第十九話『精霊の森』
大陸暦一三五八年、八月一日――
森の町グリンクパースの外れ、ほとんど精霊の森に近い街道に建つ、ガーヴィネーのコテージにて、カリエはリンダに切り出した。間の悪い沈黙が辺りに立ち込め、火の爆ぜる音が一段と甲高く聞こえる。月のない夜は暗く、焚き火に照らされて初めて輪郭を顕わにする。それ以外は、影を帯びてより深い闇に染まっていた。
「私が、お婆ちゃんの精霊を?」
呆気にとられたリンダは、何を言われているのか分からず、目を白黒させる。庭の焚き火が不意に強く揺らめいた。エリックもほとんど同じような表情で、ニールはあまり関心を示していない。サイクスは相変わらずだが、カーンは明らかにカリエに同調していた。
「俺とお前でソキュラを相手に戦ってた時、お前が婆さんの精霊を使ってた事、覚えてないのか?」
「……そういえば、あの水竜と戦ってた時の事、あんまり覚えてない。何だろう、夢中だったのかな。すごくふわふわしてる感じ」
カーンの問い掛けに、リンダは曖昧な言葉を返す。カリエはやはり、と言った視線を向けた。
「集中かトランスか分からないけど、お嬢ちゃんは無意識の領域で人の技を写す力があると見た」
「人の技を写す?」
「あぁ。それなら、あたしの精霊を使われたのも分かる」
カリエの言葉に、やはりピンと来ないリンダは首を傾げた。カーンも思い当たる節があるらしく、真剣な面持ちで小さく頷いた。
「ソキュラとの戦いの時、婆さんは俺に手を止めるなと言ったな。その後で意味が分かったよ。リンダが俺の動きをそっくりに真似ていたんだ。というより、写していたと言った方が近いかもな」
「あたしの精霊を使われた時、なんとなく察したよ。世の中、たまにそういう才能のある奴がいる。鳴き真似、声真似、筆跡の偽造、いろんな所で活かされる才能さ」
「才能……なのかな」
二人の言葉に困惑の色を隠せないリンダは、ジャガイモのスープを一口あおる。長時間煮込まれて形を失い、半ば液状になったジャガイモを一つまみの塩と香草で味付けた風味は、夏とは言え冷え込む事もあるグリンクパースの夜には丁度良い温かさであった。しかし、カーンとカリエの言葉を理解して受け入れる事は、飲み下したスープの熱を自身の体温に溶かす事と比べるとひどく難しい。
「でも、私にそういう才能があるんだったら、お兄ちゃんが気付いてもおかしくなかった……よね?」
リンダに振られ、エリックの困惑はますます深まった。ここで答えを一つ間違えば、十五年以上一緒にいる実の兄でありながら、妹に関して何も知らなかったと受け取られる可能性がある。しかし、カーンとカリエの言う、リンダの才能に関しては本当に知らないのである。当然ながら、こういう時にニールは頼れない。
「それは、だな……」
曖昧な口調で答えに困るエリックを見かねてか、サイクスがゆっくりと立ち上がった。鎧兜の隙間から覗く闇は、焚き火の影響かいつも以上に黒く、かえって透き通っているかのように見えた。
「何年一緒にいても、気付かない事はある。むしろ、一緒にいる時間が長すぎて、気付けない事もあるだろう。そう言う時は、カーンやカリエ殿のような人の方が、気付く事もある」
まるで、思い当たる節があるような言い方だった。
「まぁ、エリック。もしお嬢ちゃんがあんたの晶石魔術を使う事があったら気を付けな」
「何か、リンダに負担が掛かるのですか?」
「いや、お嬢ちゃんがあたしの精霊を使った時、あたしの精霊石が消耗していたのさ。だから、お嬢ちゃんがあんたの能力を真似て魔術を使う時、あんたの魔晶石を消耗する可能性がある」
「分かりました。今すぐ無くなるという事はありませんが、気を付けます」
エリックは真剣な面持ちで返し、夜空を仰いだ。黒い陰となった木々をフレームにして映し出される星空は、月の不在に乗じて明るくない星も一緒に瞬いていた。一際の輝きがない世界には、見えてこなかったものが見えてくる。今のエリックにとってリンダの能力は、その明るくない隠れた星々だった。
「なるほど、あれがあの嬢ちゃんの力というわけか」
「魔王の手の者が、警戒するわけですね……」
一行のやり取りを遠巻きに見ていたガーヴィネーが、傍らの人物に話し掛ける。相手は、森に相応しくない流麗なシルエットの蒼い竜であった。
翌朝、一行は夜明けと共に行動を開始する事になった。
女性陣に用意された寝室で目を覚ましたリンダは、流石に裸というわけにはいかず、肌着一枚を身に付けていた。万一、エリック以外の男に見つかっても問題ないという配慮ではあったが、よくよく考えればニールの興味の対象にはならず、サイクスは中身のない鎧。気を付ける相手はカーンだけだった。
「別に、カーンだったら、見られてても問題なかったと思うけど……あれ」
リンダはカーテンの隙間から覗くコテージ外の広場にて、カリエが光の粒状になった精霊達を遊ぶように漂わせているのを目にした。恐らく、自分が自覚のない能力で彼女の精霊石を使い過ぎていなければ、今頃は精霊達も代わる代わるで実体化して、朝靄の中に漂う魔力を存分に浴びる事が出来たのだろう。悪い事をしてしまった、リンダは自覚こそないものの、申し訳なさそうな気分になった。
「リンダ、起きてるか? そろそろ朝飯だ……ぞ」
ドアをノックせずに入ってきた事が迂闊だった、カーンがそう判断するよりも早く、彼の目にはリンダという十七歳の少女の瑞々しい肢体が織り成すシルエットが飛び込んでくる。振り向いたリンダと目が合った。冷たくも柔らかな朝靄の、乳白色の逆光で表情は見えなかったが、輝く稜線と陰影のコントラストは、むしろ見えているよりも激しく、男の感性を刺激していた。
「す、すまん。とにかく、着替えたら来てくれ」
浮ついた声で、慌ててドアを閉じる。ほとんど一瞬しか見えなかったが、リンダの放つ艶めかしさは、カーンの平常心を奪うには充分過ぎた。当の本人は、自分を呼びに来たカーンが慌てて出て行った理由が分からなかった。仮に見えても逆光だから大丈夫、そんな風にしか捉えていなかったのである。
「あれ、朝ご飯はサイクスも食べるんだ」
「幽玄の類に清めのスープは毒でしょう」
着替えたリンダがテーブルに就いた時、隣で黒麦パンを口に運ぶサイクスを目にした。口と言っても、兜の口の辺りにパンを運ぶだけで、闇に解けるように吸い込まれてゆく。どういう理屈か分からなかったが、そういうものなのだろうとだけ考える事にした。向かい合って座るカーンに視線を送ると、気まずそうに目を逸らす。
「大丈夫よ、気にしてないから」
「あ、あぁ」
リンダとカーンの間に流れる微妙な空気から、エリックは何があったかを概ね察していた。着ているだけよかったな、という言葉は控えておいた。少し間を置いて、カリエが戻ってくる。これから精霊の森に赴くと言う事もあって、いつになく真剣な面持ちである。
「陽射し、風、精霊の動きからして、今日の精霊の森は何かあるよ。気をつけな」
カリエの声はドスが効いていた。その真剣さは、闇の精霊ロアの力を借りずとも伝わるほどである。この時点から始まっている、とばかりに黙々と朝食を済ませると、八の刻限にはコテージを引き払った。
「さて、行くよ。あたしが先導する。カーンは前方警戒、お嬢ちゃんとエリックは真ん中、ニールとサイクスは後方警戒だ」
カリエが杖の先端に小さなカンテラを取り付ける。中には彼女の精霊達が詰められており、状況を問わずに光を放つという、精霊の性質を利用した光源であった。精霊の森には、魔物の他に妖精も数多くいるらしく、しばしば迷惑な悪戯を仕掛けられるのだという。暗くなってきた頃に、ランタンやカンテラの灯を消される事もあるのだという。
「いやぁ、昔ここの妖精の悪戯が過ぎて頭に来て、そのグループの中にいた娘にちょっとお仕置きをしたら、出禁になっちゃったんだよね」
森の入り口を示す花飾りの門が見えてきた頃、唐突にニールが言った。丸眼鏡のレンズを不気味に光らせて、からからと笑うその様相に、どのような悪戯をされてどのようなお仕置きをしたのかを尋ねる気にはならなかった。
「精霊の森の門番よ、我は精霊と契約せし者。名をカリエ、姓をリカンパ。我らに精霊の森へ足を踏み入れる事を許して頂きたい」
「契約者カリエ、承認した。連れ立つ者達も、共に入るがよい……」
花飾りの門は、それ自体が門番であった。よく見ると、枝葉を繋ぐ幹や蔦は竜の体ようにうねっていて、厳かな声を放つ花飾りは、竜の頭のようでさえあった。カリエに続いてカーン、リンダ、エリックと門を通る。サイクスとニールが通った時、「待て」と厳かな声が再び聞こえてきた。ニールの出禁はまだ解かれていなかったか、カリエは気まずそうに立ち止まった。
「そこの黒い鎧……見覚えがある。しかし、どういうわけか思い出せぬ。精霊の森の入り口を守り続けてきた我でも、思い出せぬ……」
「それを知りたくて、風の竜王ミュルコ・モースに会いに来たんです」
「そうか……確かに、我らが王ならば知っていよう……行くがよい」
咄嗟に声の出なかったカリエの代わりに、リンダが返した。花飾りの門は一行の通過と森への進入を許すと、再び森の外へと目を向け、厳かな門番に戻った。
森に入って数刻、日は既に高く昇っているようだったが、森の木々は高く、好天の昼間でありながら薄暗かった。進むべき道を照らすかのように木漏れ日が差し込み、好奇心をくすぐるかのように茂みの方々から光の粒が舞い踊る。思わず興味を引かれそうになるリンダとエリックを押さえる為、この布陣となっていた。
「エリック君、間違っても道を外れてはいけない。あの茂みの光は妖精の誘いだ。迷惑で厄介で腹立たしい悪戯をされてしまう」
「先生、先ほども悪戯されたと言ってましたが。一体何を……」
「食べ物を腐らせる、水を酢にされる、魔晶石をただの石ころにされる、色々やられたよ。まぁ、お返しに妖精の娘を一人だけ捕まえて……」
「静かに」
歩きながら軽口を叩くニールに対し、カリエの静止が掛かった。単純に内容が聞くに堪えないものだから、というわけではない。ニールも口許を引き締めると、年長者の引き締めが一行に緊張として伝播した。カーンとサイクスがナイフを抜く。リンダもマンスィスの銃剣を手にした。エリックとニールも魔晶石を起動させて身構えた。
「囲まれてるね。多肉カマキリが三、岩切りウサギが四、星空アゲハが五」
森には魔物が潜むというが、精霊の森は他の森の比ではなかった。多肉植物に似た構造を持つ巨大カマキリに岩切りウサギ、広げた翅から星空のような幻惑を見せて相手を狂わせる大型の蝶。合計十二匹という数は、明らかに多い。これが精霊の森、洗礼と思ってリンダ達は得物を構えた。
精霊の森の妖精
自分達の領域に侵入した余所者に対して悪戯を行う事が多い。
人間からすれば迷惑で腹立たしいとしか思えないが、当の妖精達に大した考えはない。
妖精の体は行動に応じてそのサイズを自由自在に変化させる事が出来、時には人間と同じかそれ以上になる事も。
より大きな影で驚かす、魅力的な異性になって惑わすなどの行動に出る事もあるが、最終的な悪戯のレベルは変わらない。
飲食物や物資に危害を加える、財産を損なわせる、グループに不仲をもたらす程度で、心身に重大な被害を及ぼす事はない。
なお、ニールは人間大に変化した妖精の娘にかなりの仕打ちをしたらしく、妖精側から嫌がられている。




