾杯も済んだことだし、今後のことについてざっくりでも話をしておかないか?」
ちあちゃんの、心の奥を理解していないのか、いや、理解していてなおかつのマリアンなのだろう。もっとも何の意味もなく、このお茶会が開催されている訳ではないということは、ここにいる誰もが感じているに違いない。だがしかし、いざその問題を提起しようとしたとき、まず何をすべきなのか、この世界で半年近く生活している俺にも全く思い当たる節がない。
「一番の問題点は、なちがどうやってこの鳥籠の外に出るか、というところだろう。こればかりはやはり、やってみなくては分からない、ということなのかもしれないが...」
そう言って、マリアンはティーカップの縁をキュッキュッと音を立てながら指でなぞる。当然と言えばそれまでの事なのだろうが、マリアンはおろか、他の三人にも魔法式の存在は目に見えていないらしい。
そんな中、マリアンから一つの無謀とも言える提案がなされた。
「なちの回帰能力は、例えば亡くなった者に対しても有効なのか?」
この、非人道的極まりない問いかけの意図を、ちあちゃんは理解していた様子だった。と言うよりも、既に経験していたのだろう。
「...それは出来ないわ。蘇生と回帰は全く別の物なのよ。ただし、死の直前であれば、回帰させる事は可能よ。その場合、一時的な延命にしかならず、根本的な原因を解決しなければ、結果は変わらないのだけれども。」
やはりなと言わんばかりに、瞳を曇らせたマリアンは少し考えて、次の質問を投げかける。
「その回帰は、現時点からの回帰という認識で良いんだよな?なら、回帰を発動し続けたら、回帰した時間を軸に身体の時間は進行するのか?そもそも、どの程度まで遡って回帰する事が可能なのだ?」
その発想が、もはや常軌を逸してはいるのだが、おそらくマリアンの言いたいことは、次のことなのだろう。回帰を繰り返しても、いずれは回帰した時間にたどり着き、同じ結果になってしまう事。それともうひとつ、呪いをかけられる前に回帰出来ないか、という事。
「マリアン、それはおそらくだが、ちあちゃんはとっくに試しているんじゃないか?魔力は無限ではないって話だし、仮に永久機関の様に無限にエネルギーを生み出す事が可能だったとしても、それでもいずれ回帰した時間にたどり着いてしまうだろ?さっきのちあちゃんの説明の通りならば、何もしなければ結果は同じなんじゃないか?」
そんな事はわざわざ言葉にしなくても分かっているといった顔で、マリアンがチッと舌打ちをする。
「だから、何かをしなくては何も変わらないと言っているのだよ。そのタイムリミットがどれだけあるのか知らずしてプランを立てるほど、私は愚か者ではないつもりなのだが。」
珍しく、マリアンの皮肉を含んだ発言に、五人の間にしばしの間冷たい沈黙が流れる。
「...ごめんね、みんな。全部私のせいだね。」
そう言って、紅茶に映し出された自分の顔を見つめながら、ちあちゃんが震える声で謝る。染がちあちゃんの肩にそっと手を添え、満面の作り笑顔を見せるものの、ちあちゃんは紅茶から目を離さず、ぽつりぽつりと、水っぽくて少し甘めのシロップを注いでいる。
「なち、それは違うな。私は私のために今頭を使っているのだよ。私がこの先、楽をするために今努力をしているだけに過ぎないのだから、そうやってせっかくの紅茶を台無しにするのはやめてくれないか?」
マリアン的にはキザったらしいフォローをしているつもりなのだろうが、ちあちゃんにはその言葉でさえ、自分を追い詰めるには十分なスパイスだったのかもしれない。
「...そうやって、軽々しく他人の事だと思って、あなたは自分が良ければそれで良いと、本気で思っているの?」
涙で濡れた声に、いつもの力強さはなく、か弱い少女の声が必死に「生きたい」と訴えかけているように俺には聞こえた。
「思ってるいるさ。私の奥底は私にしか分からない。 例えば他人から見て指摘されることがあっても、それが私な事に変わりはない。」
そう言って紅茶を一口含み、寂しそうな顔をする。その仕草を見て、マリアンは自分に都合の悪い事があると、何かを口に運んで誤魔化そうとする癖があるのだろうかとふと考えた。
「だから私は私であっても、私を作るのは私以外の誰かであって、そんな誰かを救いたいと思うのは高慢なのかしら?」
マリアンの不器用な優しさと、ちあちゃんの強がりな泣き虫が絶妙な隠し味となって、それを口に運ぶ誰もが無言のままこの場の空気をたいらげた。
マリアンの言っていることは、まだ付き合う前から言われていたことで、刷り込まれてきた私には当たり前のことだった。その言葉はあまりにも無神経で異常と言わざるを得ないが、最も簡潔でストライクゾーンど真ん中すぎる直球に、私も最初はショックを受けなかったと言えば嘘になる。それでも、マリアンなりに考えて言葉にした優しさであることも私は知っている。
「だけど、呪い?は全てラフィが取り除いたんだよね?それなら何の問題もないのでは?」
根本的な内容を蒸し返す様ではあるが、どうにかしてこの場の空気を変えなくてはという思いからの発言ではあった。それがあまりにも稚拙過ぎる発言だというのは言葉を発した私でも理解できた。
「...たぶん...ね。」
マリアンと違って感情のコントロールは得意そうなちあちゃんが、ここまで落ち込んでいるのを見るのは初めてかもしれない。
「今の問題はそこではないのだよ。」
そう切り出したのは意外にもラフィだった。出会った時と同じ白衣を着て、牛乳瓶の底を切りとったあたかもなメガネと、白いツケ髭、そしてボサボサのウイッグで、舌を出してニヤリと笑う。この男はいつの間に着替えたのだ?
「この空間に存在していた魔法式は全て解除した。それは間違いない。...これはおそらくだが、この建物を覆うように張り巡らされていた魔法式に触れると発動する術式だったと推測ができるわけなのだが、それも全て解除した。」
その言葉に、わずかな希望を見出したちあちゃんが勢いよくラフィに顔を向ける。
「そんなに怖い顔で見るなよ。」
ちあちゃんが、どんな顔をしていたのかは分からないが、ラフィが珍しく真剣な面持ちで制する。
「問題はここからだ。確かにこの空間の魔法式は解除出来たが、本当にそれだけか?」
誰に向けた疑問系なのかはさて置き、全ての魔法式を解除したのならば、これ以上の不安要素を考える必要があるのか、私にはやはり理解の範囲外だった。
「...グローバル・ポジショニング・システム。全地球無線測位システム。色々な呼び方はされるが、いわゆるGPSのような位置情報を元に発動する魔法。それもこの世界が現実だって仮定しての話にはなりそうだが、絶対にないと決めつけるのは悪手だな。」
マリアンはこの可能性を想定していたのだろうか。それとも思いつきで不安要素を探したのか、どちらにせよ、私たちには身近すぎる単語と、その意味を私はまだ理解できないでいた。
「そもそもなんだけど、ちあちゃんに呪詛魔法をかけ、この場から逃げれなくするくらい重要なんだろ?だったら、万が一逃走したときはどうする?俺ならどこに居るのかを探し出すための手段くらいは用意するけどなぁ。」
その言葉に、少しの希望から一転、ちあちゃんの瞳に影がさす。
「...私も、そう思う。...マリアンの言ったGPSは多分ないと思うよ、この世界には。あっても機能しているかどうか分からないわ。でもね、この世界には個人を特定できる、特に私達のような『ユニーク』ならなおのこと、判断材料としては十分すぎる魔力というものがあるもの。」
突然のちあちゃんの告白にも関わらず、マリアンもラフィも落ち着いた表情で話を聞いていた。
「やっぱり、それぞれ生まれ持つ魔力には個体差があるってことだよな?そうでなければ、片時も離さず側に置いた方が安心だもんな。」
相も変わらず無神経な発言ではあるが、もはやこの場で気を使うことの方が異常だと、言わんばかりの空気が、痛いくらい強く肌を伝って心にしみた。そんな空気を切り裂いて、ラフィがおもむろに拳を合わせる。
「よし、分かった。このままじゃ結論出るまでに俺の世界が終わりそうだ。世界を変えるには、まず自分が変わること、だったか?なぁ、『グロリアス』様」
そう言いながらラフィがマリアンを見た瞬間、私の視界は乱れ、急激な眩暈と吐き気に襲われた。
馬鹿だ、とは思っていた。それは僕が間違っていたのだと気がついた時には、眼下に広がる雲海が瞬きをする間に消え、遠くに街が見えるログハウスの前に居た。うるも、なちさんも胸元をおさえ、立っているのがやっとの状態だった。「まりあん」に至っては、完全に気を失い僕にもたれかかっていた。無事だったのは僕と、僕が馬鹿だと勘違いしていた男だけだった。この男は馬鹿なのではなく、救いようのない馬鹿なんだと僕は思った。これまでの会話を全て把握したわけではないが、少なくとも、魔力感知能力に長けた者からすれば、明らかに不自然な魔力の移動に気が付かない訳はない。そんなことも分からないほど、この男は馬鹿なのか、と怒り狂いそうになる。
「おいおい、そんなに睨むなよ。それよりもやることあるんじゃないの?」
大袈裟に口を動かし、僕にアピールするその態度も癪に触るが、やること?の意味が僕には分からなかった。
「...ラフィ。...あんたね...。」
なちさんが苦しそうに男を睨みつける。
「ひとまず、空間転移による自動発動的な術式はまぁ、…無いことは分かっていたからな。」
この男の口車に乗せられてはダメだと、僕の本能がペンを走らす。僕の知る限り最も安全で最も防御力の高く、なちさんを隠せるもの。それだけではない、うるや「まりあん」だって僕が守らなくてはならない。目の前の男から。この男に一発パンチをくれてやりたい衝動が、彼女たちを守るという理性によって、かろうじて抑え込まれている。僕を中心に半径数メートルをドーム状に閉鎖して、対魔法障壁を展開する。その間には水の層と、真空の層を設け、簡易的だが核の直撃にも耐えうるだけのシェルターを描き上げた。物理的な攻撃ならばこれでも十分なのだろうが、あの男は何をしでかすか分からない。そこで、一番外側の層には、対魔法リフレクションとでも呼べばいいのか?魔力が触れた方角に対して、高出力の魔力を放出する装備を描いた。この時点でどこまで具現化できているのかは分からないが、考えられる限り、最大限の彼女たちを隠す努力をしたつもりだ。もちろん、男はシェルターの外に放置してやった。
「…これは、シェルターなのか?」
染を中心に、目の前に突如現れたドーム状の無機物を見上げ、やはり染も俺たちと同じあちらの世界の人間なんだなと確信した。曇天の空からは、その雲の色と同じ『灰色の雪』がふわりふわりと俺の肩にあたっては、灰色を肩に残し雫となり透明になって地面に落ちていく。雪にしては不自然な落下に違和感を覚えた。にしてもだ、俺の芸術的なログハウスの前に、無骨で冷たい金属の塊を置かれるのは流石に景色がよろしくない。そう考えながら半球体の周りを歩いてみた。
「はぁ?ちょっと待てやコラァ!玄関丸々抉っとるやないかボケがッ!」
なぜ、若干なまった関西弁になったのかは置いておき、染の野郎、焦ったのか周囲の状況などを考えもせずに、描きたい放題に描きやがったらしい。
「大体出入り口のないシェルターにどれだけ籠城するつもりだ?それ以前に換気口はどうなっている?このままではもれなく全員酸欠確定なことも理解できなかったのか?」
などと欠点をあげればキリがないのだが、染の能力を考えれば、酸素くらいは作れるのかもしれないなとも思った。濃度さえ間違えなければ問題はないだろう。いや、間違えるも何も、おそらくそんな事すら知らないと考えて行動しなくてはならないのだなと、深いため息を吐く。
染の具現化魔法を二度も見たのだ。その理屈は分からなくても、仕組みは多少なりとも理解している。チート級とは言ったものの、その欠点もおそらくは...。そろそろこの『灰色の雪』がうざったいから、まずはその欠点から攻略することに決めた。
ひどい目眩と吐き気に耳鳴り、立っているのがやっとの状況にも限界がきた。私が床に腰をおろそうと足元を確かめた時には、『ラプラスの離宮』の綺麗に敷き詰められた石板ではなく、地肌が剥き出しの大地の上に立っていた。なぜ、この様な状況になったのか、それを考える間も無く、剥き出しの地面にどしりと尻もちをついた。
「…はぁ。…はぁ。」
乱れる呼吸と共に、肺が押し潰されるように痛い。この痛みに、私はちゃんと生きているのだ、ということを実感した。同時に痛みに耐えるのがつらくて、瞳を閉じた。瞳を閉じれば、酷い冷や汗が私の全身から溢れ出るのが分かる。瞼の裏に見える血管がいつもより細くて、ドクドクと強い鼓動を打つ。
ラフィが、わざとらしくゆっくりと話しているのは、染君に伝えるためなのだろう。問題を引き起こした張本人が他力本願な発言をするのが少し許せなくて、声を出してみたけれど、その言葉はラフィに届いているのだろうか。それすら確認出来ない弱い私がやはり嫌いだ。瞼の裏に見える生きている証を、ぼんやりと見つめることしかできない私が嫌いだ。
ふぅっと一呼吸置いた後、私の生きている証は何かに遮られ、それさえも見えなくなってしまった。恐怖というよりも安らぎに近い感覚で、
「…私、死ぬのかな?」
と、心が感じた感情を、ふと言葉に出てしまった。その直後、誰かが私の手を握るのがとても暖かくて、あぁ、私は生きているんだという事を、また認識した。
暗くて深い、それでいてフワリと漂う感覚に、頭が少し痛かったけれども、その痛みも臨界点を越え、感じとることができなくなった。むしろ、生命の維持を放棄したかのように、全身の力が抜けていく感覚に心地よさすら感じている。ロココの奴が私の口癖を吐き捨てた直後、視界が歪み刹那に垣間見た茶色と緑の世界に、これは急激な気圧の変化が原因だと特定はできたが、それに対する対処法はもはや常識の範囲を大きく逸脱していた。
どれくらい、気を失っていたのだろう。重い瞼の間から、ぼやけて見えた私の可愛い二人の分身が、スースーと寝息を立てて仲良く眠っていることに安堵し、また心地よい眠りに落ちた。
強い目眩と吐き気に襲われながらも、私の瞳には、平然と敵対するラフィと染君が見えた。何を言っているのかは、はっきりと聞き取れないが、染君がスケッチブックに何かを書くのと同時に、私たちを覆うように光を遮った。
暗闇の中、立っている状態がやっとの私だが、少しずつ、ほんの少しずつ身体の機能が正常を取り戻していくのを実感する。キーンと酷い耳鳴りの中、ハスキーな小さな声が僅かに聞こえたから、私はその声のする方へ手を伸ばす。伸ばした先には、少し冷たくて汗ばんだ手が、僅かに震えていた。私はその震える手を祈るように両手で抱きしめた。その瞬間、うっすらと黄金色に包まれ、私の身体は先ほどまでの苦痛が嘘かのように正常を取り戻す。
「…なんだ。キス…しなくても、治せるんじゃない。」
ちあちゃんとマリアンがついた嘘に、少し嫉妬はしたが今は感謝をしつつ、うっすらと見えるこの空間を見渡す。何もない空間とばかり思っていたが、空間の端にラフィのログハウスの扉があることに気が付いた。まさかな、と思いつつも扉に足を運ぶ。その足取りは何故だかは分からないが、穏やかで確実に先へと進む道の上を歩いているかのように吸い込まれていく。私がドアノブに手をかけようとしたとき、「カチャ」とドアが開く音がした。次の瞬間、ドアノブが勢いよく動くものだから、私の小さな身体は全体重を支えきれず、前のめりに倒れ込む。その私の頭を泥だらけの黒底で踏み台にして、
「よっ!」
とラフィが、何事もなかったかの様な素振りで、相も変わらずこの場の空気などお構いなしに明るい声で登場したことに、私は不謹慎かもしれないが、ほんの少しの安心と、地面に踏みつけられた頬の大きな痛みに複雑な気持ちになった。
「ADXラプラス」第2章をご覧いただきまして有難うございます。
物語の始まり、複数視点からの進行となりまして、最初は読み辛い点も多くあるかと思いますが
今は誰の心情で物語が進行しているのだろうかなどを楽しんで頂ければと思います。
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佳逗葉