第五話『壁画の石室』
大陸暦一三五八年、七月二十一日――
エール鉱山の遺跡に足を踏み入れた一行は、湿気を帯びた重苦しい空気に包まれた。それでいて、独特の冷気を漂わせている。かつてこの地に生活を営んだ者達の思念か、あるいは神性のある何かがこの気を放っているのか。エリックやシルビアはともかく、慣れないリンダは緊張の面持ちであった。
「シルビア、この遺跡は主に、寺院や聖堂の跡だったな」
「そうね。魔の島と呼ばれていた時代には、魔物から逃れた人々が隠れ住むために掘った洞穴型の村落が、この島のあちこちにあるって言われてるわ。この辺りは魔晶石の鉱脈もある事だし、それなりの規模があったんじゃないかしら」
シルビアの説明は、半分はリンダに向けられたものだった。キュリール島にて人間が居住していたとされる遺跡の多くは、洞穴を利用したものや掘ったもの、森や山に砦を築いたもので、基本的に都市部からは離れていた。今日における国内の主要都市は、黒い鎧の英雄が魔物の勢力から解放した地が多く、その最たる例が王都ジョーギンと港湾都市ニプモスであった。
「ねぇ、お兄ちゃん。エール鉱山は建国の頃から使われていた鉱山よね」
「そうだけど、それが何か?」
「どうして、この遺跡は使われなくなったんだろうって」
「鉱山で採れる資源を選別し、出荷するための設備や、作業員の生活に必要な施設や商店を増やすためには、洞穴を掘るよりも外に建てた方が早いからだよ。この地域はニプモスの次に解放され、黒い鎧の英雄が兵站の拠点にしていたくらいだ」
エール村は今でこそ村に落ち着いているが、黒い鎧の英雄の時代には、村全体を囲う防壁が作られており、重要拠点とされていた。その後も豊富な魔晶石の恩恵を受け、魔法文明時代の間は小都市にまで発展していた。その後、蒸気機関が文明の主役になると、時代遅れな設備を多数抱えた、小回りの利かない地とされて急速に衰退、過疎化を経て持ち直し、現在の姿に至っている。
「それにしても、随分と冷え込んでるな」
「夏とは思えないでしょ?」
「と言うか……寒くない?」
エリックとシルビアにとって、遺跡が放つ冷ややかな空気は慣れたものだった。しかし、リンダからすれば、これからが夏本番だと言うのに、この寒さは不自然極まりない。
「ねぇ、シルビアさん。遺跡って、こんなに寒いものなの?」
「そうね。元は人が使っていた場所だし、壁や柱、使われていた物に何かが宿っているのかもね」
「何か……って言われても、そんな非科学的な」
「ここに入る前、エリックに魔術で酔い覚まししてもらったでしょ? 科学で説明のつかない事なんて、たくさんあるのよ」
シルビアの丸眼鏡が光る。リンダはそういうものか、と半ば納得したような顔で辺りを見回した。不自然な寒さは、そこかしこから漂ってくる。この寒さには覚えがあった。発掘や研究のためのランプの数が、奥に進むごとに減ってゆく。二人の足が止まった。エリックの背にぶつからないよう、リンダは慌てて足を止める。
「ここか?」
「えぇ、昨日の調査中、隙間風が吹いている事に気付いてね。何かを隠すような壁があったから、軽く崩してみたの」
エリックとシルビアの前には、人一人分ほどの幅の縦穴が空いている。冷気はその穴に近付くにつれて、ますます強くなった。リンダは二の腕を擦って寒さをしのぐ。肘から先は肌が粟立っていた。
「お兄ちゃん、おかしいよ。すごく寒い」
「確かに、これは単純な遺跡に漂う気配とは違うな。シルビア、僕が先に入る」
エリックはシルビアを半ば押し退けるようにして進み、縦穴の奥へと入って行った。少し経ってから、穴の向こうから光が差す、灯火の術式だ。この時、リンダは不自然な冷気の正体に気付いた、と言うより思い出した。
「あの時と同じ、私を襲った奴が占いをしていた時と同じ、嫌な感じの冷えた空気だ……」
「という事は、あの奥から魔力が流れているのかな?」
とにかく行ってみよう、シルビアはそれだけ言うと、エリックに続いて縦穴に入った。リンダはあの忌まわしい冷気に近付く事への抵抗が大きかったが、ここで待っているのも薄気味が悪い。意を決して、半ば飛び込むように縦穴を抜けた。
「お兄ちゃん、これは……」
閉ざされていた石室の空気は、思った以上に澱みがなく、七〇〇年の時を経ているとは思えなかった。広さはちょっとした屋敷の庭より少し広く、天井が低いくらいで、中央には簡素な石棺が置かれていた。そして、自分達が入ってきた以外の三方の壁には、立派な画が描かれていた。
「東の壁には船でやって来た人間の一団、北の壁には人と魔物の戦い、西の壁には開拓と建築の壁画、そしていずれの絵にも、黒い鎧の英雄が描かれている……」
「黒い鎧の英雄って、初代国王のサイクス・キュリール一世よね。その棺はジョーギンの墓所に埋葬されているはずなのよ」
壁画に一通り目を通したエリックに、シルビアが応じた。リンダはこれほどの壁画を見るのは初めてで、まだ東から北の壁に差し掛かったところだった。特に、黒い鎧の英雄に近侍する二人の人物に注力している。
「この石棺に納められているのは誰だろうか。開けようにも、僕ら三人の力では動きそうもない」
「とりあえず、ここの話を他の学者さんにも伝えて、人を回して貰わないとね」
そう言うと、シルビアは鞄からカメラを取り出した。石棺に壁画、石室全体を撮影してゆく。光源はエリックの灯火の術式による光を利用した。一部の写真にはリンダも写り込んでいるが、石室の広さを推し量るには丁度良い指標でもあった。
「そういえばお兄ちゃん、ここに来る前の話だと、この部屋は魔晶石の鉱脈に囲まれてるんだよね?」
「そうだな。エール鉱山とこの遺跡の内面図を照らし合わせると、ちょうどこの石室の周りに鉱脈がある」
「昔の人は、どうやって掘り進んでいない山に、鉱脈があるか分かったの?」
リンダの疑問はもっともだった。魔晶石の鉱脈に囲まれた、何もなかった場所。ここまで狙ったかのように正確に石室を作る事など、現代でも簡単に出来る芸当ではない。
「魔晶石の鉱脈探しは少し特殊でね。術式陣を用いるんだ」
「術式陣?」
耳慣れない言葉に、リンダは首を傾げた。魔法文明時代や魔術に関する知識がなければ、目にする事さえない言葉だからだ。
「魔力を媒介する物質を、特定の並びに置くんだ。使う物の魔力は強くなくていい。魔力抽出詠唱に耐えられないほどの、魔晶石の粒でも構わない。また、それらは多少離れていても問題ない。大掛かりな術式陣を構築するために、魔術師を等間隔に並べたという事例もあったそうだ」
エリックは手帳の空いたページに、鉛筆で模様を描き始める。矢印や渦巻きに見えるもの、それらは魔力の流れを導き、集め、解き放つのだという。
「術式陣で強化された魔力で行使する術式は、術者一つで行使する時よりも遥かに強い力が出る。例えば、僕が今使ってる灯火の術式なら、それこそ灯台の光になるくらいに」
「すごいのね、魔術って。それで、その術式陣がどういう風に使われるの?」
「共鳴と透視、この二つの術式を強化して、山を丸ごと見てしまうんだ。どちらも難しい術式だから、それが使えるだけで引く手数多だったそうだよ」
エリックの説明に、リンダは頭が追い着かないながらも、首を縦に振った。実際、魔晶石の鉱脈に囲われる形で作られた石室という、現実を見ている。頃合を見て、シルビアが割って入って来た。
「そこで気になるのが、この石室よ。壁画と石棺しかなくて、壁で塞がれた石室。しかも、魔晶石の鉱脈に囲まれて、漏れ出た魔力が充満してる。まるで、何かを封印しているみたい」
「それは、我が主を討った者の棺だ」
他の誰とも違う、第四者の声に、三人は違いの顔を見合わせた。石室に入って来た時の縦穴に立つ人影は、リンダにとって見覚えのあるものだった。彼女を襲ったあのジェリム男である。リンダが反射的に銃を抜いた。安全装置を外し、人差し指は既に引き金を掴んでいた。ただならぬ雰囲気に、エリックも予備の魔晶石の入った小筒を起動させた。シルビアも採掘に使う片手持ちのハンマーを手に取る。
「我の狙いはその娘一人だが、邪魔立てすれば容赦はせぬ」
「悪いが、その娘は僕の妹でね」
「そうよ。彼の妹という事は、ゆくゆくはあたしの義妹という事よ」
「えっ」
間の抜けたような声を返したリンダだが、すぐにジェリム男に向き直った。
じりじりと、足音一つ立てずに歩み寄ってくるジェリム男を前に、手が震えそうになる。エリックの灯火の光が、右手に握られた大振りのナイフのシルエットを照らし出す。リンダは引き金を引いた。短く乾いた炸裂音が石室に反響する。大股で五歩と離れていない距離だったが、弾丸はジェリム男を大きく外れて壁に当たり、光を放った。
「ふん、あの女のようには行かぬか」
リンダの意識はジェリム男のナイフに向けられていた。数日前、自分の命を後少しで断ち切ろうとした、あの禍々しい切っ先は、否応なしに目に入る。そこで冷静に胴体を狙えなかった所が、マリーのようなプロとの違いだった。ジェリム男が姿勢を低くし、一気に踏み込んで来る。
「させないよ!」
シルビアがハンマーを振りかぶった。彼女も考古学者で、戦闘に関しては素人だった。振り下ろされるハンマーの柄を目掛けて、ナイフの刃が抜ける。シルビアにはほとんど手応えのないまま、ハンマーの頭だけが切り落とされた。
「なんて切れ味……」
「次はその首を落とすぞ」
ほとんど一瞬で背後に回りこんだジェリム男のくぐもった声が、シルビアの耳朶を打った。彼女は脱力して崩れ落ち、立てなくなった。再び、ジェリム男がリンダに向き直る。今度はエリックが立ちはだかった。
「護身用に覚えてはみたけど、使うのは初めてだ……炸裂火の術式!」
突き出された右手から、高熱の火球が放たれる。油分を多く含んだ粘液の魔物であるジェリムの弱点は概ね炎や爆発物だが、このジェリム男はその域を超えていた。
「炸裂火とはまた、久しいものを見た。だが、その程度……水鏡の術式」
ジェリム男が目の前の空間を、ナイフで丸く切り取るように滑らせる。すると、その軌跡に縁取られたような水の鏡が出現し、エリックの火球を跳ね返したのだ。反動で右手を痛め、身動きの取れなくなったエリックは、それでもリンダの楯になろうとした。そんな二人の脇をすり抜けた火球は、放物線を描いて石棺に直撃し、高熱と衝撃を伴って爆発した。
「我も術式戦など久しい、鈍ったか……」
爆発で吹き飛ばされたリンダにナイフを突き立てようと、ジェリム男が彼女に向き直った。エリックは身動きが取れず、リンダは銃を落として半ば震えている。もう、助けは来ない、それでも彼女の本能は死を拒絶していた。
「誰か、誰か助けて!」
心の奥底から願う声は、この石室に充満する魔力を媒介に、術式を行使させた。壁画の奥から幾何学模様の光の筋が走る。それらは天井一面に描かれた巨大な術式陣に達し、石室全体をまばゆい光で包みこんだのだった。
ラプテン信号銃
大陸暦一三一九年、モノゲア共和国にて開発された小型拳銃で、主に信号弾の運用に適していた事からこの名称となった。
一般的な拳銃と同じサイズの弾丸が使用可能で、基本的な構造は中折れ式の四連装ペッパーボックスピストルである。
銃身が非常に短い、もといほとんど無いため、通常弾での殺傷力は期待出来ず、命中精度の都合から麻酔弾にも向いていない。
信号弾に適しているというより、そのくらいしか使い道が無いとも取れる。
最後の一、二発は通常弾を装填する者が多いが、これは味方の安楽死や自決に使うためである。
そのため、この銃は拳銃でありながら、戦場にて多くの命を奪った銃とも、苦しみから救う慈悲の銃とも言われている。