第二十二話『魔王の呪い』
大陸暦一三五八年、八月二日――
サイクスの姿を見たミュルコ・モースは、いささか悩ましい顔で険しい眼差しを向けていた。建国のための戦いの頃から変わらない、金縁の黒い鎧の英雄を、兜飾りから爪先まで眺める。風竜の眉間に皺が寄る。老齢ゆえに刻まれているそれらよりも深く、悩ましいものだった。
「サイクス・キュリールね……いや、違う。お前はサイクスじゃない」
「違うのか?」
「あぁ、オレ様の知ってるサイクスは、もう少しばかり背が低い、金髪の小僧だった事を覚えてる。確かに、魔王との決戦後にそれとよく似た鎧を着込んだが、その鎧はサイクスじゃない」
「では、私は誰なんだ?」
黒い鎧の英雄はサイクス・キュリールではない。ミュルコ・モースははっきりと言った。サイクスに困惑の色はなかった。元より記憶が曖昧になっている以上、否定も肯定も大した意味を持たなかった。同時に、竜王の眉間の皺はさらに深まった。サイクスと呼ばれている黒い鎧の正体を知っている。しかし、言い出せないでいる何かがあるらしかった。
「……言えない。知らないわけではない。言えないんだ」
ティットルは初めて見る祖父の険しい表情に戸惑っていた。彼女も生まれて二百年を数えるが、気さくで明るい祖父がここまで悩む姿は初めてだった。リンダ達は怪訝な表情を浮かべつつも、現状で考えうるただ一人の手がかりとして、見守るしかなかった。
「サイクス、あんたはどうなんだい。ソキュラの時のように、何か思い出す事はないかい?」
「そうだな。随分と老けてしまって、面影がなくなってしまってな」
「……なるほどな。と、なれば、こうするしかないか……」
カリエに応じたサイクスの言葉に、ミュルコ・モースは眉間の皺を緩めると、腰の鞘から細身の剣を抜き放ちざまに黒い鎧を払った。切っ先が左の肩当てを掠め、か細い金属音が響く。
「サイクス!?」
「落ち着け、リンダ」
手を出すなとばかりにリンダに制止の手を向けたサイクスは、改めてミュルコ・モースの顔を見た。猛禽を思わせる鋭い目付きに、竜王の覇気を宿らせている。
「ティットル、お前の剣を貸してやれ」
「分かりました」
いつになくドスの利いた声を放つ祖父に、ティットルは否応なしに妖精の細剣をサイクスに差し出した。黒い鎧は手に取った剣を幾度か振りかざし、自らの手に馴染ませる。鞭のようにしなる細剣が風を切る。足元を軽く払ってみせると、刈られた草がふわりと舞い上がった。
「よし、その意気だ。本気で来い!」
「言われなくとも」
斬り掛かったのはサイクスだった。左腕を突き出すような半身で突進する。右肩に担ぐ形で構えた細剣は、その軽さを活かして連続して叩く算段だ。
「お前から仕掛けてくるなんて、珍しい事もあるもんだ」
ミュルコ・モースはサイクスの剣を受け、白刃に火花を散らせた。それから袈裟がけ、払い、打ち下ろしと複数回に渡って刃を交える。鍔迫り合いには持ち込まず、素早く引いたサイクスに対し、竜王は一歩引いて、ステップを踏みながら剣を構え直した。浅はかに踏み込めば、返しの突きが繰り出される。サイクスの構えは打ち下ろしのため、突きに切り替える事は出来ない。そして、サイクスを名乗る黒い鎧の英雄が剣の勝負で最も得意とする手は、よく知っていた。
「互いに一歩引くか。お前もオレ様も、決め手は同じだからな」
「……そうだ、風竜ミュルコ・モースの構えは螺旋の構え。容易に踏み込めば吹き飛ばされるか刺し抜かれるか……」
「そうだ、思い出してきたようだな。もう少し手伝ってやる」
そう言うと、ミュルコ・モースは剣を納め、全身に力をみなぎらせた。竜王の覇気は稲妻となって眼どころか至る所から噴き出し、逆立った毛が陽炎のように揺らめく。老齢ゆえ萎びているように見えた肢体は、尻尾の先まで筋骨隆々に膨れ上がり、血管が浮き出ている。
「お前がよく覚えているオレ様の姿は、これだろう?」
「……あぁ、そうだ。眼光は稲妻、吐息は嵐。竜巻をまとい空を舞う竜王、まさにその姿だ」
生まれて初めて見る祖父の真の姿に、ティットルは腰を抜かしそうになった。後ろよりにたたらを踏んだところで、こっそりとリンダに支えられる。フィズは地面に這いつくばるように丸くなり、嵐をやり過ごす野生動物のようになっている。
「死ぬなよ、黒い鎧の!」
竜王が風をまとって飛び上がる。風の力を有する竜は、浮き上がるための揚力を自力で発生させる事が出来る。これは竜という生物の性質で、肺や肝に自然界の元素エネルギーを吸着させる。その元素に応じた成長を遂げるため、火や水といったエネルギーを有する竜が生まれるのだ。その上、風は元素エネルギーの中で最も吸着されにくく、風の竜は希少な存在であった。その風の竜王たるミュルコ・モースが天空の王者である事など、わけなかったのである。
「すごい風……あのお爺さん、稲妻そのものみたい」
リンダが見上げた竜王の姿は、まさに嵐を成す天の化身そのものであり、万物を砕く雷霆であった。渦巻く風に稲光が走り、サイクスの周囲に降り注ぐ。蒼白い光の刃に斬りつけられるように、黒い鎧が幾度となく震えていた。もし鎧を着ていない生身の人間なら、あの場にいるだけで焼かれて炭になっていただろう。
ティットルは完全に腰を抜かし、フィズは頭まで丸め込んでいる。カリエもニールも手出しが出来ず、カーンは竜王の真価に唖然とするばかりであった。ふと、うめくような声が聞こえた。
「なんだこの光景は……!」
異変に見舞われたのはエリックだった。頭痛に苛まれ、瞬間的に視界が塗り替わる。まだ森が今よりも深く、周囲に居並ぶ妖精の騎士、雷鳴の渦中に立つ黒い鎧、そして杖を掲げているのは――
「お兄ちゃん!?」
「何やってんだ、危ねぇぞ!」
リンダとカーンが叫ぶ。エリック自身、自分が何をしているのか分からなくなっていた。ただひたすらに、足を動かしている。矢のように飛び交う稲光も、雨のように弾ける火花も物ともせず、荒れ狂う暴風さえ押し広げるかのように駆け抜け、サイクスの元までやって来た。
「エリック、何故ここに!?」
「分からない、だが……!」
エリックは杖を掲げた。視界を染めた断片的な記憶のようなものが、目の前に再現される。黒い鎧の英雄を、竜王の雷から守る瞬間。エリックはほとんど無意識に、術式を行使していた。
「障壁の術式!」
サイクスとミュルコ・モースの両者とも、割って入ったエリックの術式に驚かされた。障壁の術式は、術者の技量にもよるが、ほとんどの魔法エネルギーを弾き返す障壁を展開する術式である。その性質上、魔法文明時代の全盛期たる、大陸暦七〇〇年代でも秘伝とされ、存在さえ知らない者の方が多かった。エリックもニールも、名前だけは知っていても実際に行使されているところを見た事はなかった。
「な、なに!? お兄ちゃん、何をしたの!?」
「術式で壁を張って、雷を防いでるんだ!」
閃光と轟音が広場に飛び散り、枝葉に当たっては赤熱して焦がす。障壁にぶつかった雷は三々五々に散り、その威力を減殺させてゆく。英雄と竜王は、眩い輝きの中、エリックに別人の影を見た。彼と同じ茜色の髪の、魔法使いの娘だった。
「オ……ア……!」
「まさか……あいつは……!」
周囲を蒼白く染めた光が晴れ、焦げる臭いと共に白煙が漂うだけの、静かな広場が戻ってきた。ミュルコ・モースは元の姿に戻り、地面に降り立つ。サイクスは妖精の細剣を取り落とし、エリックは突き立てた杖にしがみつくように膝を付いていた。
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
「サイクス、お前も大丈夫か?」
リンダとカーンが駆け寄ってくる。一寸遅れてカリエとニールが歩み寄る。ティットルは這うように手足を動かしながら、ぎこちなく立ち上がった。ほとんど、尻尾で支えている。
「さて、思い出したか、黒い鎧の」
「あぁ。まだ不完全ではあるが、ソキュラと相対した時よりも、だいぶ鮮明になってきた」
ミュルコ・モースの問いに、サイクスはいつになく明瞭な口調で返した。恐らく、本来の性格に近いのだろう。
「それなら、オレ様がお前の正体を知ってはいるが、言えないという言葉の意味も分かるはずだ」
「そうだな。本当の名前を思い出したわけではないが、サイクス・キュリールでない事は確かだ」
一同にどよめきが走った。黒い鎧の英雄サイクス・キュリールだと仮定していた人物が、そうではない。では、この人物は何者なのか――
「私が過去、この魔の島に君臨していた魔王ルハーラを討ったのは事実だ。そして、奴は倒れる間際に私に呪いを掛けたのだ」
「呪い?」
「忘却の呪い、とでも言った方が分かりやすいか。呪いを掛けられた者は、他の者から忘れられるという、厄介なものだ」
「英雄の名を残させないため……?」
リンダの言葉に、サイクスは首を縦に振った。
「リンダ、君は私と出会った壁画の石室で、何を見た?」
「何って、あの三面を埋める壁画よね。黒い鎧の戦士と、付き従う魔術士と剣士……その剣士の髪は、金」
そこまで言って、リンダの言葉が止まった。ミュルコ・モースは本当のサイクスは金髪の少年だと言った。そして、壁画には黒い鎧の戦士に従う金髪の剣士がいた。
「今の我々が記憶している英雄サイクス・キュリールは、君に付き従っていた金髪の剣士であり、君ではない……という事かね」
「そうです。そして、私の名前と存在は多くの人々の記憶と記録から封印され、記される事も呼ばれる事もなくなった。私の知る限りでは、ただ一つの例外が絵に残す事でした」
「あんたが呪われても、あんたを忘れずにいる事が出来た者が、壁画を残したんだろうね」
「えぇ。私が死ぬ間際まで忘れる事なく、付き添ってくれた人です」
ニールとカリエの質問に答えつつ、サイクスはエリックに視線を向けた。竜王も同様にしている。
「エリック、君は先程の術式をどこで覚えたんだ?」
「それに、あの瞬間、お前にダブった影は……」
「そこまでだよ」
割って入った声に、空気が変わった。女の声、驚いたフィズが慌ててリンダの元へと駆け寄った。一同が振り向くと、広場に繋がる森の道に、見覚えのある女が立っている。グリンクパースの街で出会ったエルフの精霊魔術師だった。
「お姉さんは、街で出会った……」
「えぇ、そうよ。でも、あなた達がエルフだと思っていた私の正体は、これよ」
女がマントを振り上げ、どこからともなく砂塵を巻き上げる。一瞬、視界が覆われた。黄金色の砂煙が晴れると、そこには泥を思わせる重苦しいローブに見を包んだ女が立っていた。長細く尖っていた耳は、まるで木の葉のようにひしゃげている。突き上がった鼻筋は、豚や猪の亜人によく似ている。うっすらと緑を帯びた肌の色が、その正体を如実に表していた。
「オルウーク……!?」
カーンがナイフを抜いて身構える。その反応は速かった。サイクスとミュルコ・モースもすかさず妖精の細剣を構える。招かれざる客に、戦慄が走った。
障壁の術式
術者の前に魔法エネルギーを中和、分解する障壁を張る術式で、行使自体にも高い技量を要する。
基本的に物理的な攻撃や衝撃波を防ぐ事は出来ないが、術者の技量と素養次第では可能とも。
メーシア大陸で最も名高いとされた魔法使いの家系、べクォン家の秘伝とされていたため、
かの家が途絶えた後の魔法文明時代の最盛期において、存在を知る者は少なかった。




