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第五十八話『正気と狂気』

 大陸暦一三五八年、八月三十日――

 水竜の王を巡る争いは、佳境に差し掛かっていた。

 シェパーナの繰り出す刃の渦をかい潜るヴァイスには体力の限界が見え、カーンが援護しようにもロゼの槍はそれを阻む。じりじりと押されているのは二人も実感していた。勝負は時間の問題か、ルミチャスがそう思った矢先、その背にリンダの声がぶつかった。


「続き、しましょ」


 振り向くと、鈍い銀色の輝きを放つ短剣と、妖精の細剣を構えたリンダの姿があった。人間の顔が浮かべる表情を見分けるのは慣れていないが、その目に宿る覇気のようなものは感じられた。


「あなた達の言う覚悟が、私にどれだけ決められているのかは分からない。でも、私はあの子の力になりたい、ただそれだけよ」

「まあ待て、例えお前がどう思ったとしても、ヴァイスは兄に討たれる。そして、兄は父の思想を濃く受け継いでいる。この先の人と水竜の関係を考えるなら、私を生かす方が賢明と思うがな」

「だから、あなた達全員を倒して、あの子に首飾りを託すのよ。私はヴァイスが勝つと信じるわ」


 一瞬の狼狽えを見せたルミチャスに、リンダは強い口調で返した。この狡猾な次男の狙いは漁夫の利と察したリンダは、こういった男を特に嫌っていた。マークスの店で働いていた頃から、そういった手合いはちらほらと見掛けていたのだ。右手に構えた銀色の短剣が、驚くほどの速さで伸びた。


「くっ!?」


 ルミチャスがリンダの突きを後ろ跳びで避けると、左手の細剣がしなるように打ち付けてきた。錫杖で弾くも、二振りの剣は踊るように切っ先をきらめかせる。その動きはリンダ自身のものとは思えなかった。


「この動きはラニャ……!? しかし、奴は既に死んだはずだ、コピーなど出来るはずが……」


 防戦一方になりながらも、ルミチャスはリンダの出方を窺っていた。ふと、右手の短剣に魔力の滞留が感じられた。薄紅色の靄のようなものが、銀色の刀身を覆っている。



「……リンダの短剣は、いつから銀色に戻った?」

「最初に構えた時は、黒だったな」


 ゆっくりと体を起こしたエリックが、妹の異変に気付いた。ドワーフの古物商から買った短剣は、最初は銀色であった。黒くなったのは、ヌンカル火山の火竜の棲家で四天王ゲハロークと戦った際、その侵食性のある魔力を吸収して逆利用した為である。


「先程、リンダは斬り込んでからの至近距離で炸裂火を放った。あの動きは一朝一夕で身に付くものではない」

「コピーが必要って事か。もしかして、あの短剣には相手の魔力を取り込んで、一度だけコピーの素として使う性質があるのかな……? 今のリンダは水竜の動きをコピーしてるように見える」


 エリックの推察は概ね的を射ていた。それが意図的なものなのか、無意識下で行われるものなのかの判別は付かなかったが、現時点では自分達に有利に働いていた。

 しかし、リンダの有利は長くは続かなかった。

 不意に繰り出した短剣が難なく錫杖に弾かれ、左手の細剣を手繰る間もなく足払いを受けたのだ。自身の視界が上下反転するまでの、あまりにも鮮やか過ぎる流れに、リンダは何が起きているのかの判別すら困難だった。ほとんど寝転されるように仰向けに倒れ、喉元に錫杖の石突きが向けられる。


「あれ、私……」

「単純な体力切れだ。人間が竜の身体能力を真似るなどするからだ」


 一寸遅れて駆け出したエリックに向けて、ルミチャスはリンダを片手で掴み上げては放り投げるように渡した。二人分の重さに、思わずたたらを踏んだエリックは、キッとした視線を返す。


「案ずるな。休めば治る……待て」

「……どうした?」


 エリックの鋭い視線をも軽く流していたルミチャスの顔色が変わった。リンダにかまけていた事で見落としていた何かに気付いたような表情だった。怪訝な顔付きになったエリックの耳を、サイクスの怒声が打ったのは、まさにその時だった。


「エリック、伏せろ!」


 考える間もなく、反射的に体が動いていた。少し前の自分では出来なかった反応である。半月程ではあったが、義勇兵として戦った経験が生きたとエリックは感じていた。自分の顔があった辺りを、白い光の粒を撒き散らしながら高速で突き抜ける物があった。掠めたかどうかも怪しいほどの際を行き過ぎただけで、刺すような痛みが走る。茜色の髪が一つまみ舞う中、その場所を指でまさぐると、温い湿り気が滲んでいた。


「……サイクス、何が起きてるんだ?」

「今のは妖精剣だ。しかも、投げたものではなく、弾き飛ばされてきた」

「一体、何が……」


 リンダに肩を貸しながら立ち上がったエリックが、妖精剣の飛んで来た方に目を向ける。先程までとは明らかに異なる気配が渦巻いていた。


「そういえば、ティットルはどうした? 妖精剣は彼女の術式だったはずだけど」

「その答えが見える……」


 サイクスの口調が重苦しさを増した。恐らく、視線も鋭くなっていると思われる。


「ルミチャスと言ったな、君も備えるんだ。嫌な気配を感じる」


 その言葉に、ルミチャスは黙ってうなずいた。何か勘付いているようだったが、それを教えて貰える立場にない事は重々分かっている。僅かな沈黙の後、出し抜けに雄叫びが響き渡った。鏡幕が激しく揺れ、水のドームの内側が剥がれるように降り注いだ。夕立でも過ぎたかのように辺りを濡らすと、薄靄の向こうに立ち尽くす者の影があった。


「やはりか……そんな気はしていたよ、ピコーダ」


 ルミチャスが勘付いていた事の正体は、見るからに正気を失ったピコーダだった。燐光に似た筋をほとばしらせた双眸は、もはや焦点さえ合っているか定かではない。口許は呪詛の言葉を聞き取れない速さで垂れ流すが故に震えて見え、並んだ牙の隙間からは涎が垂れている。


「……何があった?」

「元々、ピコーダは訳ありでな、色々と抱え込むとあんな風になってしまう。気を付けろ、今のあいつは見境がない」


 サイクスとルミチャスのやり取りに、エリックの脳裏を幾つかの不安が過ぎった。ピコーダの獲物を探すような視線の先に、水竜兄弟の幼い――それでも自分達よりは年上と思われる――末の子らがいる。ティットルは姿が見えず、そして自分は疲れ果てて動けないリンダを抱えている。


「サイクス、それと……ルミチャスだったな。あいつを放っておくと、どうなるか分からない」

「分かっている。兄達も気付いたようだな」


 顔を向けた先に、戦いの手を止めたシェパーナ達がいた。ロゼとヴァイスも揃って顔をしかめている。

 状況の飲み込めないカーンだけが、どこか浮足立っていた。その間にも、ピコーダは聞き取れない速さの呪詛を垂れ流しながら、捕食者の目をぎらつかせながらにじり寄って来る。ひとっ跳びで斬り込める間合いに達した瞬間に動く、それは誰の目にも明らかだった。今のところ、ピコーダから最も近いのはエリックとリンダ、そしてリッコマーとラーム、フィズだった。下手に動けばすぐさま跳び掛かってくる、血管が浮くほど力を込めた足先がそれを物語っていた。


「殺ス、殺ス、殺ス……」

「ピコーダ兄様、またあれですか?」


 ラームの声が出し抜けに響く。ソキュラの首飾りを持ったまま、絶望的なまでに不用意な足取りで、ピコーダに歩み寄っていた。


「ラーム、下がれ! いつものではない!」


 柄になく声を張り上げたルミチャスに、ラームは思わず跳ね上がるようにして足を止めた。しかし、その数歩でさえ、命を刈り取る間合いに近付くには充分過ぎた。


「ソノ首飾リヲ……寄越セ!」


 ピコーダがラームに向かって跳び掛かり、右手の剣を振り上げた。幼い末っ子をも手に掛けてまで、首飾りを奪うような者はいないというのは、ヴァイスの致命的な誤算だった。瞬きにも満たないほどの間に振り下ろされる刃は、幼い竜の頭を叩き割っているはずだった。


「させるか!」


 ピコーダの剣は、割って入ったヴァイスの受け太刀によって阻まれた。短剣の腹を向け、両手で受け止めている。到底間に合うはずのない距離だった。シェパーナが察し、ロゼを鋭く一瞥する。


「瞬歩の術式か! 何故、奴に使ったのだ!」

「申し訳ありませんが、お兄様では体が大きく、術が掛かり切るか分かりませんでした」

「だからと言って、あんな危ない奴の矢面に立たせるとはな。おい、急ぐぞ」


 カーンはロゼに激しく当たるシェパーナを諌めると、拳銃を構えて駆け出した。


「人間の言う事を聞くのは癪だが、事実か。狂った王を生み出すわけにはいかぬ。ゆくぞ、ロゼ」


 一人と二頭は各々の得物を携えて走り出した。



「邪魔ヲ……スルナ……!」

「兄さんに首飾りを渡すわけには……いかない!」


 想像以上の力で押し込んでくるピコーダの剣を受け止めながら、ヴァイスは懸命に声を絞り出した。


「姉サンハ、モウイナイ……! 僕ヲ縛ル奴ハ、モウイナイ……!」

「……やっぱりか……でも、そんな危険な兄さんが王になる事なんて、誰も望んではいない!」


 ヴァイスの言葉に、剣を押し込む力が緩んだ。押し返したと思った次の瞬間、ピコーダ左脚が鞭のようにしなり、破門槌のごとく脇腹に打ち込まれた。息が止まり、視界は白黒と明滅する。唾が飛沫となって口から弾けると、ヴァイスは膝をつく間もなく蹴り飛ばされた。


「ヴァイス!」


 ロゼが叫ぶ。意識が飛んだのか、糸が切れた人形のように弾け飛んだヴァイスが地面を二回三回と転がった。ピコーダは吹き飛んだヴァイスには目もくれず、再びラームが持つ首飾りに狙いを定めた。幼い末弟は恐怖のあまり身動きが出来ず、ただ狂った兄の迫る姿を目に焼き付けるしかなかった。


「リッコマー、ラームを連れて逃げろ!」

「フィズ、その子を掴んで走れ!」


 エリックとルミチャスの指示はほとんど同時だった。リッコマーは可能な限り動かせる腕でラームを抱え、フィズはリッコマーの衣の端を咥えては首を伸ばして背中に乗せる。


「逃ガスカ……!」


 ピコーダは逃げるフィズを追い掛けた。ニダモアの足に追いつける生物は決して多くないが、今の狂い果てた水竜の脚は、まるで水棲の爬虫類が猫科猛獣に化けたかのようであった。


「こっちだ!」


 ルミチャスが錫杖の先端に光を灯して誘導する。それは単純な誘導のためではなく、振りかざす事で魔光弾が飛ばすための光だった。フィズとすれ違った魔光弾は、ピコーダに幾つか直撃した。しかし、有効打には至っていない。正気を失っているため、五感を叩く事での足止めが効かないのだ。


「生きているというだけで、ほとんど屍兵だな……!」


 サイクスが短剣を携え、エリック達の前に立つ。フィズがすれ違い、倒れ込むように止まった。


「大丈夫? 下がってて」


 幾らか動けるようになったリンダがリッコマー達を下ろし、後ろに避難させる。ルミチャスとエリックが杖を構え、猛進してくるピコーダを迎え撃った。


「魔光弾は効かん、炸裂火で一気に仕留める……どうした?」


 ルミチャスが横目で見たエリックは、心此処にあらずと言った表情を浮かべていた。その目に映るのは、存在しない昔の光景だった。迫る竜を前に、一歩も退かない黒い鎧の背中、エリックは意識と無意識の境界に立ち、杖をかざした。


「障壁の術式」

人間と竜の体力差

当然ながら、人間と竜とでは生物としての種そのものが異なるため、身体能力にも大きな開きがある。

元素や環境にもよるが、一般的に『馬の如く強健、獅子の如く俊敏、熊の如く強靭、鷲の如く飛翔し夜鷹より星に近い』とされている。

このように表記されるのは、竜の身体能力を魔力抜きで精密に検査した記録がないためである。加えて、人間と同等以上の知能を有する。

リンダがラニャの剣技をコピーしてすぐに消耗したのは、竜の身体能力でもって用いられる技を人間のそれで用いたからである。

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