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第三十八話『傷と心』

 大陸暦一三五八年、八月十九日――

 リンダ達の間に流れる空気は、重苦しさを増していた。窓の外に広がる夜の闇は、まるでこのホテルの一室だけを世界に取り残したかのようであり、言いようのない孤独を感じさせる。


「……結局、先代ソキュラの遺体は奴らの手に渡り、保管していた警察署は半壊するほどの被害を受けた。軍民合わせて三〇〇〇は下らない死傷者に加え、海軍のフリゲート艦も一隻が沈没、二隻がすぐには戦列復帰出来ないほどの損傷だ。せめてもの救いは、先代ソキュラの子の一頭を討ち取れたくらいだ」


 ミュルコ・モースがグラスをあおり、水を飲み下す。雨の夜を選んだ、用意周到な奇襲作戦。しかも、義勇兵の兵舎代わりに使っていたホテルや宿の位置も、幾つかが割れていた。思い返すたびに、年甲斐もなく身震いした。


「水竜の方にも、情報収集に長けた奴がいるって事か」

「恐らくな。オレ様が対峙した、次男のルミチャスが知恵者だろう。だが、奴は大牙がこちらにあると分かると、早々に退いた」

「先代ソキュラの遺体の回収を別の兄弟に任せ、自分は力を温存するって寸法か」

「恐らくな。ああいう奴が厄介だ」


 カーンが握った拳を震わせる。彼にとって、最も嫌なタイプらしい。ティットルも顔をしかめた。エリックだけが、視線を泳がせている。事態を飲み込めていないというより、別の心配をしているようだった。


「どうしたの、お兄ちゃん」

「いや……竜王様が一刻半ほど話しているような気がして、消灯時間を過ぎてないかな……と」


 軍組織で動いている以上、消灯時間などは厳守である。ミュルコ・モースが部屋に飛び込んで来る直前の時点で、二十二の刻限まで四半刻を切っていた。


「心配いらん。時計を見てみろ」


 言われて時計を見たエリックは、目を丸くした。時計の針はほとんど動いていなかったのだ。わずかな時間の中で、時空間に干渉する魔術でも行使したのか、思わず得意満面な竜王に向き直った。


「時空干渉ですか?」

「いや、そんな大層なもんじゃない。オレ様達、この部屋の中にいる奴らが超高速になっているだけだ」

「瞬発の術式ですよね、それ。普通に高難度の術式なんですが」

「まあ、確かに晶石魔術で使うなら、トラックの荷台に山盛りの魔晶石が要るな」


 さも、大した事なさそうに話すミュルコ・モースに、エリックは初めて見る術式への好奇心より、竜王という超越的な存在への畏怖の方が強まった。


「あと、術者にも対象にも、かなりの負荷が掛かる。後でこいつを飲んどきな」


 リンダ達に配られたのは、小指の爪ほどの大きさの丸薬だった。エール村の薬局にて、海外の医薬品が売られている棚で見た記憶がある。


「お腹の薬?」

「確かにカッサーナ皇国製で見た目は似てるが、大きさが違う。そいつは滋養強壮剤だな。しかも、寝てる間に効くやつだ」

「なんか黒光りしてるし、ちょっと怖いわね……」

「古い時代には、馬糞を丸めた薬なんてのもあったらしいが、そいつはちゃんとした薬だ。安心して飲んどけ」


 馬糞という字面で面食らっている一同を見て、ミュルコ・モースは口許を軽く歪めると、入ってきた時と同様に光の粒になって窓から出ていった。同時に、時計の針が本来の早さで時を刻み始める。そして、扉をノックする音が聞こえてきた。ティットルが出ると、サイクスが妙な威圧感を放って突っ立っていた。


「少し前からノックしていたんだが、やっと反応があったか」

「済まない、お爺様が来ていた」

「竜王が?」

「あぁ、瞬発の術式で加速していたようでな。恐らく、ノックの音は遅すぎて聞こえなかったのだろう」

「そうか。何があったかは後で聞いておく。それよりも、もう消灯時間だ。部屋に戻ってくれ」


 サイクスと入れ替わるように、リンダとティットルが部屋を出る。間もなく消灯時間となるため、警備兵の巡回が始まろうとしていた。見つかったら何を言われるか分からないため、足早に自分達の部屋に戻る。元は同じ隊として見なされているため、二つの部屋はそこまで離れていない。


「ソキュラは……寝てるわね。疲れてたのかな」

「竜の六十五歳は、人間では七歳に満たない。まだ子供なのよ」

「でも、後継者争いに巻き込まれてるのよね……」

「そうね。だから、私達が守ってあげなきゃ。水竜との関係を良くするためにも、この子が必要なの」


 ベッドで寝息を立てる幼い竜王をしばし眺め、二人は貰った丸薬を飲んでから毛布に潜り込んだ。リンダとティットル、二人でソキュラを守るように、彼の両側に横たわり、眠りに就いたのだった。



「出し抜かれた、か」

「我らは当て馬にされていたようだ。ルミチャスは情報を、ラニャとピコーダは父の亡骸を得て帰還した。我は敵を引き付けるための囮だったようだ。その結果、弟が死んだ」

「ふむ、こちらとしても、ミュルコ・モースの手の者が大牙を持ち去っていたのは予想外だった。しかし、奴もいつまでも手元に大牙を置いておく事はあるまい」

「誰かに託したという事か」


 水鏡を挟んで、イミノッキとシェパーナが密談している。知恵が足らず口数こそ少ないが、従順で勇猛な弟ウォカートを喪った事は、この粗暴な長男に大きな痛手となっていた。しかし、それも他の兄弟達との競争により発生した損害である。仕組まれていたのか、あるいは偶然の賜物か、めぐり合わせの全てが彼にとっての裏目になっていた。


「恐らくは。先代ソキュラを討った黒い鎧……奴が絡んでいると見ていいだろう。奴がミュルコ・モースと接触した事はこちらでも把握している」

「魔王ルハーラを討ち、キュリール島と名を改めて国を興した英雄、か。奴らの居場所は分かるか?」

「……分からん。が、恐らくはツアンカに向かっているだろう」


 シェパーナの言い方に、イミノッキは幾らか不機嫌な声色で返した。黒い鎧の戦士を英雄と称された事が気に入らないのだ。そして、シェパーナもそれを知っての事である。誰でもいいので腹いせでもしたいという、いささか幼稚な考えだった。


「我が主の呪いにより、黒い鎧の奴に関する記録や記憶はほとんど存在しない。しかし、高い魔力を有して呪いに抵抗のあった者が、奴を記憶している」

「黒い鎧の記憶が戻ると、どうなる?」

「我が主を魂ごと討ちに来るだろう。我が主の魂は、あの忌まわしき敗戦の日、滅びゆく肉体から切り離して封印に成功した。ゆえに、黒い鎧の奴を呪う力も絶える事がない」

「なるほどな……待て、誰か来た。また連絡する」


 シェパーナは慌てて水鏡を解除し、薄暗い部屋の中でじっとしていた。部屋に入ってきたのはルミチャスとウォカートの間の妹、長女ロゼだった。行方をくらました五男のヴァイスと同じ腹の姉弟だ。


「……ロゼか、どうした。父の葬儀の手筈はどうなっている」

「滞りなく進んでいます。お父様も、ウォカートも、一両日ほどには」

「そうか」


 長兄の返事に、ロゼは違和感を確信に変えた。常日頃から粗暴であり、父をそのまま若くしたような存在だった兄が、母と実弟の失踪を気にも掛けなかった兄が、ひどく落ち込んでいる。


「お兄様、そのようなお気持ちでは、亡き者達の血肉も持て余してしまいます」


 ロゼの言葉に、シェパーナは何も言わなかった。水竜には蟹葬(かいそう)という習慣がある。死者の肉を腐肉食性の蟹に食わせて消化させ、頃合を見てその蟹を殺して食う。そうする事で死者の血肉を遺族が受け継ぐというものだ。古い時代には死者の肉を直接食らっていたが、腐肉で体を壊す者が多かったため、蟹を中継させるようになったのだという。


「……お前のような臆病者に、何が分かるというのだ」

「えぇ、確かに私も母も、弟ヴァイスも争いは好みません。私達の方がおかしい事など百も承知です。しかし、家族を喪う痛みは……同じと思っています」

「……すまない」

「……謝るなど、お兄様らしくありません」

「我らしい、か」


 シェパーナは再び沈黙した。ロゼのいう『らしさ』とは、粗暴で父の生き写しである自分なのか、それとも、本来は全く異なる性分を持って育つはずだったが、長子という事実が自分をそうさせたのか、分からなくなってしまったからだ。


「ロゼ、頼みがある」

「何でしょう」

「今ひと時で良い。我の傷に寄り添ってくれないか」

「……ラニャのように上手くはないかもしれませんが」

「構わない」


 ロゼは水竜としては着込んでいる装束をするすると脱ぎ、シェパーナに寄り添った。水竜は百歳を迎えるまでに他者と体を交える事が通例とされている。それが近親者であっても構わない。また、その後も特に近親者で交わる事を制限する文言もない。事実、この瞬間もラニャとピコーダの姉弟は別の部屋で心身共に昂ぶらせていた。


「いいのです、お兄様。他の誰の前でも強くならなければならずとも、私の前だけでは……」


 ロゼの胸元に顔を寄せ、すがるような手を背中に回したシェパーナの体が、小刻みに震えている。水竜も風竜と同様に卵生ではあるが、水中という環境に適応するため、ほどよく脂を乗せている。柔らかく温かみのある肢体に沈み込むように、兄妹の身体は溶け合っていった。



 大陸暦一三五八年、八月二十日――

 ミュルコ・モースから貰った丸薬のためか、一行の目覚めは快適なものだった。見回り兵による起床の号令が掛かるよりも早く、身支度を整えて部屋の前の廊下に並んで立つ事が出来た。


「ルビィ隊……全員揃っているな。よし、行け」


 名簿を確認して点呼を取り、各々の持ち場へと向かう。カーンとティットルは朝食前のランニング、エリックとソキュラは夜間担当者からの引き継ぎとミーティング、リンダは朝食の仕込みだ。相変わらず、サイクスはどこで何をしているのか分からなかった。少なくとも、害になる事ではなさそうなので深く訊く事は無かったが、毎晩の報告でも何も言わないので、そろそろ不審に思われる頃だった。


「そういえば、サイクスはここに着てから、どこで何してるの?」

「私か、そういえば話してなかったな」


 ホテルを出るまでの道程は全員共通である。階段を下りながら、リンダはサイクスに尋ねた。十日近くもの間、ミーティングでも何も話さず、幼いソキュラが先に寝る時は率先して守りにつく事で場を離れていた。声色も大して変わらないため、疲れているのかさえ分からない。


「すまないが、言うなと命じられている」

「誰に?」

「それも言えない」


 リンダは憮然としつつも、それなら仕方ないと前に向き直った。カーンとティットルはそのやり取りを聞きながら、カリエの子アルヴィンが水面下で動いている気配を感じずにはいられなかった。



「おはようございます、班長……あれ、ローザちゃんは?」


 司令部の食堂、厨房にて夜番の担当者から引き継ぎを受けていた炊事班の動きが止まった。いつもなら朝一番に厨房入りしているはずの影がない。誰の顔も気まずそうな色をしている。ふと、リンダの脳裏に昨晩の光景が過ぎった。若い女性と共に、兵士に連れられて車に乗り込むローザの後姿。


「ローザちゃん……」


 リンダは班長に背中を小突かれて我に返るまでの短い時間、何も出来ずに立ち尽くしていた。

竜草の丸薬

竜草と呼ばれる薬草を主な材料として作った丸薬。

竜草は一般的に広く用いられる薬草と比べて薬効成分が多いが、同時に毒性も強く、適切に処理しなければ単なる毒草である。

その処理も手間が掛かるとして、蒸気文明時代の終盤からは大量生産に適した医薬品に取って替わられた。

無毒処理を施した竜草を細かく刻み、妖精の雫と月の涙という魔法性の液体を混ぜ込んで練り、七日の天日に干す事で出来上がる。

滋養強壮に効果があり、寝る前に飲むと疲れがよく取れる。効果は高いが、常用すると耐性が付いてしまう。

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