第二話『襲撃者の刃』
大陸暦一三五八年、七月十六日――
二十の刻限、エール村の酒場ではレイアッド夫妻の帰還祝いで盛り上がっていた。
夫のゴードンはこの村の生まれで、父祖の代から続く傭兵業を営んでいる。近年は大規模な戦争が起きていないため、治安の不安定な地域に赴く隊商や調査官の護衛に就く事が多い。代々続くライフル射撃の名手で、一〇〇ルマーチョ(約六五〇メートル)離れた場所のコインさえ撃ち抜くとまで言われていた。
妻のマリーはジョーギンの生まれで、商社勤めの父の下で何不自由ない生活をしていたが、歳を重ねた両親の療養の為にエール村を訪れた際、ゴードンと運命の出会いを果たしたという。以来、家族共々エール村に移り住み、彼女の父は昔の経験を活かして経営のアドバイスを行っている。彼女は夫と異なり、ナイフや徒手格闘に拳銃の早撃ちを得意としていた。
「ゴードンよぉ、今回のヤマはどんなだったよ?」
「メーシア大陸中央部のブバーケで、ジュシー朝時代の遺跡の発掘に当たる調査員の護衛だ」
「そいつはまた、すげぇ仕事だったなぁ」
「岩トカゲに砂塵獣と出くわしたが、死者が出なかった事と骸竜に遭わなかった事が幸いだった」
幼少からの顔馴染みが、酔った口調でゴードンに話かける。ゴードンは酒に強く酔いにくいためか、まるで素面のように応じる。
「もう大変だったわよ! 暑さでやられた調査員が腰掛けた岩が岩トカゲで、毒針で昏倒しちゃった時は死んだなって思ったくらいよ! 旦那が血清持ってなかったら、今頃イカヤザの門の前ね!」
「結局そのトカゲはどうしたんだ?」
「そりゃもう、私の早撃ちで片目撃ち抜いて追い払ったわ! プロの調査員がただの岩と見間違えるほど、長いこと獲物を待ってた感じだったし、もう腹空かして死んでるんじゃないかしら?」
ゴードンとは対照的に、マリーは酒が入ると普段以上に饒舌になる。彼女の言うイカヤザの門とは、冥府を司るとされる魔術神イカヤザの門、要するにあの世の事である。
「そいつはすげぇな。その早撃ち、見てみたいもんだぜ」
「今からでもお見せしましょうか? コインある?」
「バカ野郎! また店に穴が空くだろうが! 新年の馬鹿騒ぎで空けた分の補修がまだ終わってねぇんだぞ!」
別の酔っ払いに言われ、ホルスターから愛用の拳銃、ゼゴン三式軍用拳銃を取り出したマリーに、マークスの喝が入った。新年会でマリーが空けた壁の穴は、予算と工期の都合で補修が先延ばしにされ、半年経った今でもポスターで隠されている。そのポスターがスタイルの良い水着の美女の写真なのは、恰幅の良い体型のマリーに対する当て付けである。
「ねぇマリーさん、気になる事があるんだけど」
「どうしたのリンダちゃん」
「マリーさん達が乗ってきた船はトラブルや遅れは無かったんだよね」
「えぇ、何の問題も無かったわ」
リンダとマリーのやり取りに、マークスの目付きが険しくなった。リンダも怪訝な表情を隠せない。
「どうしたの? リンダちゃんもマークスさんも、顔が怖いわよ」
「半日前の貨物船で、荷の一部がダメになるほどのトラブルがあったらしいの。この時期は波も穏やかだし、この近辺で海賊が出たって話も聞かないから、何かあったのかなって」
「貨物船がボロかった……とも考えられるけど、メーシア大陸との航路を結んでる貨物船で、そんなボロ船は動いてないわね。海獣でも出たのかしら」
キュリール島とメーシア大陸の間には細くも南北に伸びた海溝があり、気候や海水温によっては深海に棲む海獣の類が水面近くまで浮上してくる事もある。これはこの海域に限った話ではないのだが、同様の海溝や深海生態系を有する地域では、戦艦クジラや皇帝イカといった超大型の海洋生物が捕食するため、騒ぎにならない。
「貨物船を襲うほどの海獣が出たなら、沿岸警備隊の巡視船か、海軍のコルベットが駆けずり回っているはずだ。俺達が乗ってる船の周りには、そんな動きは見られなかった」
話を聞きつけたゴードンが割って入って来た。入れ替わるようにして、マリーが酔っ払いの熱気に飛び込み、万一に備えてマークスが目を光らせる。
「……そうなると、貨物船の中で何かあった、くらいね。動物でも運んでて、何かの拍子に暴れて積み荷が崩れたとか、そんな感じのトラブルでもあったのかもね」
「あるいは、非合法な物でも運んでいたが、慌てて隠そうとして荷を崩した……という線もあるかもな」
「ゴードンさん、やった事あるの?」
「俺達はないが、違法薬物の密輸に荷担した事がある奴と一緒の仕事をした時に、色々と聞かせて貰った」
あんまり首を突っ込むな、と軽く釘を刺してから、ゴードンは酔っ払い達の喧騒へと戻っていった。ふと目を向けると、ますます興が乗ったマリーが、いよいよ裸踊りでも始めかねない気配になって来たので、ブレーキを掛けに行ったのだ。リンダにも、ウィノアから料理をテーブルに持って行くように指示が飛ぶ。真っ赤なトマトソースを下地に、まん丸ハーブの緑とタスパ製チーズの白で彩られたピッツァだ。
「いい匂いね」
「私の自慢よ。まぁ、あの酔っ払いどもに分かるかどうかって所だけどね」
特にマリーを睨み付けるようにして言ったウィノアに、リンダは軽く微笑んでみせた。マリーは宴会のたびに吐くまで酔うため、ウィノアは年の近い娘、または年の離れた妹のように接していた。いずれにせよ、手が掛かる事に変わりはない。この夜もまた同様に、顔を青くしたマリーがゴードンに肩を担がれて店を出る事でお開きとなった。
明く、七月十七日――
宴会の翌日は決まって臨時休業である。朝から後片付けに追われ、食材や酒も大量に消費されるため、店の準備が追い付かないのだ。濡らしたモップで床を磨いていたリンダがふと顔を上げると、店の入り口に人が立っているのが見えた。明かりを点けていない店内は薄暗く、夏の日射しによって逆光になった人物の顔は見えない。
「すいません、今日は休みなんですよ」
リンダが応じたが、その人物はお構い無しとばかりに歩を進め、適当な席に着いた。窓から一番遠く離れた、一人で来る客がよく使う席だった。夏真っ盛りだというのに、その人物は厚手のコートを纏い、帽子を深く被っている。薄気味悪さを覚えたリンダは、追い出そうにも足が動かなかった。こういう時は空気が凍りつく。不思議とラジオの音も聞こえなくなっていた。
「……何を、してるんですか?」
「占っているのですよ、お嬢さん。貴女をね」
声色からして男と判断された人物は、一人用の丸テーブルに色とりどりの石を置き始めた。魔石の類いと思われたが、放つ冷気は占いとは到底思えなかった。撫でるような、それでいて刺すような気配がリンダの頬を掠める。その瞬間、ラジオの音が変わった。音楽番組からニュースに切り替わったのだ。
『十刻のニュースです。先日、ジョーギンで発生した殺人事件の続報ですが、目撃者の情報によると、被害者は占いをしていた人物から突然ナイフで刺されたとの事です。その人物は厚手のコートに深めの帽子という姿で、警察はこの人物の行方を追っています』
ほとんど聞こえなくなっていたはずのラジオの音が、その時だけは嫌に響いた。厚手のコートに深めの帽子、占いをしている男、それが目の前にいる。底冷えするような気配が、腹から背中を突き抜ける。男はリンダの様子を意にも介さず、手元の石で占いを続けていた。丸テーブルには魔法陣のような紋様が浮かび、周囲を漂う不快な冷気はますます強くなった。
「……貴女も、運命に導かれるか」
「……えっ」
「古の真実を暴き、未来を塗り替える運命に、導かれるというのか」
「ちょっと待って、何を……」
男の言葉に、リンダの思考は完全に止まっていた。ほとんど、男に対する恐怖で塗り固められている。頭の中は警報が鳴り響いていた。それでも、足が怯んで動かない。男が大振りのナイフを抜いた。乾いた金属音と共に白光りする刀身が、彼女の目に焼き付く。ラジオで流されていた殺人犯は、この男だ。被害者は刺されたのか斬られたのか定かではないが、今のリンダには関係なかった。
「邪魔はさせない……我が主の為に!」
男がナイフを振り上げ、大股で踏み込んでくる。右肩を掴まれ、押し倒された。腹の上に馬乗りになり、ナイフを振りかぶる。リンダの目に、男の顔は映らない。ただ、自分に向けられた刃に全ての意識が集中していた。首か胸か、どちらに振り下ろされても、彼女の命はない。次の瞬間、乾いた炸裂音と共に、男のナイフが宙を舞った。
「リンダちゃんから離れな!」
聞き覚えのある声。振り向くと、拳銃を構えたマリーの姿が目に入る。男はその姿を一瞥すると、何も言わずにリンダに向き直った。首に手を伸ばし、包み込むようにして絞め始めた。マリーはすかさずリボルバーの残弾を男に叩き込んだ。男が怯んでのけぞった所に、体重の乗った蹴りが見舞われる。男は弾けたように飛ばされ、二回三回と転がって壁に叩き付けられた。
「大丈夫かい!?」
「ありがとう……マリーさん」
力無く答えたリンダの体は震えていた。未知の恐怖に曝された事で、すくんでしまったのだ。ほどなくして、一台のパトカーがサイレンを鳴らして駆けて来た。銃声を聞いた近所の住民が通報したのだろう。降りてきた警官が拳銃を抜き、マリーに目をやった。
「奥の壁に吹っ飛ばしたよ。あのコートの奴、ラジオで言ってた殺人犯じゃないかい?」
「殺してはいないな?」
「あぁ。というか、奴は人間じゃない」
マリーの言葉に、警官は二人一組で拳銃を構えた。男はうずくまっているが、死んだわけではない。震えながら伸ばされた手、その指先から思いもよらぬ物が零れ落ちた。マリーが撃ち込んだ銃弾である。ゼゴン三式軍用拳銃の装弾数は五発。マリーは一発も外さなかったため、男の手から出てきた五個の銃弾は、撃ち込んだ弾が体の中を通って手から出てきた事を意味していた。
「ジェリムか!」
「恐らく。厚手のコートも深めの帽子も、そいつを隠すためのもんだろう」
湿り気の多い暗所を好む粘液生物、ジェリムが人の形を有している。昨夜の陽気な口調とは打って変わって、マリーはドスを効かせた声で応じた。リンダを襲われた怒りによる興奮もあるが、元から仕事中の彼女はこのような口調になるらしい。
「変な真似したら、今度はこいつを脳天にお見舞いするよ。あんたに脳ミソがあるか知らんけどね」
マリーは装填済みの銃弾と同じものをジェリム男に見せつけた。薬莢と弾頭の先端が赤く塗られている。炸裂火弾だった。拳銃弾でも乗用車くらいなら爆散させるほどの威力がある。火に弱いジェリムにとっては、天敵と言うほかなかった。
「……今は去る。だが、その娘は必ず殺す。我が主の為に……!」
ジェリム男は腕を伸ばし、弾き飛ばされたナイフを回収すると、窓を割って逃げ去った。警官は現場の確保と、付近の住民への呼び掛けなどの無線連絡に分かれた。マリーに抱き起こされたリンダは、自ら向けられた明瞭な殺意と、形容しがたいおぞましさに打ち震えていた。
キュリール島~メーシア大陸の航路
東の玄関口である港湾都市ニプモスから東に進み、大陸西部のモノゲア共和国の貿易都市ミツカッソを経由し、その東隣のタスパ王国最大の港湾都市ラーナボルカ。南東に進んでギムココ諸島連邦の北西にあるキーケトッホ島のプルメイ港、南東のパヤン島のルーロンパ港を経由し、ハーム王国西岸の貿易都市リーバに辿り着く航路が存在する。
メーシア大陸近海は海流の都合、波も穏やかで大海獣も少ないが、その分水産資源も多いとは言えない。そのため、キュリール王国からメーシア大陸各国への輸出品の多くを魚介類が占めている。
ニプモス、ミツカッソ間の航路で何らかのトラブルが発生し、貨物船で荷が崩れる騒ぎとなり、リュークスのバーが被害を受けていたようだ。