第一話『酒場の娘』
大陸暦一三五八年、七月十六日――
エール村の中でも最も大きな酒場『マークスの呑み処』に急を告げる電話が掛かってきたのは、東の空から照りつける夏の陽射しが熱を帯びてきた頃だった。
壁掛け時計が示す刻限は九、昼飯時には食堂としても商売しているため、この時間は開店準備に追われている。もちろん、店主マークス・バーライドの声は荒い。
「ふん、ふん、分かった。とにかく、今日の十六の刻限までに何とかなれば良いんだな! 分かった、何とかしてやるからそんな声出すな!」
マークスが受話器を叩きつけるように戻すと、丁度良いタイミングで裏口のドアを叩く音が聞こえた。軽やかな音からして女、それもまだ若い少女のものだった。
「どうぞ」
店主の荒々しさが残る声を受けて、ドアが開く。
気まずそうに入ってきたのは、襟口で切り揃えられた内巻きの明るい翠の髪だった。次いで、日焼けして小麦色の肌が若々しい、器量の整った顔。カチューシャ代わりに下顎から生え際まで渡した生成り色のバンダナはリボンのように結ばれ、顔立ちと相まって快活さを引き立てていた。この店でウェイトレスとして働いている少女、リンダ・ルビィだった。
「あの、マークスさん、怒ってる?」
「いや、もう大丈夫だ。それよりもリンダ、お前にお使いを頼みたい」
「お使い? どこまで?」
「王都ジョーギンの、俺の息子の店だ。十六の刻限までに酒樽四つ。頼めるか?」
リンダと呼ばれた少女はマークスの言葉に驚き、慌てて時計を確認した。荷の積み下ろしを計算に入れると、六刻として時間がない。頼めるか、という聞き方ではあるが、恐らく他の誰かに頼んでいる時間もないだろう。リンダは二つ返事で応じた。
キュリール島南東部のエール村から、島中央部の王都ジョーギンまでは、幹線道路を用いて四刻半掛かる。道中での給油や休憩を加味しても、余裕と言えば余裕ではあった。問題は、店で使っているオート三輪の年季の入り具合である。
「せっかく、お母さんのブラウスとスカートを見つけたから出してみたけど、お披露目とはいかなかったわ」
「お披露目と言ったって、この店に来る酔っ払いのレベルなんざ知れてるだろう。ちょっとはいい顔して、息子のケツでも蹴っときな」
「そうするわ」
リンダは悪戯っぽく笑うと、オート三輪の運転席に滑り込んだ。ルンビーカ350、年季の入ったオート三輪だった。マークスが二足歩行作業機械を操縦し、酒樽を荷台に積み込む。ヴィルビン500、こちらもなかなか年代物で、過去にリンダがぶつけて付けた傷がいくつも刻まれていた。荷台の固定が終わり、出発の準備が完了する。
「リンダちゃん、これ持ってきな!」
「ありがとう、ウィノアさん!」
「気を付けて行けよ! 困ったらお巡りさんに言うんだぞ!」
「分かってる! 行ってきます!」
マークスの妻、ウィノアから弁当としてサンドイッチの入った紙袋を受け取り、元気の良い声で応えると、リンダはシフトレバーを一速に入れ、右足のアクセルを踏んだ。エンジンの回転数を音で測り、左足のクラッチをゆっくり離す。車軸に回転が伝わる瞬間、車体が小刻みに震えながらも、無事に走り出せた。免許を取って一年になるが、今でもたまにエンストを起こす。
エール村を出たリンダが最初に目指したのは、東海岸に広がる一面の青い海だった。南東部突端の付け根に位置するエール村からは、まず林道を抜ける。センターラインの無い舗装道路には、木漏れ日が柔らかな萌黄色の光となって降り注ぐ。青々とした枝葉は秋が深まれば燃え立つような紅に染まり、褪せた空の青とのコントラストが美しい。
「今年も海で泳げるかな。新しい水着も欲しいけど、王都に行ったら見てみようかな」
運転席に吊るされたラジオから、夏本番とばかりに陽気なアナウンスが流れ、流行の歌謡曲がほどよいBGMになる。林道を抜け、島の外周を巡る幹線道路に合流する。
右手側には青々とした空と海、穏やかな水面は太陽の光を散りばめられた宝石のように煌かせ、水平線からは入道雲が天に向かって背を伸ばしている。交通量もそれなりに増えるが、漁場が多く海水浴客もいないため、危険は少ない。
「良かった、車が多くない。これなら十一刻までにニプモスに着けるわね」
リンダは十の刻限を告げるラジオの時報を聞き流し、ご機嫌なドライブ気分でルンビーカを走らせた。
都市ニプモスは、島中央部のセーシュ湖から流れるパヨイラ川の河口にあり、古くは運河を用いて、キュリール島東部の流通の要衝とされていた。今では島中を幹線道路が巡っているため、かつてほどの運河の需要はないが、外洋から来る貿易の貨物船を停めるだけの港を有しているため、規模は衰えていない。
「そういえば、そろそろ軍艦の一般公開日だったっけ。カメラ持ってくればよかったかなぁ」
海岸線に沿って曲がりくねった道の先、キュリール国内随一の貿易港のシルエットが見えてきた頃、リンダは思い出したように呟いた。
キュリール王国も独立国家である以上、軍隊も軍艦も有している。大国ほどの大型艦は保有していないが、毎年この時期に行われる一般公開では多数の来場者が詰めかけ、特に子供達は憧れの駆逐艦に群がるのだ。コルベットや水雷艇とは風格が違うらしい。彼女はそこまで興味があるわけではないが、やはり村の子供達にも軍艦の写真は喜ばれた。
「えと、この辺りで左折だったわね。あったあった、あのタコ足看板」
タコ足看板とは、ニプモスで最も複雑と言われる交差点の行き先を示す看板で、ジョーギン方面は左から二番目の左斜めに入る道であった。この五叉路は『ヒトデ道』とも呼ばれ、多くの初見ドライバーが看板を見ても道を間違えたり迷ったりする事から、案内板にも『タコ足看板』のあだ名がついた。
「そうだ、そろそろお昼にしよう」
リンダはジョーギンに続く国道をしばらく走らせながら、自然公園の駐車場にルンビーカを停めた。刻限は十一と半。ニプモスからジョーギンまでは二刻ほどなので、時間には余裕があった。
自然公園はニプモスからの上り坂の途中にあり、市街地を見下ろして海まで見える、絶景のスポットであった。公園内では幼児を遊ばせる親の姿が目に付き、むしろリンダの方が少し浮いて見えた。だが、彼女はお構いなしに紙袋から分厚いサンドイッチを取り出して頬張った。
「ん、いつもの味だ」
赤麦の少し硬めのパンに、微妙に不揃いな厚さのハム。湯通しした勾玉ネギは辛味こそ抜けたものの、どこかほろ苦い。粗挽きコショウのマスタードの刺激で引き締められた味は、ウィノアの得意料理だった。彼女のサンドイッチを目当てに昼食を摂りに来る男は少なくない。そして、料理の味とリンダの器量に魅了され、夜の酒場で仕事上がりの一杯を嗜むのだった。
「ごちそうさま、よし、行こう」
太陽が南の空で輝いている。東の海に背を向けて、再び王都までの道に戻った。
ニプモスとジョーギンの間には、給油所や整備工場を有する町がいくつかある。それだけ、この国道を利用する車が多く、また故障やガス欠の憂き目に遭いやすいという事であった。道中、一度だけ給油を済ませると、領収書に『マークスの呑み処』の記載を忘れない。こういう点で、リンダはしっかり者と言えた。
「十四と半の刻限か。よし、間に合ったかな」
リンダは無事、王都ジョーギンに到着した。ここからさらに、マークスの息子の店を探し、酒樽を届けなければならない。幸い、彼女の入ってきた側から近い通りに店を構えており、移動時間も全て含めて十五の刻限には辿り着く事が出来た。
「助かったよ、ニプモスから今日の荷が無くなった、なんて言われた時はどうしようかと思ったよ」
「何かあったの? 私が通った時は騒ぎとかなかったけど」
「あぁ、昨日の晩、モノゲアから来る貨物船でトラブルがあったんだけど、その時に積み荷の一部がダメになってしまったんだ。で、その中に今日ウチに来るビールがあったんだ。とりあえず、今日はモノゲアの本場ものは無しで、代わりにエール村の地ビールで凌ぐ事にしたんだよ」
地獄に仏とばかりに安堵の表情を浮かべたのは、マークスの息子リュークスだった。
父親の若い頃によく似ている、と村の者からも評判のルックスはジョーギンのような都会でも通用するほどで、数年前に独立してからも、若者を中心に店を繁盛させていた。やや中性的で整った面長に、明るいオレンジ色の髪を後頭部で括った顔立ちは、まさしく引く手数多といった風情であった。
「それにしても、わざわざエール村から、あんな古い車で持って来てくれるなんて、良い子ね」
「いえ、私としても、ここまで来る事なんて滅多にないですし、ちょっとした冒険気分ですよ」
リュークスの店で働く女性の言葉に、リンダは明るい笑みを交えて返した。
同時に、母のお気に入りをお披露目するという気分では無くなっていた。その女性、ターナ・モアリワは大人の犬亜人で、男性を強く惹き付けるボディラインをはっきりとアピールしながらも、女性をも感心させるだけのファッションセンスを併せ持っていた。そんな彼女の前では、リンダはどうしても田舎娘の印象が拭えない。
「そうだ、君が来る前、父さんから電話があったんだ。帰りにニプモスの港でレイアッドさんを拾ってくれって。十八の刻限の船だって言ってたよ」
「十八の刻限か……そろそろ行った方が良いわね。それじゃ、失礼します!」
時計を確認すると、リンダは伝票をまとめて飛び出すように店を出て行った。オート三輪のエンジン音が遠くに過ぎ去った頃、リュークスはターナに尋ねた。
「あの子、どう思う? ただの田舎娘にしておくには勿体ないと思うんだけど」
「そうね、叩けば伸びるタイプじゃないかしら」
「それ、褒めてるの?」
リュークスは吹き出し、ターナはすまし顔で開店の準備に戻った。彼女は才色兼備ではあるが、時折こういった発言で場を困惑させる。その掴み所の無さが、また魅力であるという。
十七と半の刻限には店を開ける。そして、ラジオのスポーツ中継を流しながら盛り上がるのだ。これが、彼らの騒がしくも穏やかな日常である。
ニプモスの港は四つのターミナルがあり、第一に沿岸警備隊、第二に貨物船、第三に客船、第四に緊急用と割り当てられていた。それらとはまた別に、軍港や海軍施設がある。民間空港のないキュリール王国にとって、港は重要な施設であり、戦略上の拠点であった。
そんな港を一望出来る坂道を下りながら、明日の好天を約束する西日を背に受けて、リンダの駆るオート三輪はニプモスへと向かう。十八の刻限に近付くにつれて、東の空の青は群青へと染み渡るように塗り代わり、星の光が明滅し始めた。
「それにしても、モノゲアから来る貨物船でトラブルって、何だったんだろう。大海獣にでも襲われたとか?そんなわけ、ないか」
東のメーシア大陸からヤノミ大陸までの道中には、その昔、巨大な軍船でも沈めてしまう大海獣がいたとされている。教科書によると、大陸暦一〇三四年にキュリール軍によって討伐されたと記録されているため、そんな怪物など歴史の一ページに過ぎないと思われていた。
「でも、最近になって、ニプモスとメーシア大陸の間の海域、事故が増えたって聞いたなぁ……」
どうせ考えても仕方ない事として、リンダは思考を打ち切った。まだ仕事は残っている。第三ターミナルで待ち合わせたレイアッド夫妻を乗せて、エール村への帰路についたのだった。
エール村
キュリール王国南東部に位置する山村で、主な産業は農業と鉱業。
元々はオシトー山のエール鉱山の作業者が住むために開拓した。
避暑地として隠れたスポットになっており、都心生活者の別荘もある。
鉱山がある都合上、幹線道路は発達しており、アクセスは良好。
港湾都市ニプモスから車で二刻もあれば来れるため、
手軽に山林を楽しめる観光客も増加傾向にある。