第五十九話『金色の茨』
大陸歴一三五八年、八月三十日――
エリックの視界に広がっていたのは、夢も現も分からない光景だった。
迫る水竜に立ち向かう黒い鎧、それがピコーダとサイクスなのか、あるいはまた別の何者かなのか、その区別が付かなかったのだ。ふと、手元に目が移る。自分のものではない手が見えた。リンダと同じくらいの太さとしなやかさ、そして柔らかさを帯びた輪郭線。これは白昼夢だと察したエリックは、目覚めるべきだという意思とは裏腹に、まだ目覚めてはならないという本能的な声を聞いた。夢と現実の狭間でしか行使出来ない力がある事を察したのだ。
それこそが、目の前に展開した障壁の術式そのものだった。
「これは……この術式が現存していようとは……」
驚きを隠せなかったのはルミチャスだった。人の十倍は生きるという竜の生でも、見なくなって久しい術式という事だった。
「私も驚いているよ。何せ、これの使い手は彼女を最後に絶えたと思っていたからね」
サイクスが応じた。突っ込んできたピコーダの体ごと受け止めた障壁は、油膜のように薄く、羽衣のように軽く、それでいて砦のように堅かった。
「しかし、この術式は消耗が尋常ではない。彼は人間だ、じきに魔晶石が尽きる。対処を急がねば」
「焦らずともよい。奴の後ろを見ろ」
ルミチャスが指差した先には、大剣を担いだシェパーナが大股に迫って来ていた。
「ピコーダ、まずは貴様から仕留める!」
「偉ソウニ……!」
振り降ろされた海洋銀の大剣は、夜光虫のような輝きを帯びた軌跡を描いた。そのシェパーナの渾身の一振りを、ピコーダな左手の刃で受け止めていた。舞い散る火花が互いの顔を照らし出す。空いた右手の刃が振るわれる、そう判断したシェパーナは速やかに一歩引いた。逆手に握られた刃によるアッパーカットが宙を切る。
「やはり、牙を砥いでいたか……!」
「僕ヲ侮ッテイタナ……?」
双眸に不気味な光を宿し、だらりと舌を垂らした瞬間、シェパーナは言いようのない不快感と警戒心に襲われた。左手の刃が鞭のようにしなり、咄嗟に構えた大剣の腹を叩く。反響音が嫌に響いた。
「……! まずいな……」
今の受け太刀で、大剣にはかなりのダメージが入っていた。元より、ヴァイスやカーンを相手に戦った上での斬り合いである。考える時間も与えず、ピコーダが突き掛かってきたが、それは脇から伸びてきたロゼの槍によって阻まれた。
「お兄様、大丈夫ですか?」
「うむ、なんとかな……」
献身的に兄を支える姉の姿、それはピコーダの癇に障る事この上ない光景であった。
「ヤメロ、ソンナ姿ヲ見セルナ……!」
シェパーナに寄り添うロゼに、ラニャの影が重なる。そして、いつものようにピコーダに関する讒言を吐いている、時として甘い言葉と仕草で誘惑し、時として毒を帯びた棘のような叱責を浴びせる。ピコーダはラニャの身体を愛し、心を憎んでいた。その姉の肉体は死に、残された心が彼の中に幻を創り出すのだ。
「ソウヤッテ、皆シテ僕ヲ苛メルンダ……!」
嘆くピコーダの声色は、悲痛な叫びを上げる子供のようであり、分別の付かない大人のようでもあった。
「ダカラ、竜王ニナッテ、水竜ヲ支配スル……」
呪詛に近い言葉を遮ったのは、一筋の弾道だった。短剣に弾き落とされながらも、ピコーダの注意はそちらに引き付けられた。真鍮に似た輝きを放つ拳銃を構えたカーンが、あらん限りの殺気を向けている。
「お前の言いたい事が分からんわけじゃない……だが、お前は幼い弟を手に掛けようとした」
カーンの表情に、ロゼは思わず身震いした。先程まで自分達と干戈を交えていた時よりも遥かに強く、純粋な敵意を向けていたからだ。
「そこのデカブツの方が人間に敵対的で凶暴だが、ルールは守っていた。あくまで、水竜のやり方と戦士のあり方に忠実だった」
シェパーナが渋い顔をする。どう感情を処理していいか分からなくなった時のそれだった。
「お前は……何だ?」
カーンの問い掛けに、ピコーダは返す言葉もなく、高鳴る自らの鼓動に全てを委ねて一歩を踏み出した。雄叫びもなく、激流のような勢いで刃を振り上げた姿は、まさしく怒濤というべき狂いようだった。重装弾とはいえ、数発の拳銃弾など小石のように弾かれ、鱗に小さな破れ目を穿つ程度だった。
「徹甲弾がいるレベルかよ……!」
たちまち間合いを詰められたカーンに、ピコーダの刃が迫る。繰り出された突きが、彼の腹部を穿った。咄嗟の後ろ跳びと防刃性のあるジャケットによって致命傷は免れたが、衝撃まで吸収する事は出来なかった。カーンの息が止まる。吹き飛ばされて地面を転がり、すぐには立てなかった。
「オ前モ、殺ス……!」
逆鱗に触れた人間を許す道理などない。荒れる若い水竜の視界には、カーンしか映っていなかった。その視界が、衝撃と共にぐらついた。
「お兄様!」
「ここまで言われて、動かずにいられようか」
シェパーナが大剣を押し当てるように、体ごとぶつかって来たのだ。勢い余って揉み合うように転がった二頭から、呻き叫ぶ声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
ロゼの心配をよそに、揺らめくように立ち上がったのはシェパーナだった。見るからに増えた刀傷と、相応するだけの出血はあるが、少なくとも生きている――安堵から槍の構えを解いたところへ、ルミチャスの怒声が響いた。
「ロゼ、まだだ!」
えっ、と喉をついて出たような声を残して、彼女の身体を巨大な水の塊が打ち据えた。水鎚の術式、それも尋常ではない程に練り込まれた魔力で作り出された一撃に、不意を突かれたロゼの身体は大きく吹き飛ばされた。同時に、辺りを覆っていた水の幕が張力を失い、倒れ込むように降り掛かってきた。ロゼが意識を失い、鏡幕の術式が切れたのだ。血溜まりが臭いごと洗い流され、地下水脈に溶けてゆく。飛沫が織りなす靄の向こうに、不気味に揺らめく影があった。
「お前という奴は……!」
ルミチャスが眉間に皺を寄せる。語気の強さから見て、ほとんど激昂していた。その視線の先には、シェパーナの首を掲げたピコーダが立っていたのだ。ロゼはそれを兄の姿と見間違えていた。用済みとなった首を放り投げ、再び双剣を構えたピコーダが、獣のような速さで迫る。ルミチャスは横目で自分達の状況を確認した。まともに戦力と取れるのはサイクスだけで、リンダは幼い妹と弟を任され、エリックは先程の障壁の術式で消耗している、そう認識していた。
ゆえに、次に目の前で繰り広げられた光景をすぐには理解出来なかった。
「お兄ちゃん!?」
「エリック、それは……」
リンダとサイクスが相次いで上げた驚嘆の声、そして自分の視界を追い越すように伸びてゆく金色のうねり。まるで波濤のように繰り出されたそれは、人の腕や脚ほどの太さを有する茨だった。
「金色の……茨……?」
呆気に取られたルミチャスの目の前で、ピコーダが茨に押し包まれようとしていた。二振りの刃で迫る茨を切り払っても、次から次へとまとわりつく金色の波は、やがて両の手足を絡め取っては岩のように硬くなった。太い茨から伸びる棘が鱗を穿ち、肉を裂き、骨を突いた。悲鳴とも雄叫びとも付かない声が地下道に響き渡る。
「うるさい奴だな、これで終わらせてやる」
風をまとうように飛び込んで来たのはティットルだった。妖精剣はまだ半数を残している。彼女の号令一つで三振りの妖精剣が異なる軌道で飛び掛かり、ピコーダの胸や腹に突き刺さった。悲鳴も雄叫びも絶え、残された生命力から絞られる声は絶叫に変わる。素人目に見ても致命傷だった。
「水竜というのは、恐ろしく丈夫だな」
「いや、あれは明らかにおかしい。狂乱の域を超えている」
「ならば、打つ手はこれしかないか」
「……なるほど、恐らく二発必要だ。君が先に撃て。弟の不始末は……私が終わらせる」
苦しみながらも死に至らないピコーダを見て、サイクスとルミチャスは顔を見合わせた。生きているというだけの屍兵というサイクスの評価は的を射ていた。しかし、今はその評価さえ正しくはない。二人が同時に輝かせたのは純白の光だった。茨の束縛が弱まる、エリックの限界は既に超えていた。
「行くぞ!」
先んじてサイクスが駆け出し、一寸間を置いてルミチャスが続いた。純白の光を短剣の刀身に移し、右手の束縛を振りほどいたピコーダに向けて突き出した。解呪の術式、魔力による強化や呪縛を打ち消す効果のある白い光が、周囲の空間をガラスの如く叩き割った。ピコーダの周囲にのみ魔力を滞留させる力が働いていたのだ。
「これを見落としていた事は、兄としての不覚だ……今すぐ楽にしてやる」
ルミチャスがサイクスに倣い、錫杖の先端に白い光を集約させる。先程よりも動きの鈍くなったピコーダに錫杖が触れると、狂い果てていた目の色を変え、苦しみながらも眠るような表情で目を閉じた。同時に、金色の茨が朽ちて、砂のように崩れ去った。
「お兄ちゃん!」
リンダが叫び、エリックに駆け寄る。両膝を付き、立てないほどに疲弊していた。人間の身でありながら、魔法使いに近い出力で術式を行使したのだから、無理もなかった。魔法使いと竜、それぞれの力を人間の身で引き出した兄妹は揃って息が荒く、一押しで倒れそうなほどであった。
「お兄ちゃん……?」
「大丈夫か、エリック……」
ふと、リンダとサイクスがエリックの顔を覗き込む。そして、二人して言葉を失った。ひどく疲れて息を荒げながらも、男としては端正な顔立ちに色香が宿っていたように見えたからだ。
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
ティットルに声を掛けられた頃には、エリックの顔は元に戻っていた。
「そういえば、ティットルも無事だったのね」
「暴走したあいつに、鏡幕の外まで吹き飛ばされてね。術式が切れたから戻って来れたわ」
そう言うと、ティットルはロゼに目をやった。意識は取り戻していたが、起き上がるには至っていない。うなだれて治癒の術式を使う事しか出来なかった。
「ヴァイス、立てるか?」
ルミチャスは未だに倒れていたヴァイスの元に歩み寄ると、錫杖の柄の先で揺さぶってみせた。まだ首飾りの争奪戦は終わっていなかった事を思い出し、リンダが短剣を構えた。
「まあ、待て。ヴァイスが生きているか、意識はあるか、まだ戦える気力はあるか、それ次第だ」
顔も向けず見透かしたかのように答えたルミチャスに、リンダは踏み込む事が出来なかった。少し経ってから、カーンとほとんど同じタイミングで目を覚まし、ゆっくりと立ち上がった。
「……ラーム、首飾りを兄さんに」
「わかりました」
下の兄弟のやり取りは淡々としていた。王位継承の意を示した者の決定に、部外者であるリンダ達が余計な口を差し挟む事は許されない。納得いかない事も多々あれど、ヴァイスの意思はルミチャスに首飾りを託す事だった。末弟から王の証を受け取ったルミチャスは、戴冠するかのような厳かな所作でそれを自らの首に掛けた。
「……これで、私が次なる竜王ソキュラだ」
新たなる竜王の言葉は重かった。
重装弾
弾頭に細工を施していたり、金属の密度を上げて重量を増した弾丸の事。当然、加重に対する装薬量の増加もあるため、一発あたりの重量は通常弾と比べて五割増とも言われている。
拳銃でも小銃ほどの威力を出せるとまで言われているが、剛性や銃身長などが大きく制限される。
反動も大きいため連射は基本的に出来ないとされるが、カーンの使っていた拳銃はドワーフ謹製のバリカチウム合金製フレームのため、無理をすれば出来る。




