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第1章 第3節「逸する者、失意の先に見たモノは」

第1章 第3節「逸する者、失意の先に見たモノは」


 だだっ広い草原の、少し小高い丘の上にあるログハウスの中で、ジンジンと痛む右手をむすっとした顔で見つめながら、私は座っている。


「悪い悪い、俺の悪い癖だ。許せよっ。」


明らかに悪気がない口調と、表情筋が全力で働いている顔で男は何かの果実から入れたお茶の様なものを差し出す。

ズズッと音を立てて口唇から舌に流し込んだお茶は、とてつもなく熱く、思わずコップを投げ捨てた。


「ちょっと!あんたねー!こんな熱いの飲める訳ないでしょ!?」


まるでヤツのような言葉が私の口から飛び出したのには正直自分でも驚いた。そんな私に、丸い目をした男は、少年のように輝かせて聞き返す。


「...やはり、これは熱いのか?」


「はぁ!?あんた何言ってんの?これが熱くなかったら、あんたの神経どうかしてるわ!」


その言葉に何かの確証を得たのか、先程までの少年の顔から一転、真剣な面持ちで男は話しだす。


「これが熱いのかどうか、俺には分からないが、この部屋に充満したこれの臭いは、耐え難いものだということは分かるよ。」


綿のような物を詰めた鼻の孔を見せつけ男は言う。


「え?どういう...こと...なの?」


「俺には痛いや熱いといった感覚が欠如している。つまり触覚と呼ばれる感覚が無いんだ。最初からそうだったわけじゃない。おまえと同じ、いつの間にかこの世界で目を覚ましたときから、痛みも何かが肌に触れる感覚も無くなっていたんだ。」


「じゃなくて!臭いがって・・・」


「さっきの異臭もそうだが、どうやらおまえは嗅覚が欠如しているようだな。俺はそれを確認するために、さっきある実験をした。」


そう言って男が取り出したのは、イチョウの木から取れた小さな黄金色の果実だった。

私もよく知っている、その果実が放つ強烈な臭いの記憶に鼻を覆い隠そうとするが、今の私には何も感じられない。


「...え?うそでしょ?…異臭って、まさかこれのこと?」


男は静かに首を縦に振る。


「紛れもなく酪酸とエナント酸の臭いだが、やはりおまえには感じ取れないみたいだな。」


その言葉に私は深く絶望する。匂いを感じないということよりも、私の好きな匂いで、幸せを感じられなくなった、ということの方が私には辛い宣告だっだ。まさに「絶望」という言葉は、おそらく今の事態のことを言うのだろうか。「愛しきを望む」。まさに、そんなことを考えながら俯き、涙が溢れるのを必死に堪える。


「そう悲観的になるな...と、簡単には言ってやれないが、今おまえには確実にやらなくてはならないことがある。」


この男は、人の気も知らないで、何を淡々と言っているのだ。今の私は、涙が溢れ落ちるのすら止めることができないのだぞ。それなのに、なにができるというのだ。


「これまでの様子だと、聴覚は問題なさそうだな。しかも俺の言葉を理解できるのは不幸中の幸いだ。」


「何が...幸いよ!この状況で良くそんな楽観的なことが言えたわね!」


涙で濡れた頬で、噛みつく様に睨みつける私のことなど気にもせずに男は続ける。


「話は最後まで聞くようにって先生に教わらなかったのか?」


男は先程私に出したお茶を強がるわけでもなく、まるで水を飲むかのように飲み干す。


「次に俺にはない触覚だが、熱さを感じる点から触覚に問題は無いと判断していいだろう。」

確かに熱さも暑さも痛みも感じはするが、それが何だと言うのだ。


「そして、視覚だが、これまでの言動から察するに、特に問題はなさそうだが、両目とも見えてるか?」


「見えてるわよ!見えてるに決まっているじゃないの!」


間髪入れず、喚き散らすように答える。


「おいおい、俺に怒ったって仕方ないだろ?そう焦るなよ。」


この状況で焦らないでいられるのなら、是非ともその方法をご教示していただきたいものだが、今のこの状況が分からないうちは、反撃をするのは得策でないことくらいは理解できた。


「決めつけて問題を解くのも悪くはないが、時として真実を見えなくする場合もあるんだぞ?さて、最後に味覚だが、これはどうだ?」


そう言って、ティーポットから注ぎ直したお茶を私に差し出す。

私は、恐る恐るお茶を口にしてみる。


「(今度は熱くない。)...苦い..。少し苦いけど、飲めなくはない...。」


俯きながらそう呟くと、男は確信した口調で静かに話し出す。


「実は『味』というのは、嗅覚と味覚両方が合わさって感じるんだ。おまえの場合、苦いという危険信号だけを感じとることができるみたいだな。つまり、五感のうち、嗅覚だけ感じとれないということになるのか...」


少しの間、男は真剣な面持ちで何かを考えている。突然なにかを思い出したかのように、男が切り出した。


「記憶が無い、というのは本当か?」


この男の辞書にはオブラートという言葉がないらしく、いきなり核心に迫る質問に私は少し慌てた。虚偽の申告をしたことを見抜かれて驚いたのではなく、私自身まだこの状況を受け入れられていないのであろう。


「...嘘よ。」


小さく擦り切れそうな声で答えた私に、男は容赦なく続ける。


「やはりそうか。何気ない日常生活を過ごしていたはずなのに、いきなりこの世界に居た。そういうことだろ?」


まるで、全てを見てきたかの様な問いかけに、私は否定をする言葉が見つからず、小さく頷いた。


「...俺のときと全く同じだな...。」


「...え!?それって!?」


「俺の職業は研究員。製薬会社で主に新薬の研究にたずさわっていた。」


男はいきなり自分自身のことを語りはじめる。今の私には、正直他人の身の上話を聞く程の余裕は無かったのだが。


「何日も何日も、何のための研究なのか分からなくなる程、トライ&エラーの繰り返しだった。あの日も、いつも通り薬品庫から試薬を取ろうとしたはずなんだ。」


淡々と話していたはずの男の声が、徐々に低くなって行く。


「瞬きをしたのと同時に、俺はこの世界にただ呆然と立っていた。指先からドクドクと流れる血が手首を伝って地面に落ちるのを鮮明に覚えている。」


男はその時を思い出しているのか、懐かしむように自身の右手の指先を見つめる。


「自分でも驚いたよ。あまりにも多い出血のわりに痛みはなくて、出血点の確認をしようと指を触ったが感触が全くなかった。」


男が振り上げた拳を本棚に叩きつける。綺麗に整頓されていた本が地面に散らかり、パラパラとページがめくれていく。恐らく最も開いたであろうそのページで、規則正しい動きが止まった。


「こうやって殴ってみても、痛みどころか触った感触が無いんだ。今まで当たり前だと思ってたことが、当たり前じゃなくなるというのは、正直考えたことすら無かったけど...辛いよな。」


この言葉を聞いたとき、私は「絶望」から少し救われた気がした。私だけじゃないんだと思えたことで心が少し軽くなった。


「だがしかし、今現実に起こっている事象から、原因を探るしかないと俺は思うが、おまえはどうだ?」


さっきまでの険しさが嘘のように元の口調に戻ったことも、唐突の質問にも何を答えて良いのかが分からず、少しの沈黙がうまれる。


「...分からないよ。原因を探してこの状況から抜け出せるかなんて…。私は預言者じゃないもの。」


「それもそうだな。じゃあ、おまえはどうする?いつまでもメソメソするか?そのうちきのこでも生えそうだな。」


「そのときは、きのこスープでも作ってあげるわ。」


目の前に突き付けられた現実に少しのウィットが隠し味となり、私の心を複雑に絡めていく。深く深く沈みゆく気持ちが瞳から光を奪っていくのが分かる。


「それにしてもだ、俺以外に『欠落者』が居たとは驚いたな。」


その言葉を耳にして、私はハッと我にかえった。


「...欠落者?...って何?」


「ん?だってそうだろ?五感の一部が欠落してるんだから、そのままの意味だろ?」


当たり前の様に当たり前のことを、でも確かに的を得た言葉ではあるが、普通の人間なら口にできない様なことを、さらりと口にする。


「...何それ。なりたくてなった訳じゃないのに、欠落って...」


「うん、言いたいことは分かるが、すまんな。他に明確な区別をする言葉が見つからないんだ。俺もたいがい焦っているのかも知れん。」


焦っている素振りが全くないみえない口調で言われても、納得できるはずがない。


「...だからってそんな言い方しなくても。」


考えもなしに口からこぼれた言葉に、私は私自身が言葉を発したことにすら気がついていなかった。


「だったら俺たちのことを何て呼べば良い?否定をするからには、それなりの意見があって然るべきだと俺は思うがね。それを失ったらアンチと何ら変わらんよ。」


確かに、言われてみればその通りなのである。自分の意思なき言葉は、時として刃物より鋭く、銃弾よりも強力な殺戮兵器となりうることを、私はよく知っている。そういう場面に幾度となく遭遇しては、強大なパトリオットミサイルに撃ち落されてきたのだから。


「...ロスト...。」


そう口にして、頭を掻きむしる。


「どうした?きのこ生えてくるのか?お湯、沸かす?」


「じゃなくてっ!...感覚って英語で何て言うのかが分からなくて...。」


「はぁ?フィーリング?もしくはセンス?」


「...センス?」


その言葉を聞いた時、ヤツのことを思い出す。周りに流されることなく、流行の数年先を行く唯我独尊な男。全身真っ黒な中二病全開闇属性のヤツは、必ずどこかに赤を置く。赤と黒がヤツの世界で、それ以外を極端に嫌う。


「...センスか...。ロストセンス...。あいつならベタ過ぎるって言って笑うんだろうな。」


こんな時でも、こんな時だからこそなのかも知れない、ヤツのことを思い出しただけで少し笑っている私がいるのが分かる。


「ん~、ロストセンスかぁ。なんかいまいち、パッと...」


そう言いながら男は少し考えたあと、左手の手のひらを右手の拳でポンっと叩いてこう言った。


「ロスト・ワンズ・センス!ちょっと意味が違う気もするが、まぁゴロ的にも丁度いいだろう?」


「何よそれ!」


私のセンチメンタルを他所に、男は豪快に笑う。つられて私も呆れたように笑ってしまった。笑うことで肩の力が抜けたのか、互いのお腹の虫が欲求を主張する。


「...それにしても、腹減らない?」


「...そう言われてみれば、お腹空いたかも...」


この世界に来てからどれだけの時間が経ったのかは分からないし、途中色々とありすぎて忘れていたけど、空腹はしっかりと訪れるものなんだな、と我ながら関心した。


「そうだなぁ。昼間から何も食べてないし、きのこスープも出てきそうにもないしなぁ。」


頭の後で手を組みながら男は何かを期待した目で私の顔をうかがう。


「何を期待しているのか分からないけど、この世界に来たばかりの私に物乞いをするのは間違いじゃなくって?」


「ぶはっ、たしかに!」


おやじ臭全開の笑いをかましながら、男はある提案をする。


「この時間なら、まだ街に行けば何か食わせて貰えるだろう。今日は俺の驕りだ、ついてき給えよ。」


男は得意げに言い放ち、ドアから飛び出した。


「ADXラプラス」第1章をご覧いただきまして有難うございます。

物語の始まり、複数視点からの進行となりまして、最初は読み辛い点も多くあるかと思いますが

今は誰の心情で物語が進行しているのだろうかなどを楽しんで頂ければと思います。


公式ホームページより

各種SNSのリンクもあります。ぜひご登録頂けましたら今後の活動の原動力ともなります。

どうぞ、宜しくお願い致します。

https://6212.me/


佳逗葉

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