第五十話『黒い鎧の白い記憶』
大陸暦一三五八年、八月二十五日――
ツアンカの祭壇に上がってからというもの、サイクスの様子は一向におかしいままだった。
「大丈夫か? 奴らに対する手があると言うけど、君が倒れそうだぞ」
「なんとか……と言いたい所だが、体が重い……」
エリックの呼び掛けにも不明瞭に応じ、ついに立てなくなった。頭を抱えて膝を付き、怯えるように震えている。ソキュラもどうしていいか分からず、足下で繰り広げられる戦いの音さえ、耳に入っていなかった。
「ツアンカ様、何か分かりませんか?」
「……この者の封印された記憶の奥底に、呪いでも蓋を出来ないほどの忌まわしきものが巣食っているのだろう」
「呪いでも蓋を出来ない……忌まわしきもの……」
「エリックさん、今で言うトラウマです」
「今はそう言うのか」
火の竜王は長く生きてきたためか、幾つかの言葉が古い。よく人間と長命種の会話が噛み合わないとされるが、主な理由が使う言葉の年代であった。ミュルコ・モースが人間と近しい生活をしている事もあって、例外的に話し言葉を使い分けられるのだ。ソキュラの相槌に、エリックは合点がいった。
「先生から聞いた事があるな。心に負った傷の事を指し、それが元で突然に強烈な勢いで脳裏に蘇って苦しむ事があると」
「それです。サイクスさんは単純な記憶よりも深く刻み込まれたトラウマがあって、あの四天王達のやり方で記憶が断片的に蘇っているんだと思います」
「あのゲハロークという奴が使っている、反魂の術式か……?」
「恐らくは」
震える黒い鎧と、ゲハロークが従える屍兵の隊伍とを見て、エリックは小さくうなずいた。ツアンカが大きく息を吐く。溜め息と言うよりは、気合いを入れ直しているようだった。
「少々手荒いが時間がない。一気にやるぞ」
香木や霊木からなる炭を並べ、メリッサの時よりも強い火力で燃やし始めた。うずくまるサイクスが照らされ、影が先程の比ではなく伸びる。長く太くうねるそれは、もはや影というより闇だった。祭壇の下で交戦するリンダ達も、思わず手が止まった程だった。
「さっき、メリッサさんに使ったのと同じ……?」
「竜王め、何をする気だ? まさか、我が主の呪いを解こうとでも?」
熱壁の術式をぶつけ合い、膠着状態に陥ったリンダとゲハロークの視線が、長く伸びた影に向く。屍兵達も同様に視線がそれ、目の前の敵を撃つ事さえ忘れているように見えた。
「どうなってるの? あの動く死体が止まった」
「単純な話だ。反魂の術式で死体を動かすには、魔法使いでも高い技量がいる。術者の意識に左右されるんだ。呼び戻した魂に自由意思を持たせれば、話は別だがな」
「ふぅん?」
倒れた姉の小銃を手に、慣れない手付きで撃ち合っていたローザが、困惑のあまり手を止めた。傍らの竜王の説明も理解が追い付いていない。状況の逼迫もあるが、単純に彼女が魔法文明時代に明るくないという点が大きい。
「ヨイカフツ、止めろ!」
「言われなくても!」
反応が早かったのは四天王の方だった。心に干渉する竜の炎は、傍目に見ているだけでも影響が出る。先程とは比べ物にならない炎と異様に伸びた影は、常人の心を引き付け、手を止めさせるには十分過ぎた。練達の魔法使いであるゲハロークも、状況判断からの声掛けがやっとである。ヨイカフツが動けたのは、その身に施したオルウークの戦化粧の効果だった。常に心を奮い立たせる暗示のようなものが掛かるため、竜の炎の影響を受けないのだ。
「させるかよ……っ!」
屍兵達との銃撃戦や浮石への対処で炎を見ていなかったカーンが、信号銃でヨイカフツを狙う。銃口に取り付けた握り拳大の弾頭は、対装甲目標用として支給されていた徹甲榴弾だった。重量バランスは悪く、精密な狙いはつけられない。弾頭の重さと発射速度から、弾はわずかに下向きの軌道を描き、ヨイカフツの手前に着弾した。それは、飛ばすために積み上げた瓦礫の山だった。
「目眩ましか!?」
ヨイカフツが怒鳴る。瓦礫の山のてっぺんで炸裂した榴弾は、思った以上に石や砂礫を跳ね上げ、浮石の狙いをつけていた視界が覆われたのだ。駆け寄る足音が聞こえてくる。カーンが拳銃を構え、走りながら発砲してくるのだ。
「ふん、拳銃弾ごときで何とかなるあたしじゃないよ!」
「ティットル、今だ!」
「何ッ!?」
術式で浮かび上がらせた石で銃弾を難なく弾くも、カーンの声には思わず反応した。落石で打ち倒したティットルが起き上がって、挟み打ちにしてくる可能性がある。振り向くも、風の竜は起き上がる事さえままならない。
「謀ったか!」
再び振り返ると、カーンとヨイカフツの距離は数歩となかった。激昂したヨイカフツが石を左腕に纏わせ、カーンに向かって裏拳を放つ。石の硬さとオルウークの腕力であれば、人間の頭など瓜を砕くより容易い。半拍にも満たない時間の中で、二人の勝敗は決した。足から仰向けに滑り込んだカーンがヨイカフツの裏拳を躱し、下顎に向けて発砲したのだ。
「馬鹿な、ヨイカフツが人間に……!?」
打ち上げられたように仰け反り、オルウークの巨躯が力無く倒れる。ゲハロークからすれば、四天王が敗れるとは考えていなかった。竜の炎はサイクスの影から伸びた闇を炙り出している。
「お嬢ちゃん達、もう少しそいつの相手を頼むぜ」
「お爺さんは?」
「あの闇に一発お見舞いしてやるのさ」
ここ一番とばかりに稲妻を纏ったミュルコ・モースがふわりと浮かぶ。リンダやローザに好々爺の目線を送ると、すぐに竜王の顔になった。ニプモスからここまで、短くない距離を飛ばして来た上に、メリッサを助けるために停止の術式まで行使している。帰りを考えると、強力な術式はあと一回が限度だった。
「黒い鎧の、お前の記憶まで戻せるかは分からんが、せめてその闇くらいは払っておかないとな」
祭壇に降り立った竜王の体を取り巻くように、青白い稲光が渦を巻く。尻尾を上げ、大きく翼を広げたその姿は、巨大な弩のように見えた。
「よく見ておけ小僧ども、こいつが魔法文明時代における最強最後の術式陣、大弓の陣だ。そして、こいつもな……鳴神の術式!」
広げられた翼端から、魔力が膜や筋を伝って胴に達し、練り込まれながら尻尾の先端に集約する。さながら、巨大弩に装填された矢が輝いているようだった。迸る稲妻は弾けるという域を超えて、空気さえ切り裂き断ち割らん勢いである。竜王の烈光が放たれ、サイクスから伸びた闇に突き刺さる。
「このまま、お前の闇を呪いも、まとめてぶち抜く! 頭の中が焼き切れるかもしれんが、この手に限る!」
「ぐっ……!」
サイクスから出たのは呻き声一つだった。激しい光と電撃の渦中に叩き落とされながらも、叫ぶ事さえ出来なかった。むしろ、叫びを忘れさせる程の光景を垣間見ていたのだ。そして、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「私は……反魂で操られた兵の群れに、腹心の部下を奪われ……あぁ、友も左眼を失った……!」
「サイクス、それは君の記憶なのか!?」
「母も生き返らされ、一度は敵にもなった……!」
錯乱したように叫ぶサイクスに、エリックの声は届かなかった。呪いと闇で塞がれていた過ぎ去りし日の傷が、光に照らされて暴かれているのだ。
「反魂の術式ってのは、単に死んだ奴を生き返らせるだけじゃねぇ。言うなれば、二度殺してるんだよ。そして、そいつと親しかった者達の過去も想いも踏みにじる、見下げたクズの所業なんだよ!」
「竜王様、それ以上はお体が持ちません!」
脂汗を稲光で弾きながら、雄叫びに近い声を上げる。ソキュラの諫言も通らなかった。心の炎を絶やさぬツアンカも、闇を祓う稲光を放つミュルコ・モースも必死だった。
「四大竜王のうち二頭が命張ってんだ、応えてみせろ!」
「私は……私は……!」
「大丈夫か、サイクス!」
「違う、私はサイクスではない……」
エリックの呼び掛けに、サイクスは頭を振った。この黒い鎧の戦士がサイクス・キュリールでないなら、誰なのか。竜王達の雄叫びが最高潮に達し、応じてサイクスが立ち上がり、腹の底から怒声を響かせた。影から伸びた闇が塵芥の如く飛散し、黒い鎧が白い輝きに縁取られる。その瞬間、エリックとリンダは幻を見た。
サイクスと同じ鎧を纏った、緑の髪の精悍な戦士と、夢で見ていた娘達――小麦色の髪に明朗な顔立ちの娘と、茜色の波打つ髪に穏やかな顔立ちの背の高い娘――の並んだ姿だった。夢の中では黒い影が落ちていた顔が、今ならはっきりと見える。
「私はサイクスではない……ニックだ」
光と音が止み、出し抜けに戻った静寂が、火竜の棲家を覆い尽くした。リンダ一行も、火竜達も、魔王の手の者も、誰もが手を止めていた。
「エリック、ソキュラ、私の両斜め前に立ってくれ」
「わ、分かった」
「分かりました」
ニックを名乗った黒い鎧は、エリックとソキュラを所定の位置に立たせると、金細工の短剣に魔力を込めて、切っ先で地面に紋様を刻み始めた。
「くそっ、何が起きたと言うんだ……屍兵ども、撃て!」
我に返ったゲハロークが屍兵に斉射を命じる。三列の横隊が祭壇を狙って放った弾丸の群れは、リンダが広げた熱壁によって焼き溶かされた。火竜達から投げ放つ火球が屍兵を焼き、その数を減らしてゆく。ローザも拙い腕ながら、弾を装填し直した小銃で援護していた。
「無駄だ、反魂の術式がある限り、屍兵はいくらでも呼び出せる!」
数を減らした所で、ゲハロークの高い魔力は反魂の術式を維持し、今までの戦いで死んだ者達の亡骸をこの場に呼び寄せた上で蘇らせる事まで出来た。しかし魔法使いと言えど、その身に内包される魔力は無限ではない。そして、リンダのコピーには対象のリソースを横取りする性質がある。ニプモスでの戦いの折、リンダがカリエの精霊を使役した際には精霊石が倍近い速さで消費されていた。
「これでよし。増幅、径路、放出、指向、全てよし。エリック、ソキュラ、私に魔力を送ってくれ。その場で高めればいいだけだ」
「これほどの術式陣を短時間で……君は一体……」
「もっと大掛かりなものを使った事がある。ミュルコ・モースが示したこの陣は、私も知らないものだ。だが、非常に効率化されているのはよく分かる」
黒い鎧の声色は、心なしかサイクスとは微妙に違っているように聞こえた。饒舌で、どこか明るさを含んでいる。ニックと名乗る人物の本来の性格なのだろう。エリックはそう思う事にして、ソキュラと共に魔力を高め、術式陣に注ぎ込んだ。弓なりの両端に立つ二人からの魔力は増幅されながら収束し、まっすぐな径路を通じて黒い鎧の元に集められた。その前には放出と指向の陣が描かれている。その先にいるのは――
「反魂の術式は、こうやって対処するのが一番いい。解呪の術式!」
突き立てられた金細工の短剣を通じて、術式陣に解呪の魔力が放たれた。本来ならば対象に接触しなければ効果を発揮しない術式だが、この陣を用いる事で射出する事が出来る。それも、増幅された魔力によって。巨大な弩から矢のように、純白の輝きがゲハロークに向けて放たれた。熱壁の術式さえ鎧柚一触に剥ぎ取り、驚きのあまり見開かれた目に映る景色全てを白で染め上げた。
「な、なんだこの光は!? 俺の魔術が打ち消されている!?」
光の奔流に包まれたゲハロークが戸惑いの果て、視界が元の色を取り戻すと、さらなる驚きに顔を歪ませた。屍兵が一人残らず崩れ落ち、立っているのが自分一人だったからだ。反魂の術式は維持も大変だが、行使する瞬間に膨大な魔力を消費する。熱壁も剥がされて無防備になったと自覚した瞬間、右肩が弾けるように抉れて飛んだ。
ローザの放った小銃弾が、ゲハロークの右肩を弾き飛ばしていた。
術式陣
魔術の効果を高めるために描かれる紋様で、魔術の行使及び同等の作用に必要な魔法陣や、言霊魔術で書かれる呪文とは異なる。
魔力の発生源から術者までの間に、魔力を媒介する物質を用いて紋様を形成する事で効果を発揮する。
魔法文明時代では一般的に、魔力の抽出に使えないサイズの魔晶石の粉を導線に使用していたという記録が残っている。
魔力そのものを増幅させる、導線を通ってきた魔力を集束させる、行使した術式を射出する、射出の方向を指定する、の四種が特に多く使われていたという。
また、複数の術式陣を特定の配置にする事で効果を高めたり、特定の術式を超長期に渡って行使させ続ける事も出来る。




