第五十二話『竜王の言葉』
大陸暦一三五八年、八月二十五日――
何度目かの深呼吸の後に、リンダは自分の足で立てる程にまで回復していた。そして、足元に転がった黒い短剣を拾い上げた。魔力を吸い込んだ刀身は、黒曜石のように艷やかで、灯火を照り返して赤く輝いている。
「その黒い短剣は……僕がマニティの魔道具屋で買った物か?」
「うん、お守りって聞いてたけど、あいつの魔力に囚われそうになった私を守ってくれたみたい」
そう言うと、リンダは石柱にへたり込んでいるゲハロークの姿を見た。干からびた死体も同然の姿だったが、肩や胸元の上下する様から、生きている事だけは確認出来た。うなだれた四天王の顔に、黒い鎧の影が差す。
「魔力の漏出による、反動と枯渇だな。死にはしなかったが、魔力の回復が漏出を上回る事はない。こうなった魔法使いは……もはや、普通の人間よりも脆い」
サイクスの言葉に、ゲハロークの右手がピクリと動く。小銃弾で吹き飛ばされた右肩の傷口を自ら焼いて塞ぎ、その損傷は激しいはずだったが、ほとんど反射のように動いて見せた。魔法使いとしての力を喪失し、人間よりも脆いと言われた事に対して、プライドが許さなかったのだ。
「そうなっちまったら、もうおしまいだね」
降って湧いた声に、一同は左右を見回した。誰の声とも違ったからだ。カーンが驚き半分に睨んだ先に、少し遅れて一同の視線が集まった。そして、誰もが大なり小なり同じような顔になった。
「死んだかと思ったかい。残念だったね」
左の頬から額に向けて、斜め上に突き抜けるような傷が生々しいヨイカフツだった。目元にも傷が走っているが、瞼や眼球に損傷はないらしい。肉体の強度では、人間とオルウークにはかなりの差がある。まだ余力の残っているカーン、エリック、ローザが各々の得物を抜くが、土の四天王はそれを手で制した。
「流石のあたしも、これでは戦えないさ。しかし、一度ならず二度までも、このあたしに傷を負わせたんだ。気に入ったよ」
なんとか止血くらいは出来たという風に傷を撫で、ヨイカフツは引きつった歪な笑みを浮かべる。本人としては愛嬌のつもりだったが、見させられる側としてはいささか不気味なものだった。そして、大股でカーンに詰め寄ると、ずいと顔を覗き込んだ。決して小柄ではないカーンだが、彼女はそれよりも拳一つ分背が高い。
「特に、あんた。あたしの裏拳を滑り込んで躱しながらあの一発、痺れたよ」
「そりゃどうも……」
呆気に取られて敵意も警戒心もほぐされたカーンは、完全にヨイカフツの手玉に取られていた。人間の審美眼からすれば、オルウークは決して美形の種族ではない。かと言って形容しがたいほど醜悪な者も少ない。さらに難儀な事に、この四天王はオルウークの中ではかなりの『上玉』と判断される所であった。事実、よく見ると笑った顔にはそれなりのものがある。
「気に入った……という事は、もう私達の敵ではないということ?」
「いんや? むしろ、怪我を治したらまたすぐにでも駆け付けるさ。あたしは戦士だし、何よりルハーラ様に仕える身だからね」
リンダの問い掛けに、ヨイカフツは軽い調子で返した。敵である事に変わりはない。それが分かった時点で、彼女を生かして返す道理はなかった。しかし、ヨイカフツはカーンを間合いに置いている。銃口一つ向けただけでも彼の首を折るくらいの事は可能だった。張り詰めた緊張感の中、彼女は再び視線をカーンに集めた。先程とは異なり、幾らか落ち着いた表情を浮かべている。
「あんた、名前は?」
「……カーン、カーン・モヒトーだ」
「カーンね、あたしはヨイカフツ……ダルバ・ヨイカフツ。あんたの顔と名前、覚えたよ」
その声には敵意も憤怒もなく、穏やかささえ含んでいる。ふと、カーンはヨイカフツの顔の戦化粧が剝がれている事に気が付いた。もしかしたら、元は思った以上に丸い性格なのかもしれないと感じつつ、先ほどゲハロークに掛けた言葉を思い出しては、それは無いと確信した。
「またね」
ヨイカフツは再び、地面に凄まじい速さで潜るように消えていった。あまりの出来事に、誰も何も出来ないでいた。呆然としていたカーンだったが、出し抜けに尻に走った衝撃に我に返った。
「何すんだよリンダ」
「別に。カーンがぼーっとしてたから」
カーンの尻を叩いたのはリンダの平手だった。どこか声を尖らせ、面白くないような表情をしている。
「何だよ、俺があのオルウークの女に惚れたとでも思ってるのか?」
「まさか。でも、あいつはカーンに気があるみたいだった」
「それこそ、まさかだ。俺はあいつの顔に傷付けたんだぞ?」
「……オルウークの戦士にとって、戦いで傷を付けられる事は、場合によっては名誉でもある」
言い争いになりそうなリンダとカーンの間に、サイクスが割って入った。
「正々堂々と戦っている時に受けた傷は、まさしく戦いの証であり、文字通り刻み込まれた勲章なのだそうだ」
「詳しいのね」
「昔、優れたオルウークの戦士と戦った事がある。私の魂がこの鎧に縛られていなければ、イカヤザの門で会えたかもしれんがな」
どこか懐かしむような、惜しみ悔やむような口調だった。
「ところで、お前さんの記憶は戻ったんだな」
「おかげ様で」
ミュルコ・モースがくたびれた声で話し掛けてきた。竜王といえど、歳には勝てないようで、ツアンカも同様に肩で息をしていた。
「しかし、呪いが解けたわけではないようだ。私が何かの弾みで本来の名を名乗っても、無視してくれ。私は今しばらく、サイクス・キュリールでいよう」
サイクスの言葉に、メリッサとローザを除いた一同が困惑しながらもうなずいた。もし、本来の名を今のサイクスと紐付けてしまえば、呪いによって記憶に悪影響を及ぼす可能性がある。
「さて、俺様はそろそろニプモスに戻る。偵察の体で出て来たんだ」
「待って下さいお爺様、お訊きしたい事が」
「すまんが時間がないんでな」
ミュルコ・モースは慌ただしく火竜の棲家を出ると、風の竜王の姿になって飛び立った。その様子は、まるでティットルから逃れるようでもあった。
「お爺様……」
「どうしたんですか?」
追うように手を伸ばし掛けたティットルの背に、ソキュラの声がぶつかった。激戦の後で疲れが見えるとはいえ、人間と比べてまだしっかりしていた。竜は体力でも人間を軽く上回る。
「前に、私の心を乱したこの宝玉を、マニティの魔道具屋で調べてもらったんだが、かなりの力を持った風竜のものに近いと言われてな。お爺様に訊きたかったのだが……」
ティットルがソキュラに見せた宝玉は、解呪の術式の衝撃で枠がひしゃげていた。少し黙り込んでいると、間延びしたようなゆったりした声が二頭の頭を撫でた。
「あぁ、確かにそれは風竜の魔力だな。しかも、相当な使い手と見える。だが、ミュルコ・モースのものではない」
「お爺様ではないのですか? では、何故お爺様は逃げるように……」
若い竜の問い掛けに、ツアンカは答えていいものか迷いながらも、いずれ知る事と思い切った。
「身内の恥……奴の兄がしでかした事だ」
「お爺様の……兄?」
「ティットルさんの大伯父って事ですか?」
「そうだな。かつて魔王ルハーラがこの島を支配下に置いた頃、誰よりも早くその軍門に降り、先代のミュルコ・モースを討った、風竜の裏切り者……」
ツアンカの言葉に、二頭の若い竜は押し黙った。片や身内に恥ずべき者がいて、片や魔王の時代から人間に敵対し続ける水竜の一族である。
「ワイヨール、それが奴の名だ。何故、今になって魔王の配下が動き出したか、などという事は分からん。だが、このまま放っておくわけにもいかぬ。今も変わらなければ、奴が風の四天王だ」
「私の身内が……魔王の……」
「奴め、ずっと隠していたのだな。とにかく、次に会う時は逃さぬようにな」
「はい。この件はお爺様の口からはっきりと聞かせていただきます。ツアンカ様、ありがとうございます」
努めて穏やかな口調ではあったが、ティットルの目付きは鋭くなっていた。話しておかなければならない事を、隠していた祖父に対する憤りが、瞳の奥で燃えるように渦巻いている。
「そちらの話は終わりましたか?」
「おぉ、終わったぞ」
エリックからの呼び掛けに、ツアンカは再び間延びしたような声に戻って応じた。
「さて、お前さん達はどうするのかね」
「サイクスの記憶に関しては結果が出ましたし、街に戻ろうと思います。そこの四天王を突き出し、彼女達の被害と妹の無実を証明しなければ」
「そうか。では、帰りを楽にしてやろう。リトック、コヨチ」
ツアンカが横目で名を呼ぶと、二頭の火竜が一本前に出た。どちらも若さを残した個体で、ティットルより一回り年嵩を増している。
「わしの曾孫達だ。ついでに、あちらのお偉いさんにこれを渡してくれ」
小柄な雄のリトックと、がっしりした雌のコヨチ、二頭は静かに会釈すると、ツアンカから受け取った書証を手に、一同を手招きした。干からびたゲハロークは、カーンが肩に担ぎ上げる。わずかに抵抗の意があった。手足をばたつかせたような感触が伝わってくる。
「お前に拒否権はないんだよ。洗いざらい吐いてもらうからな」
あえて声を大にする事で、今にも銃を手に撃ち殺さんとするメリッサを牽制する。心の闇は払えても、根本的な恨みが晴れたわけではない。カーンはもう少し待て、と視線を送った。
隊長であるエリック主導のもと、ルビィ隊が火竜の棲家を後にする中、リンダはふと足を止めた。
「どうしたかな、人間のお嬢さん」
「サイクスの事、メリッサさんの事、ありがとう」
「そうか、それはどうも。その黒い短剣を託した者に感謝しておきなさい」
「分かったわ。お爺さんもお元気で」
それだけ伝えると、リンダは再び駆け去って行った。昼に近付いた外からの光に向かって走る後ろ姿は、希望ある未来へ向かう若者そのものであった。
「まるで、あの頃のサイクス・キュリールだ。あぁ、千年生きた甲斐があったというものよ」
竜王の独り言に気付く者は少なく、また気付いた者も触れずに黙っていた。
ミュルコ・モースが港湾都市ニプモスに戻ったのは、十六の刻限に差し掛かった頃だった。怪しまれないように、北東の海から傭兵隊の駐屯地に降り立ち、老獪な鳥亜人のリカルドに戻った。幸い、誰にも見られていなかった。
と、思っていたのは本人だけだった。規律に厳しいゲルハルトは、送り出した偵察隊の動向まで把握していた。ミュルコ・モースの大回りの飛行経路はあっという間に割り出され、長時間の不在に対する虚偽の報告で営倉送りとしたのだった。三日間の謹慎が言い渡された。
「何をしでかしたんだ?」
「いやぁ、ちょっと、ツアンカの方にな」
「あんた、前にも夜中に飛び出しただろう。その頃から奴はあんたをマークしてたんだ」
「そうかい、そいつは……腕が立つな……」
扉を挟んで言葉を交わしているのはゴードンだった。腕組みしながら背後に聞こえる声に覇気がない事に感付くと、ただ一言だけ添えてその場を後にした。
「ゆっくり休め、竜王」




