第六話『現れた者達』
暦不詳、某月のとある日――
体を起こし、寝蔵から顔を出した男は、相も変わらず茫漠と広がる褐色の大地が群青の海まで続き、水平線の彼方で入り混じっている光景を見た。空はうっすらと幕が張ったように白み掛かっており、常に肌寒さを感じている。
「分かっちゃいるけど、変わんねぇよな……」
世界がこうなる前の姿を、男は知っていた。大地を染める緑と散らばる生命の営み、青々とした海と空、紺碧の星空にさえ生活圏を広げていた人類の絶頂は、ある時を境に瞬く間に転落した。
天墜事故――
人工居住衛星『ヤノミ』が墜落し、全世界を大きく震わせた事故であり、それがもたらした天変地異による世界の崩壊を総じて、そう呼ばれている。
創造神ダレイオク直属の六大神を束ねる智神ヤノミの名を冠した衛星は、不幸な偶然の連なりから大地への崩落という悲劇に見舞われた。
人工居住衛星への移住が開始されたのは、大陸暦にして一九七九年の事だった。月との重力が拮抗する空間に建設された『ダレイオク』は、陸海空に続く人類の新たな領域として選ばれた。創造神の名を冠したのも、加護を得るためだったり、験担ぎだったりと理由は定かではない。
それから僅か二十年、第二衛星『ヤノミ』に想定外のコースから進入した小惑星が激突、外壁の損傷と同時に姿勢制御システムに異常が発生した。電源設備の破損によるエネルギー供給の不安定化によって自己修復と軌道修正システムが作動せず、『ヤノミ』は建設中だった『シージョ』と『レンストラ』も巻き込み、大地に激突した。
三基の人工居住衛星の落下は、全世界の大地を揺るがし、海と空を荒れ狂わせた。最終的に、どれほどの人名が喪われたかは定かではない。
「あれから、十年か……」
男は、今日の食い扶持を求めて寝蔵を出た。
荒れ地を駆け抜ける為に改造されたトライクが砂埃を巻き上げる。狩りに用いるのは愛用の散弾銃と軍用のナイフ、それ以外にも幾つかの商売道具が座席の荷物入れに納まっていた。
「よう、元気そうだな」
「なんだよ、お前まだ生きてたのか」
「お互い様だ」
斜め後ろから迫って来た軽バギーを駆る男が、声を掛けてきた。
「今日はどいつを狩りに行く?」
「岩切りウサギを最低でも十、それと装甲コガネを追い掛ける」
「随分と張り切ってんなぁ」
「こいつのメンテと弾の補充もしたいしな」
岩切りウサギはこの地域でよく見掛けられる生き物で、岩場を乗り越える強靭な足腰と、その名の通り岩をも切り裂く前脚の鎌状の刃が特徴である。昆虫食で、毛皮も肉も骨も余す事なく活用出来る事から、人の生活圏はこのウサギの生息域の近くに作られる事もある。
装甲コガネはそんな岩切りウサギの主な獲物であり、発達した甲殻は金属のように硬い。基本的には大人しい性格で、岩陰の苔やキノコ、小さな虫などを食べており、この甲虫の行く先には豊富な食料があると言われている。
「これからの時期は野菜だ。野菜が手に入れば生活もマシになる。ウサギとコガネはそのついでだ」
男がトライクのスロットルを握り込むと、バギーの男は「頑張れよ」の意を込めて手を振ってハンドルを切った。この時世、野菜は食べる貴金属と言われるほど貴重であり、新鮮なニンジン一本持ち帰るだけでも、半月は困らないほどの水と食料を得る事さえ出来た。
「さて、この辺りだな……」
男はトライクを停めると、携帯端末を取り出した。カメラを起動し、温感モードに切り替える。肌寒い周辺の温度が示す青の中に、ウサギの体温が示す赤を探す。
「この時期は虫が多い。虫は奴らの恰好の餌だ。そして、奴らは俺の餌……ってな」
半刻ほど岩場を歩いていると、違和感を覚えた。この辺りの岩場や荒れ地は自分の庭のように覚えている。生えている木や放置された二足歩行機の残骸、人工居住衛星の破片。
「変だな、何もない……」
確かに記憶しているはずの物が見当たらない。ふと、カメラを足元に向けた。男の顔が強張る。薄ら寒い空気の中に、確かにある赤。体温である。
「しまった、岩盤竜か!」
見慣れた岩場は、この巨大生物の擬態だった。
岩盤竜、巨大な岩盤に似た甲殻を有する歩行性の竜で、大きいものでは小高い丘ほどにまで成長する。食性は鉱物や昆虫を主とする雑食。そう、雑食なのだ。
「このままだと、俺が餌ってか……冗談じゃないぜ!」
急いで岩場を駆け降り、岩盤竜の体温を感知しない辺りまで走る。獲物を察知した巨影が、まるで岩場を捲り上げるようにうごめき、側頭部の二対の眼が男を捉える。男は二連装の散弾銃の引き金を立て続けに引いた。ウサギ狩りの散弾では、岩盤竜を相手には砂礫に等しい。
「クソっ、怯みもしないか!」
男はトライクに戻ろうと全力で駆け出した。走りながら次弾を装填する。今度は空にむけて二発、発光信号弾と音響炸裂弾だった。岩盤竜は獲物を察知するため眼が多く、耳も良いので、光と音は効果があった。決して安い弾ではないが、命には替えられない。巨体が怯んでのけぞった。
「よし、これで今のうちに……!」
男の爪先が掴んだのは空だった。岩場が切れていた。前を見ていなかったのだ。落ちる、脳がそう判断するよりも早く、男の体は寂れた大地に穿たれた奈落の底へと落ちていった。
落ちたはずだった。
大陸暦一三五八年、七月二十一日――
エール鉱山の遺跡にて発見された石室、以前にも自分を襲ったジェリム男に、二度目の襲撃を受けたリンダは、助けを求めて体の底から叫んだ。それに応えたのか定かではないが、三方の壁画に隠された術式陣によって天井にまで繋げられた魔力の経路は、開かれた門のような紋様を照らし出した。それから間もなくして、男が降って来たのだ。
「痛てて……なんだここは。荒れ地の底でも奴の腹の中でもないか」
いきなり人間が降ってくるという異常事態に、その場の誰もが動きを止めた。襲撃者たるジェリム男でさえ、標的たるリンダと共に呆然としている。エリックとシルビアも、何が起きているのか見当が付かなかった。
「すまない、誰かここがどこか教えてくれないか?」
「動くな」
状況説明を求めた男に刃を向けたのはジェリム男だった。男は一瞬、目を見開いたが、即座に散弾銃の銃口を向けた。弾は装填されていないが、ハッタリにはなるだろうと踏んだのだ。
「悪いが、質問にナイフで返されたら、こっちもこいつで返すしかなくなるな」
男の挑戦的な眼差しが、ジェリム男をまっすぐに捉える。癇に障ったのか、ジェリム男の手元がわななき、その動揺はナイフの刃にも伝わっていた。男の視線が一瞬、ジェリム男から外れる。その先にいたのはリンダだった。拳銃を構え直し、銃口をジェリム男に向けている。
「あなたの負けよ。大人しく投降しなさい」
「ふん、それで我に勝ったつもりか。舐められたものだ……」
ジェリム男が冷気をみなぎらせる。リンダも男も一瞬たじろいだ、その隙を突くかのように、ジェリム男の右腕が鞭のようにしなり、鉄砲水のごとく伸びてきた。その手にはナイフの刃、向かう先には銃を構えながら困惑したリンダ。彼女の目には、迫るナイフの切っ先しか映っていなかった。
「危ない!」
リンダの視界が大きく揺らぐ。右に向かって押し倒されたのだ。我に返った彼女の目に飛び込んできたのは、眉間に皺を寄せながらも、励ますような笑みを浮かべたシルビアだった。
「リンダちゃん、大丈夫?」
「シルビアさん……?」
崩れ落ちるシルビアの体を、今度はリンダが抱き止める。シルビアは左の肩から背中に向けて大きく斬られており、シャツはあっという間に赤く染まっていた。呼吸さえ苦しそうな苦悶の呻きと、手のひらに伝わる熱を帯びた赤は、シルビアの体から流れ出る命そのものであった。リンダは戦慄するでもなく、奮い立つわけでもない。背後に迫る襲撃者の刃にさえ、意識を向ける事が出来ないでいた。
「させるかよ!」
ジェリム男に斬りかかったのは、名も知らぬ異邦人だった。大振りのナイフによる袈裟懸けの一閃、難なく避けられるも、当てる事を狙ったわけではない。敵の注意を引いて負傷者を逃がすためだ。
「岩盤竜に終われて落っこちた先で、いきなり過ぎて何が何だか分からないが、お前が敵だって事は分かる」
「ふん、何も知らぬ者が、何故そう言いきれる?」
「何故だと? お前は女を斬った。こういう時は、決まってお前のような奴が悪なんだよ」
男の言葉に、ジェリム男は無言の刃で返した。互いの白刃が幾度となく交差し、ぶつかり合い、灯火の術式が照らす薄橙の光の中で乾いた金属音を響かせる。我に返ってシルビアの応急処置に当たるリンダとエリック、そして切り結ぶ二人の男。その光景は、三方の壁画に描かれた光景とよく似ていた。
――東より来る異邦人、魔の者と戦い、新たな人の地を拓く――
キュリール建国の伝説が重なった時、炸裂火の爆発で崩れ掛かった石棺から、光が溢れた。簡素な造りの石棺は崩れ、その中に納められていたであろうという物品が転がり出てきた。
「な、何!? 何が起きたの!?」
「しまった、奴が!」
リンダが叫び、ジェリム男がうろたえる。男は棺の中身が出てくるという光景に気味の悪さを覚え、手を止めて一歩引いた。エリックは止血と鎮痛作用のある薬草の葉をシルビアの肩に当てながら、棺から出てきた物に注視した。
「あれは……兜?」
灯火に照らされた黒く丸い塊のようなものは、金細工で縁取られた兜だった。それも、建国の祖とされる、黒い鎧の英雄が身に付けていた物と同じ形をしていた。兜だけではない。鎧、篭手、鎖帷子、金の短剣が、まるで時が止まっていたかのように劣化せずに出てきたのだ。
「サイクス一世の鎧兜の模造品が作られていたなんて話は聞いた事がない。ましてや、こんな石室に隠すように納められていたなどと……」
エリックは心のそこから驚きを隠せなかった。世に二つとないはずの黒い鎧が、目の前に存在する。誰かが何かの目的で作って隠したのか、それとも――
「……私は、誰だ?」
兜から声が聞こえてきた。くぐもったような反響音に近い声でだった。その場の誰もが言葉を失う。
「黒い鎧の戦士……! 我らが主を討った仇敵……!」
「そうか、お前はあの時の……少しだけ、思い出したよ」
声に導かれるように、石棺から転がり出た鎧や篭手が兜の元へと引き寄せられる。傍から見る分には恐怖でしかなかったが、ジェリム男だけはその正体に気付いているのか、身構えたまま微動だにしなかった。鎧兜が組み上がり、人の姿を成す。壁画にも描かれ、建国の伝説となった存在、黒い鎧の英雄が顕現したのだ。
「サイクス・キュリール一世……」
「……サイクス、それが私の名か。少し違うような気もするが、今はそう名乗っておこう」
リンダの喉を突いて出たような呟きに、黒い鎧が応じる。ジェリム男はあらん限りの敵意を剥き出しにして、サイクスを名乗る黒い鎧に向けてナイフを突き出した。
「思い出したと言っただろう、水の四天王」
一直線に伸びてくるナイフの横腹を、掌底打ちで弾き飛ばす。サイクスを名乗る黒い鎧は、半身のまま一歩踏み込み、ジェリム男の顔面に裏拳を見舞ったのであった。
『黒い鎧の英雄』サイクス・キュリール
魔の島と呼ばれていた時代のキュリール島を解放し、王国を興した黒い鎧の英雄とされている人物。
初代国王という重要な存在でありながら、その全貌は謎に包まれている。
数少ない肖像画では、麦の穂のような黄金色の髪にがっしりとした顔立ちとして描かれている。
しかし、黒い鎧の戦士が東の海からやって来たとされる出来事を描いた壁画などでは、
兜を脱ぐと緑色の髪に器量の良い顔として描かれている事もある。どちらが本当の姿なのかはっきりしない。