第七十六話『向き合う者』
大陸暦一三五八年、九月十五日――
短い秋の日の入りは夏と比べて幾分か早く、十九の刻限には宵闇が辺りを覆っていた。月明かりとわずかな照明だけが、訓練所に光を落としている。灯火管制が敷かれているわけではなく、心灯の術式を用いるには暗い方が都合が良いのだ。
「ミュルコ・モース様が飛んで来た時は何事かと思いました。手空きが私しかおらず、力になれるか分からない所が気になりますが……」
術式の使い手たる火竜は、竜王ツアンカの孫コヨチが送り込まれた。娘のリトックは次期竜王として代理も務めているため忙しく、当のツアンカは先の戦闘の疲れがまだ残っている。彼の不安に先回りするように、カリエが応じると、ライン引きの半分ほど残った粉末を見せた。
「あんたの力不足は折り込み済みだよ。だから、魔法団の倉庫からこいつを引っ張り出して来た」
「この量と質の魔晶石の粉となると、エンジンの添加剤にしているやつですね」
「そうさ。こいつを燃料に混ぜて呪文を詠唱しておけば、燃焼効率を上げて出力と燃費を大きく上げられる。ボーヴァンの奴が考えたのさ。で、今回はこの粉で術式陣を描いといた」
魔力強化や増幅など、複数の術式陣を描くように、魔晶石の粉が引かれている。ライン引きを用いた効率化に興味をしめしていたのはサイクスだった。手で加減しながら少しずつ撒くより、早く均一に粉を置ける方法は、彼の時代には無かったからだ。
「さて、あんたはここに立って。ティットルはそこ、ヴァイスはそっち。あたしはここで、嬢ちゃん達は壁に向かって」
打ち合わせの通りに使い手が配置され、二箇所の強化の陣にティットルとヴァイス、それらから経路を繋いだ増幅の陣にカリエ、集約した魔力を束ねた経路の先にコヨチが立ち、彼の目の前には一斗缶から燃え上がる炎がある。その炎に照らされるリンダとエリックの背中が、壁にそれぞれの影を映し出していた。
「さぁ、やるよ。覚悟はいいね!」
「はい!」
風と水の竜から発せられる魔力が術式陣に沿って真四角に躍り、火花を散らしながら輝きを増してゆく。増幅の陣を形成する渦に乗った魔力が流星のように煌めき、カリエの下で巨大な流れに束ね上げられる。コヨチに届けられた魔力は、普段の彼が出しうる魔力の数倍にも達しており、それはほとんど竜王ツアンカと同等だった。
「いきます……心灯の術式!」
コヨチがかざした両手から魔力を放つと、単なる炎に過ぎなかった一斗缶の火が、照らされた者の影に内なるものを映し出す魔法の灯火となった。エリックとリンダの影は濃さを増し、黒を通り越して闇の様相を呈していた。それらはやがて灯火と関係なく踊るように揺らめき、あかたも意思を持っているかのように見え始めた。影に異変が生じたのはエリックからであり、明らかに別人のシルエットが浮かんでいた。程なくしてリンダの影も全体的に小柄な人物のそれに変わっていった。
「これが……僕達の魂の残滓か?」
「オリビア……ミリアム……!」
エリックの驚嘆に応じたのはサイクスだった。自分と最も親しかった二人の人間が、陰影という形ではあるが、そこにいる。魔王の呪いによって忘れさせられていた、決して忘れてはいけなかった二人だった。炎に照らされて、顔を金色に染めたイェリアの頬を、白く光るものが伝う。
「あなたが、私の中にいた人……夢に出てきた女の子ね?」
『……えぇ、そうですわ』
リンダが自分から伸びた影に問い掛けると、影ははっきりと声を発して返した。
『思ったよりも早く、再会を果たせましたわね、オリビア』
『はい、自分でも驚いています。ミリアム様との合流も早くに済ませられましたし』
再会や合流という言葉から、二人が魂の残滓を宿した事が、綿密な打ち合わせの上に行われた事が察せられる。関心を寄せるリンダとは対照的に、エリックの表情は明るくなかった。
「申し訳ないが、あなた方の目的は何だ?」
声色には明確に苛立ちが混じり、どこかドスを効かせたものになっている。
「恐らく、サイクスとの再会があるのだろうが、仮に僕達で出会えなかったら、また別の誰かの魂に潜む気だったのか?」
自分の中に、知らない誰かがいるという不快感と、リンダを巻き込み、さらに他の誰かを同じ目に遭わせる可能性があった事に対する不信感が、エリックを駆り立てていたのだ。
『否定はしませんわ。私達はあちら側で、転生の間際に色々と魂に細工を施しましたの。すべては兄上様に会うため。忘却の呪いで、誰にも気付かれる事なく進められたのは僥倖でしたわ』
ミリアムの悪びれない態度に、エリックの苛立ちはいよいよ怒りに近くなったが、それを露わにする前に、サイクスとイェリアの顔色をうかがった。サイクスの表情は読めないが、イェリアの感傷に浸る面持ちから、それ以上は強く出られなかった。振り上げた拳の落とし所に困るとは、まさに今のエリックの心境だった。
『あなた達兄妹を利用した事は謝ります。しかし、私達にも時間がなく、またニック様がこちらに来られる気配もありませんでした』
『忘却の呪いで迎えも寄越されず、数少ない呪いの影響を受けなかった者が転生で記憶を消されてゆくのを見ていると、いずれ来る兄上様があちらで孤独に過ごされるのかと思うと、私達が何かしなければと思っての事です』
オリビアとミリアムの言葉に、一転してばつの悪い顔になったのはイェリアだった。
「私達、イカヤザの門の者達が不覚にも呪いを受けてしまった事で、あなた達に余計な手間を掛けさせただけでなく、今の世を生きる者にも迷惑を掛けさせたのは事実ね。ごめんなさい」
『いえ、母上様が気に病む事ではありませんわ。私達が勝手にやった事です。結果的に上手くいって、兄上様に会う事が出来ましたし』
ミリアムとイェリアのやり取りを見て、リンダは神妙な面持ちになった。もはや怒りの失せたエリックが、今度は妹の顔色に困惑している。
「リンダ、どうした?」
「ちょっと前に、イェリアさんにお母さんの影を見た事があるんだけど……もしかして、私の中にいるミリアムの影響だったのかな」
「サイクスが危険な目に遭うと、何故か頭に謎の光景が浮かんで反射的に体が動く事が何度かあったが、それは僕の中のオリビアの影響なのだろうな」
「ところでサイクス、あなたは二人に何も言わなくていいの?」
リンダから話を振られたサイクスだったが、どうにも様子がおかしかった。不気味なほど静かで、一領の甲冑が立ったまま佇んでいるようにさえ見える。
「大丈夫か? 色々あって昇天してないか?」
カーンがサイクスの兜を小突くと、乾いた音を立てて地面に落ちた。今までにない反応だった。
「お、おい、冗談だろ?」
サイクスがたちの悪い冗談を言う性格でない事は、共に旅をした仲間達がよく知っていた。本当に魂が然るべき場所へと行ってしまったのか、誰もがそう思ったところで、黒い鎧が淡い緑の輝きに包まれた。心灯の術式の炎に照らされながらも、存在感を失わない光だった。
「この輝きは……」
「分かるのかね、ダジラ君」
「夜の海に漂う死者の霊とよく似た輝きだ。正直なところ、あまり縁起のいいもんじゃない」
「サイクス君は実際に亡霊だからね。だが、彼の鎧の中は真っ暗闇のはずだ。しかし……流石の私も、ここまで濃厚な亡霊は初めて見るよ……」
警戒の面持ちでそれを眺めるダジラとネジムだったが、ニールも底冷えするような気配を感じていた。
淡い緑の輝きは、やがて人間の形に収束されていった。緑の髪に丹精な顔立ち、肖像画に残るサイクス・キュリールとはまるで似ても似つかない、完全に他人の顔だった。
「……これは、私が自分の顔を思い出したという意味だろうか。それとも、私を忘れなかった者の記憶にある顔になったのか」
サイクスの声は、今までのようなくぐもったものではなくなっていた。ほとんど人間と同じような、喉から空気を震わせる声の形をしている。
「……あれ、夢で見た人の顔に似てる。夢の中では、いつも顔は真っ黒だったのに、どうして……」
「僕もだな。不思議と、夢で見た顔が黒塗りではなくなっているのが分かる。そうか、君達……いや、あなた方はそのような顔をしていたのですか」
エリックの言葉に、ミリアムとオリビアは顔を見合わせるような動きをした。サイクスの顔が判明する事は予想出来ていたようだが、自分達まで同様になるのは想定外だったようだ。
『私達の顔が分かるのですね』
「あぁ、ひどく疲れた、生気のない顔だ」
「髪の色が変わっていたのは知ってるけど、目の色まで変えていたって事は、何かあったのね?」
リンダの言葉に、思わず反応が詰まったのはミリアムだった。
『えぇ、そうですわ。大陸暦六一五年から翌年に掛けて、私達を取り巻く環境は大きく様変わりしましたわ。その事に関しては、母上様や、そちらの眼鏡の方や鶏冠頭の方が詳しいかと』
「……分かったわ、今度、聞いてみる」
何かを察したリンダは、それ以上踏み込むような事を言わなかった。聞くだけ野暮というより、聞いてはいけない何かがあるという気配を察したからだった。間の悪い沈黙が漂うかと思われた所に、サイクスが一歩を踏み出した。
「……ミリアム、オリビア。お前達が私をここまで導いてくれたのだな」
『導いたというよりは、偶然の連続で結果的にこうなった、ですわ』
『私も、このような形でニック様と再び会えるとは、思っていませんでした』
「いや、全ては偶然だけではない。私の石棺があった部屋の術式陣……あれを弄ったのはオリビアだな。そのおかげで、術式の一部が反転し、古い時代に私の魂を飛ばすはずが、遠い未来からカーンを呼び寄せた」
サイクス達のやり取りに、リンダはある事を思い出していた。全ての発端となった、酒場での出来事だった。
「過去の真実を暴き、未来を救う……もしかして、サイクスとカーンを助けるって意味だったのかな」
「それは……確か、お前を襲った水の四天王が出した占いだったな」
イミノッキがリンダを襲った事を聞かされた時の気持ちを、忘れた事はなかった。意味の分からなかった占いが、ここに来て的中していた事になる。
「それなら、尚更ね。魔王を倒して呪いを完全に解かなきゃ、サイクスもカーンも助けられないわ」
リンダの意気込みに、エリックは心なしか勇気付けられていた。サイクスもカーンも同様で、復活が目前とされる魔王ルハーラに対する不安や恐れが、少しでも和らいだような気がしたのだ。ふと、灯火が大きく揺らめく。術式を行使していた時間が長く、魔力の供給が不安定になってきたのだ。
『そろそろ、この術式も切れてしまいますわね』
「ミリアム、一つ教えてほしいの」
名残惜しそうな表情を浮かべたミリアムに、リンダは半ば慌てたように尋ねた。
「私がイェリアさんにお母さんの面影を見たのも、お兄ちゃんに特別な気持ちがあるのも、私の魂にあなたがいるからだよね?」
『……えぇ、そうですわ。そして、私達は兄上様を然るべき場所に送った時、あなた達の中に溶けて消え去るのですわ』
「そうなったら、私はどうなるの? ここまでの巡り合わせは、あなた達が手を加えてきたからだよね。あなたが私の中から消えてしまったら、私は……どうなるの?」
リンダの不安はもっともだった。ここまでの道のりがミリアムの導きだとすると、今のリンダを構成する要素におけるミリアムの割合は決して小さくない。自分が空っぽになる不安が、リンダの心身に覆い被さっていた。その不安に対し、ミリアムは口許に小さく笑みを浮かべた。
『私もあの騒乱の後、立場も名前も変えて生きてましたわ。真っ白な自分に、新しい色が宿るのですわ。リンダ、新しい自分を恐れてはなりませんわ』
ミリアムの横で聞いていたオリビアは、小さく頷くだけだった。リンダは困惑を残したまま、消えゆく灯火と解ける術式が織りなす光と闇の狭間に立ち、形容しがたい気持ちに心を染めるばかりだった。




