第1章 終の節「唯一なる者達、掲げる杯は聖杯か毒杯か」
第1章 終の節「唯一なる者達、掲げる杯は聖杯か毒杯か」
「...なあ、なち。そろそろいいか?」
あれから規則正しい放射を描く太陽が、またこの水平線の上に昇ろうとしている。いったいその身体のどこに、これだけの涙を流せるだけの水分と塩分を蓄えていたのか、不思議なくらい泣き続けるなちに問いかけた。
「...ッスン。...ッスン。...まだ...ダメ...。」
気まぐれなのか、これが素なのか、私の範疇にはないことなのだが、いかんせん両腕の感覚が、もうとっくに消え失せてから何時間が経過したのか分からない。他の三人はとっくに眠りにつき、うるに至ってはそろそろ目覚めそうな頃合いだ。眠れないとはいえ、多少の休息も必要なはずなのだが、何故か丸一日同じ体制にも関わらず、疲労感というものが全くない。絶え間なく注ぐ治癒魔法にでも包まれているのだろうか。
「...そろそろうるが起きるから。」
なんだか、浮気相手に『旦那が帰ってくるから』的なニュアンスになってしまった言い訳に、なちは鮮血に染まる袖で涙を拭う。その目元には綺麗にメイクを施したかのように、赤いアイシャドウとチークがうっすらと浮かぶ。
「病みメイクになってるぞ?」
「違うもん。ほろ酔いだもん。」
そう言うと、自分の顔を両手で覆い小声で何かを呟く。淡い緑色の光がなちの身体を包む。
鮮血に染められたはずの白衣から抜ける色素に思わず感嘆の声が溢れる。
「...おぉ。」
パッと手を下ろした顔は、一日中泣き喚いていたのが嘘に感じられるくらいに穏やかで、いつものなちの顔に戻っていた。
「...現象の逆転。これが『フィデリス』の回復魔法の正体よ。」
包み隠さず実際に見せてもらうのが最善だと考えていたが、まさかなち本人から見せてもらえるとは思っていなかった。
「白衣まで元通りになるのか?」
そんな愚問にも、なちは真剣に答える。
「私が身に付けているものだけじゃないわ。相手を治癒するのだから、私の肌が直接触れているもの全てが対象なのよ。分かりやすく『治癒』という表現を用いてはいるけど、実際は『回帰』と言った方が正しいの。」
そう言って、私の両耳を塞ぎ、口唇に優しくキスをする。淡い緑色の暖かい光に包まれて、初めてのはずなのに、どこか懐かしさすら感じられる。まるで母親の揺り籠の中に抱かれているような感覚が、私の僅かな倦怠感を消し、両腕の感覚を取り戻す。
「えへへ...奪っちゃった。」
少し恥ずかしそうな顔をしてなちが言う。
「...今の私は女だぞ?」
「...分かってるわよ。だからなの。」
そんな二人に向けられた鋭く尖った熱い視線に気がつくのは少し先の話だ。
「なちが私にもたれかかって泣いていた時、軽く一日くらい同じ体制だったにも関わらず、それほど疲れた感覚はなかったんだ。一睡もしていなかったのに。それってやっぱり、なちが私の時間を戻してたってこと?」
「...どうかな?正直私自身、私の能力を全て把握してる訳ではないんだよね。あの時は正気じゃなかったから。...無意識だったかも。」
目を逸らし、なちが寂しそうに言う。それこそが、なちの持つ慈愛の精神なんだろうなと心の中で考えた。自分がより長時間、寄り添っていられるように、相手の時間を回帰する。そういう考えは今はやめておこう。
「こほんっ」
あ、忘れてた。先ほどからひしひしと感じられる熱い視線のする方から、わざとらしい咳払いが聞こえる。と、共に、背筋にひんやりと冷たい汗が流れる。
「女の子同士、朝からいちゃいちゃするのは構いませんけどね!」
そう言いながら、怒り肩を尖らせズンズンと近づいてくる魔王の瞳は、決して許しなど受け入れる余地のない顔をしている。
「どーせやるなら男同士でやってちょうだい!寝覚が悪いわ!」
論点がそこだと分かった途端になちが笑う。
「あら、百合は頂けなくって?」
「...そうじゃないけど、なんかちょっと嫌なの!」
体は女でも、複雑な女心までも理解することは難しいなと思い知らされる。そんな感情もなちには簡単に捉えることができたのか、うるを抱きしめて、そっと口唇にキスをする。今度は淡い黄金色の光がうるの全身を包む。
「えっ!?ちょっ!え?え?何これ?」
動揺しているのか、驚いているのか、二つの感情がうるを混乱させているようだ。
「回復させてもらったんだ。せめてお返しのキスくらいしたらどうだ?」
「えぇ...!?」
「ふふふ、おでこでいいのよ?」
私がそういってなちも乗るものだから、うるは混乱しつつも頬を赤く染めて、なちのおでこにちゅっと軽くキスをした。
とたん、二人の笑みがこれまであった全ての蟠りを掻き消すかのように明るく暖かったのは言うまでもない。
「なちってさ、回復するたびにキスしないといけないの?」
当たり前といえば当たり前の質問だけど、先程のマリアンとのキスを見られた手前、二人のことを考えれば、ある程度の言い訳をしなくてはならないのだろう。
「ううん、そんなことはないよ?そんなことばっかりしてたら、私キス魔になっちゃうよ?私の魔法は触れた対象の時間を回帰するものなの。外的損傷なら、手で触れれば治るけど、内的もしくは精神的損傷の場合は直接触れることは難しいでしょ?だから口から私の魔力を注ぐの。口腔から食道へ流せば消化器関係へ、気道に流せば循環器関係を伝って脳へ。そういう時にだけしかキスはしないわ。安心してちょうだい。もっとも、体内に繋がるのは出入口は口だけじゃないけど...想像してみる?」
精一杯弁解をしたつもりだったが、うるちゃんがいつにも増して鋭く突っ込んでくる。まるで喉元にアイスピックを突き立てるがごとく。
「ふーん。で、マリアンはどこが悪かったのかしら。」
その言葉に後ろめたさを感じていた私は一瞬言葉を詰まらせる。
「どこが悪いのか分からなかったから、全身を回帰させてくれたんじゃないのか?」
マリアン、ナイスフォローだ!やはりこの男、数多くの修羅場をくぐり抜けているのか?二人は目を合わせ、小さく親指を立てた。思えばマリアンの厳戒な予防線は、これまで意図せず他人に好意を抱かれてしまい、その度に見る涙に、耐えきれなくなった末の予防線なのかも知れない。と、勝手に妄想を膨らませるも、その予防線を不意打ちとはいえ突破してしまったことに、罪悪感よりも優越感の方が勝っている私が嫌いだ。
「...なるほどねぇ。...なるほどねぇ。...で、どんなお味でしたか?」
うるちゃんの何を考えているのか分からない質問に戸惑うも、あの時を思い浮かべ...。
「...味なんか覚えてないわよっ!」
少し赤くなる私の頬を見て、うるちゃんはにこっと笑い、私に抱きついてくる。
「...大きな胸。窒息しちゃいそう...。ありがとね、マリアンも私も、ラフィだってちあちゃんが治してくれたんでしょ?私もうこれ以上何も失いたくないの。」
私の胸に顔を埋めるうるちゃんの声が少し涙ぐんでいた。私はまだ幼い少女を慰めるように、うるちゃんの頭を撫でた。
「...手当て。」
そう言って、マリアンは椅子に腰掛け、ティーポットからカップに紅茶を注ぐ。
「...俗説では、患部に手を当てて治療もしくは処置を行うことと考えられがちだが、本来の意味では報酬だったり、手が足りないところに他の手を充てたりすること。あながち俗説の方がしっくりくるし、そうであって欲しいところもあるよな。」
そう言って、冷め切った紅茶をずずずっと音を立てて飲む。
「...お砂糖、入れないくて平気なの?」
うるちゃんが、慌てて駆け寄り、片手いっぱいのスティックシュガーを渡そうとする。
「さっき甘いのを貰ったから、今はこれでいい。」
その心遣いなのか、言葉に顔が綻び、ああやっぱりこのイケメンは女になってもイケメンのままなんだなと、少し安心した。
僕が目を覚ました頃には四人ともテーブルにつき、何やらティータイムを楽しそうに過ごしている様子だった。だけど、僕の耳はいつもと同じ無音のままだ。
僕はおもむろに、その光景を留めておきたくて、『スケッチブック』を手に取る。本当はカメラを具現化してしまえば簡単なのかもしれないが、僕はこうやって楽しそうにしている誰かや、風景を描くのが大好きだから、今はこのままで良いと思っている。
真っ白な肌によく映える赤い長い髪がくしゃくしゃで、とても少女とは思えないほどに恥じらいのない彼女は、左目に黒い眼帯をしているのに赤いアンダーリムの眼鏡までかけている。黒いチョーカー、黒いドレープのかかったシャツに黒いレースのロングコート、ショートパンツまで黒一色にセットアップされた格好が、その綺麗な赤い髪をより一層引き立てる。顔立ちも美しく整った配置のパーツが凛としていて、女性らしいと言うよりもカッコいいと言うのが僕の第一印象だった。年の頃は大人びた言動も垣間見えるが、肌の透明感などから察するに、十四、十五くらいだろうか。胸元を見て最近の女子の発育具合はけしからんものであるなと感心した。皆からは『まりあん』と呼ばれているようだが、音が聞こえない僕にはイントネーションが分からず、それが『マリアン』なのか『毬餡』なのかは定かではない。
となりの『うるちゃん』と呼ばれる黒髪の少女はさらに小柄で、ツンっと釣り上がった目と、左目の涙の通り道にホクロがあるのが印象的だ。喜怒哀楽が豊かなのであろう、僕がスケッチをしている間も様々な表情を浮かべては消し、浮かべては消しを繰り返す。シワひとつない綺麗な純白を身に纏い、流れるレースは先程の少女とは対照的に女性らしさを引き立てる。ワンピースは女性の戦闘服だと聞いたことがあるが、まさしく彼女にはお似合いの格好だなと思い筆を動かす。その左手の薬指には、服装とは似合わない男物のマリッジリング?が時たま太陽を反射させている。歳の頃は十三いや、もう少し下かもしれないと、僕に思わせた理由については特筆しないでおいた方が身のためだろう。小さいは希少価値だ!
その奥で、見るからに巫女様と言わんばかりの白衣と、緋袴が小麦色に焼けた肌に不思議と似合うなちさんは、シルエットだけ捉えても妖艶で、先程の『うるちゃん』とは正反対に、艶やかに実る二つの果実は、見る者を魅了してやまないのであろう。その魅惑を包み込む巫女装束との効果は絶大で、彼女の魅力を更に引き立てている。声が聞こえない僕にとって、初めての理解者であり、唯一の話相手でもある。と同時にこれが初恋なんだなという感覚が僕の胸を少し締め付ける。彼女の左手の薬指で輝く金剛石が、恋に落ちて刹那の猶予も与えず、僕の初恋の幕を引いた。この恋になんて名前をつければ良いのだろうかなんて、詩人ではない僕には表現の仕方が分からないから、誰にもバレずに今まで隠し通すことができたのだろう。それよりも、愛に生きる女性ほど強く美しい者はないと僕は常日頃から感心させられている。
『まりあん』の逆隣では、口安めに置かれたラスク撒き散らかしながら、けたたましく喚く男がいる。先程僕の胸ぐらを掴んだ男だ。正直男は優しさというものを持ち合わせていないから嫌いだ。『らい?』『おこー?』3人の口唇から読み取れる名前すら微妙だから、男の容姿と凶暴性から『ィ・ロ・ココ』と書いておこう。お前にはパンチがお似合いだ。ガサツで、自由奔放な振る舞いは、それ以外の全てを捨てたと言っても過言ではない程に、傍若無人ぶりを発揮していた。他の女性達とは違い、とてもこの場のお茶会には相応しく無い。その大きな肩当ては、邪魔ではないのだろうか?無駄に長いマントは歩くのに邪魔じゃないのだろうか?顔以外全てを覆い隠して暑くは無いのだろうか?これらの疑問が嫌いなはずの男なのに、僕の好奇心を掻き立てる。色彩など一切目もくれず、ただ単純に性能だけを求めたのであろうその無骨な出立ちは、四人の中で唯一の男性ともあって、より一層無頓着を際立たせている。背の丈は170を超えたあたりだろうか、大きくもなく、むしろ小さい部類なのだろうが、その肩からくる節あたりまでなびく装衣は、まさに大賢者という言葉が相応しいのかもしれない。
そんな人間観察を行なっている僕と最初に目があったのは、『まりあん』だったが、彼女は何をするわけでもなく、平常を演じ続けた。
しばらくして、僕が目覚めたことに気がついたなちさんが僕の元にかけ寄ってくる。そして、僕に何かを語りかける。何を言っているのか、聴覚で捉えることが叶わない僕だが、なちさんの口唇だけは、はっきりと読み取ることができる。なちさんの口唇から読み取った現状に僕は驚いた。当たり前のことなのだが、僕が描いた四人のスケッチが、マスコットのようにデフォルメされ、地面に散らばっていた。
それを見たなちさんが、僕に語りかける。
「染君がいないよ?」
その言葉に、虚をつかれたわけではない。自分自身を描くことなど今までに考えたこともなかったし、他人にどう見えているのかすら考えるのが怖かった。
だけど、この四人が見せる何とも形容しがたい笑顔に、僕は初めて僕という肖像にペンを走らせた。
それは、あまりにもチープで弱々しく、支えている手足さえ曖昧な棒人間同然の、出来損ないと言ってしまえばそれまでの人形だったが、なちさんが大切そうに抱えるものだから、僕の心は少し救われた。
染が目覚め、何かを一生懸命に書いているのは、その仕草ですぐに分かっていた。
ちあちゃんが駆け寄るまで、一心不乱に描き続けた愚像が俺たちだということは、身に纏った衣装で大体の想像がついた。
『万物の具現化。』
そう言葉にしてしまえば簡単なのかもしれないが、自分が興味を持ったこと以外に興味がない俺にしてみれば、奇怪そのものだった。そもそも様々な物理常識を無視していないか?俺が常識を疑ったのは、これで二人目だ。
ひとまず、現状を整理したいマリアンと、ひた隠しにしたいちあちゃんの論争にも終止符が打たれて、結局のところ、共闘するにも情報源の少ないマリアンに軍配があがった。
議題となったのは、未知の能力ではなく、俺が『欠落』と称した部分についてだ。当然、マリアンは気が付いていたことなのだが、染との意思疎通において、障害を感じたのは言うまでもない。そこで、『欠落』の有無と、互いに協力する上で知っておかなくてはならない事実として、互いの『欠落』を把握することが議題にあがったのだ。
「こういうのはまず、提案した私から話すべきなんだろうな。」
そう言うと、マリアンはメガネをテーブルに置き、眼帯を外した。
「私はこの通り、左目が全く見えない。幸いにも右目の視力はあちらの世界にいた時同様、低下したままだが見えてはいる。見えないのだから眼帯をする意味も無いのだろうが、客観的に見て解るようにあえて眼帯をしている。以上だ。」
高い声のくせに男勝りの発言が、傲慢にも聞こえるが、理にはかなっている。
「次はそうだな、ロココ頼めるか?」
「いっ!?俺かよ!」
突然振られた驚きよりも、何を話せばいいのか整理をしていなかったことに慌てる。
「えーっと、俺は今はラフィ・ロ・ココって名乗ってて、『天命』は...」
そう言いかけたときマリアンが咳払いをする。
「合コンでモテない男並の、くだらん前説はいらないから、早くどこに欠点があるのか教えてくれないか?」
優しく語りかけてくる言葉とは裏腹に、目は座り、威圧をかけてくる
「...ええと、俺は触覚が無い。痛みも暑さも寒さも感じないし、気持ちいいという感覚もない。誰かに触れられても分からないし、命の危機に迫るような外傷も察知できないと思う。そんな所かな?」
マリアンの瞳が、意地悪を吐き出したくてうずうずしている様子だった。
「な、何だよ?他には何もないぞ!?」
その言葉が小悪魔マリアンのトリガーとなり、俺を問い詰める。
「気持ちいいって、どうやって確かめたの?」
しまった!話す言葉はもっと慎重に選ぶべきだったと後悔したのと同時に、両の頬にグーが飛んできて俺は後頭部から地面に倒れた。
「最低っ!」
うるちゃんが我が身を庇うように腕を交差させる。
「この浮気者っ!」
ちあちゃんが、腰に手をあて、怒りをあらわにしている。
「でもまぁ、その痛みも感じないんだろ?不憫だな。」
マリアンが寂しそうに呟く。
俺は何もなかったかのように席に戻るも、目を背けるちあちゃんと、睨みつけるうるちゃん、そして何故か笑いを堪えるマリアンと染君がいた。
「じゃあ、次はなちお願いできる?」
マリアンが笑いを堪えながらなちに振る。俺の口の中は鉄の味がした。
「こほんっ。私はね、そうね容姿は端麗だし、胸だって立派なものだわ。気が利いて性格も最高。これ以上、不足しているものがあるとすれば...」
余計な前説は要らないんじゃなかったのか?それともこれは必要だったのか?今の俺にはこの不可解な発言を理解しえないものだと感じた。
「...しいて言うならば、味が分からないのよ。」
そう悲しそうに話すちあちゃんの、心境を察してなのか、うるちゃんも少し涙ぐんでいた。
「...可愛いマリトッツォだって美味しいとは感じないし、高級なお肉だって同じなの。」
ちあちゃんの発した言葉に疑問を抱いた俺は、どうしても聞いてみたいことがあって、無神経にも質問する。
「味がしないのか?」
その質問の意味に瞬時に気が付いたのはうるちゃんだけではなかった。マリアンも同様に味について疑念を抱いていたようだ。
「...え?どう言うこと?」
意図を理解できていないのはとうの本人か。
「うるちゃんには話したけど、味というのは、味覚と嗅覚がセットなんだ。味が全くしないとなると、味覚だけではなく、嗅覚もないと考えられるんだけど、風味とか、香辛料の香りとかは分かるの?」
その言葉にハッとしたちあちゃんは、何かを思い出そうとしながら何故か涙を流した。
「...言われてみれば、香辛料の香りや生クリームの甘い香り、そういうのは分かる気がする。何で今まで気が付かなかったのかしら...。そうよ、そこを楽しめばいいんじゃない!なんだ、そんなことか!ロココ、あんた少しはやるじゃないの、見直したわよ!」
そういうと、ちあちゃんは元気にVサインを俺に投げつける。どうやら、ただの栄養摂取というタスクを消化する日々から解放され、新たな楽しみを見つけたみたいで、これまでの悲壮感は微塵も感じられない。
「じゃあ、次はうるな。」
俺のファインプレーをさらっと流すテクニックは、流石のマリアンなのであろう。少しくらい空気を読んでくれよ!
「えっと、私はラフィ曰く嗅覚がないらしいの。なちちゃんとは逆で、苦いとかは分かるんだけど、香りとかは全く分からなかったの。こんな感じでいいのかな?」
あっさりと、さらっと言ってのけてはいるが、五感の一部を失っているという危険性を、まだ全く理解していないのだろう。そんなうるちゃんを横から、人口涙液を垂らしたかのように潤んだ瞳でちあちゃんが見つめ、うるちゃんの手を取る。そして、何度か頷き、互いに抱き合った。何の儀式だ?
「さて、最後は染...君の番だが、これまでの内容は理解できたか?」
共感に浸る二人を横目に、マリアンが話をすすめる。染はこくりと頷き、キャンパスノートをテーブルの上に置く。どうやら要領はかなり良い方なのだろう、皆が話している間にある程度自己紹介を書いておいたらしい。そこに書かれた内容をマリアンが読み上げる。
「僕の名前は、一式染。『天命』は『ファンタジア』で、能力は...」
マリアンの言葉が止まると同時にものすごい勢いで瞳が動く。片目しか見えていないはずなのになんて速度で読み上げているのだろう。
「...あった、ここか。」
どうやらマリアンが知りたい要点を探していただけのようだが、速読までこなすとは。少し神様に怒りを覚えた。そんな俺の感情など知る由もなく、染がキャンパスノートに書いた皆に伝えたい想いを、一刀両断にバサッと切り捨てて、要点のみを読みはじめる。
「聴覚がなくて、何も聞こえない。水中にいるような感覚だ。自分が話した言葉も、正しく話せているのか分からなくて、いつしか話すこともままならなくなったから、こうやってキャンパスノートに書いている。...か。」
耳が聞こえないことで、言葉が話せなくなるとは正直驚いた。確かに、自分が何を言っているのか分からなければ、正しい発音なのかも分からないわけで、周囲から不意に怒られたり、馬鹿にされたりなどもあったのかもしれない。
一通り、全員の話を聞いてマリアンが一つの事実に気がつく。
「染、君はいつからこの世界にいるんだ?それと、なち、君も結構長い間こちらの世界にいるように思えたが、君たちは、いつどうしてこの世界に来たんだ?」
傷口に塩なんてものじゃない、唐辛子を練りこまれたウサギのような質問に、ちあちゃんが不機嫌そうに答える。
「...それは、知っていないとダメなことなの?」
さすがのマリアンも、ここは空気を読んだのか、申し訳なさそうに口を開いた瞬間だった。染が走り書きで書いた文章を見て、全員の呼吸が一瞬止まる。
「この世界に時間という概念はないよ。僕はもうかなり前からここにいるし、なちさんだって同じくらいこの世界にいる。だけど、あっちの...」
マリアンが読み終えるのを前に、ちあちゃんがキャンパスノートを閉じる。
「女子には知られたくない秘密が沢山あるのよ?あなたなら分かるでしょ?」
そう言って、マリアンの追撃を阻止する。内容の続きは確かに気にはなるが、ちあちゃんの本気の瞳がマリアンの次の一手を封じているのだろう。
「...分かったよ。ここに来た経緯は今は聞かない。だけど、いつか必ず話してもらってもいいかな?」
「...いいわ。いずれ話さなくてはならない時がきたら話してあげる。だから今はまだ...」
そう言って、ちあちゃんは染にキャンパスノートを返した。
「そういえば、マリアンの『天命』なんだけど、どの書物にも記載がなくて、創世記にも似た記憶がマリアンの中にはあって、色々とめちゃくちゃなんだけどさ、あれじゃない?...神的な?」
巫女である私の口からあなたは神様ですかのような発言をする日が来るとは。いよいよ宗教じみてはいるが、それ以外に思い当たる言葉が見つからなかった。
「そうかな?」
そう言葉にしたのは、以外にもうるちゃんだった。
「私は、こんな神様いたら絶対に嫌だ。」
それはきっと、あっちの世界での本心なのだろう。同志よ、辛かったな。
「だけどね、なちちゃんを助けようとしている時、まるで指揮者のように、的確な指示を出していたように見えたよ?それにだって、音を扱えるんでしょ?」
「いやそれは、そんな気がするってだけで...」
自分の意見を確定できないマリアンも珍しいなと思った。それについてはロココにも心当たりがある様ようだった。
「気がするんじゃない。広場で俺たちは実際に見たんだ。いや、聞いたのほうが正しいのか?マリアンから発せられた、あれはモスキート音の一種なんだろ?高周波数で相手を気絶させ、子供だけが泣いていた。その子供たちですら、マリアンの歌で静かになったんだ。」
「そんなことが、現実に起こせるのって、やっぱり音を使った魔法か何かじゃないのかな?」
二人に言い寄られるも、それでもその当事者であるマリアンは答えを出すのに少し戸惑いを隠せない雰囲気だ。
「...魔法か。私はそんなつもりは一切無かったのだがな。何故かあの場では、ああするのが当然のように思えて、気が付いたら...って感じだった。」
そもそもこの世界の魔法というものは、現実に起こりうる事象を魔力によって強制的に引き起こしているものに過ぎない。決して奇術やマジックのようなものではない。だから私のさっきの『無意識』は自覚のある嘘だったのだ。それでもマリアンが疑問に感じなかったということは、本当に無自覚だったのかもしれない。それでも魔法を意図せずに発動させることなど可能なのだろうか。
「そういえば、魔法ってさ、なんて言うか、ありえなくね?俺が言うのもおかしな話なんだけどさ。」
普通の感覚なら、おかしいのは百も承知なのだが、このチワワは何を口にしているのだろか。
「ああ、確かに。完全に無視しているように思えるが、そこはおそらく、私たちの科学の認識との違いもあるのかもしれないな。」
ちょっと待って。マリアンも何を言っているのか意味が分からない。いくらこの世界に来たばかりだからと言って、頭ごなしに事実や現象を否定するような人間ではないはずだ。
「え?何を無視してるの?」
そうだ、その反応が普通だと思う。良かった普通の感覚の人間もいてくれて。私の頭が狂いそうになってしまうのを阻止してくれてありがとう、同志よ。
「エネルギー保存の法則だよ。」
ロココの口から突然、何やら難しい単語が出てきて、私はうるちゃんを見た。と同時にうるちゃんと目があった。
「閉ざされた系の中で、エネルギーが物体から物体へ移動したり、形状を変える時、その前後ではエネルギーの総量は一定である。ってこと。つまり、魔法で強引にエネルギーを消費した時、その元となるエネルギーって魔力ってことになるよね?でもそれじゃおかしいんだ。」
もはや何を言っているのか、わけが分からないが、何やら魔法が現代科学を否定した存在だということだけは理解できた。
「そこなんだ、『閉ざされた系』だから問題なのであって、この世界がそれに該当しないのだとしたら、その爆発的に消費されるエネルギーは外の世界からくるとも考えられないか?」
さらに突拍子もない会話が展開されるものだから、私は空のティーポットの茶葉を入れ替え、お湯を注いだ。
「外の世界?現実味が薄いな。例えばどこから来ると想定できるんだ?」
茶葉の葉が開くまで時間を持てあましてしまった私は、うるちゃんのほっぺをつついている。うるちゃんの頭の回路は完全にショートしているらしく、ぽけーっと二人を見ている。
「...語弊を恐れる...必要もないな。この場においては。私はここにくる時、意識を失ったように感じた。おそらく今現在眠りについている状態なのだろう。そこでだ、どれだけ寝ても疲れが抜けない時ってないか?」
その言葉に、うるちゃんは小さくうなずき、少し考え込んだ。
「...つまり、元の世界からエネルギーを消費している...と?」
「仮説の一つに過ぎないがな。」
ここで元の世界の話が出てきたことには正直驚かされた。もしや、マリアンはあのことさえも...そんな不安要素を抱えたまま、この先みんなと一緒にやっていけるのか私は不安でしかなかったのは、紅茶を注ぐ手が少し震えていたことで自覚した。
「ささ、難しい話は置いといて、まずはさ乾杯でもしない?」
話の方向が好ましくなかったので、震える声で話題を逸らそうとする。震える手で配るティーカップも、少しカタカタと音を立てる。
「乾杯?紅茶でか?何に乾杯するんだ?」
ロココが単純で良かったと思えたのは何度目だろうか。この場の空気を変えることを言うものだから、私の不安も少しだけ和らいだ。
「そうね...ここはやっぱり、マリアンに決めてもらおうかしら?私を助けた英雄なんだし?」
そう言ってふざけてみて、悟られないようにしている私がいる。やはり何年経っても変わらない性格の私が嫌いだ。
「それを言うなら、他の四人も同じだと思うんだけどね...。まぁいいわ、そうね...。」
急に女性らしい口調で話すマリアンも、どうやらこの空気に流されてくれているのだろうか。そう願うことにする。
「ここに今集まった私達の因果に。そしてここに掲げた杯が、いつしか聖杯だと言える日をつくるために。乾杯!」
マリアンが期待通りに少し堅苦しいことを言うのが当たり前で、ロココが馬鹿みたいに高く掲げたティーカップから、キャラメル色に輝く紅茶がこぼれるのが、今はとても綺麗に感じた。染は私達の事情を知っているから、少し寂しそうな笑顔をしていた。うるちゃんは相変わらずマリアンの隣でにこにこと笑っている。こんな穏やかな一瞬が永遠に続いてくれれば、そう願うも運命の歯車に新たに三人の『イレギュラー』が加わり、未来が大きく変わろうとしているのには、私でさえも気が付いていなかった。
「ADXラプラス」第1章をご覧いただきまして有難うございます。
物語の始まり、複数視点からの進行となりまして、最初は読み辛い点も多くあるかと思いますが
今は誰の心情で物語が進行しているのだろうかなどを楽しんで頂ければと思います。
公式ホームページより
各種SNSのリンクもあります。ぜひご登録頂けましたら今後の活動の原動力ともなります。
どうぞ、宜しくお願い致します。
https://6212.me/
佳逗葉