第十一話『甘く苦く』
大陸暦一三五八年、七月二十五日――
リンダの心を埋めていたのは、言葉に表しようのない鬱屈とした感情だった。ニールの事務所を出てから一寸遅れて追い掛けてきたカーンに連れられて、一階のカフェテリアに入って席に着いてからも、悶々とした気持ちは晴れなかった。ウェイトレスが置いたグラスの水が揺れる様は、まさしく彼女の心境であった。
「とりあえず、何か頼んだ方が良くないか?」
「……そうね」
「えっと……すまん、読んでくれ」
メニューを開いて一瞥したカーンは、少し間を置いてからリンダに手渡した。そういえば、と思い出したような顔で受け取るリンダに、先程までのような険はなくなっていた。
「文字が読めないんだっけ」
「言葉は分かるんだが、使ってる字体が違うんだ。サイクスも似たような事を言ってただろ」
「そうだったね。私も昔の人の手紙とか見ても読めないし」
携帯端末の翻訳機能を使えば、古文の扱いで訳せるのだが、バッテリーの残量が心許ない。先日の駐在所での使用が思った以上の消耗に繋がっていた。この辺りの事情は言われても理解が追いつかないため、リンダもエリックも説明を求めなかった。
太陽光での充電も不可能ではないが、半分ほどから始めても完了まで三日は掛かる。カーンはそう踏んでいた。しかし、この時代の太陽光は粉塵に遮られる事もなく、カーンの端末であれば半日もあれば充電出来るのだが、それに気付く者は誰もいなかった。
「俺、これにする」
「リマーブ村オレンジのタルトね。私は……これかな」
リンダはメニューから目を離し、ウェイトレスを呼んだ。夕焼け色の波打つ髪を後ろ手に結った、そばかす顔のウェイトレスが注文を取りに来る。決して器量が良いとは言えないが、気立ては良い印象の三十路女だった。
「オレンジのタルト一つと、リンゴのパイを一つ」
「かしこまりました」
メニューを回収したウェイトレスが、踵を返して戻ってゆく。その後ろ姿を、リンダは懐かしむように眺めていた。
「……今の自分が、自分じゃない。そんな感じか」
「そうかもしれない。私、元はマークスさんのお店であんな風に働いてたのよ。お昼を食べに来たり、夜にお酒を飲みに来たりするお客さんを相手にしてさ」
リンダの両手に包まれたグラスの水が、回るように揺れる。迷いや戸惑い、苛立ちが手や視線の動きから読み取れる。その波浪のようなわだかまりに自分が関与している事は、カーンにも伝わっていた。
「俺やサイクスが現れた事も、一枚噛んでいるようだな」
「というか、もう少し前。あのジェリム男が私を襲った事、それとも、貨物船に起きた原因不明のトラブル……」
「短い間に色々ありすぎて、まだ頭が追い付いてないんだろう」
「そうかもしれない」
「俺も、そうだった。世界が激変して、何もかもが変わってしまったんだ」
間の悪い沈黙が二人の間に漂う。程なくして、ウェイトレスが二人の注文したものを持ってきた。テーブルに置かれた二皿のデザートは、その華麗な見た目と芳醇な香りでリンダの心をいくらか明るくした。カーンからすれば、実物を見るだけでも難しいとされる果物が、街角のカフェテリアで手頃な価格で彩り豊かな甘味となっている事は、ある種の衝撃であった。
フォークでオレンジの果肉を一つ刺しては、目線の高さに運ぶ。行儀の良い行為では決してないが、夕焼けのように鮮やかな橙色が艶やかに照り返すのを見ては、本当に自分が別の世界に行ってしまったような錯覚さえ受けた。口に運べば、爽やかな酸味とほのかな甘みを含んだ汁気が舌を撫で、喉の奥まで染み渡る。オレンジの一粒でも、カーンの時代には超が付くほどの高級品であった。
「うん、おいしい。お兄ちゃん、シルビアさんとこういう所でお茶してたんだな」
フォークで切り分けたリンゴのパイを口に運び、舌鼓を打つリンダの視線の先には、オレンジの一粒、タルトの一切れに感慨深い表情を浮かべるカーンの顔があった。リンダは言い出しにくい質問に、あえて踏み込んでみせた。
「カーンは、元の時代に戻りたい?」
「……そうだな。確かにこの時代は良い。俺が子供の頃の、まだ世界があるべき姿だった頃にそっくりだ。このタルト一つとっても、こんなに美味いものを食ったのは久しぶりだ。でもな」
「でも?」
「やっぱり、俺は元の時代に戻るべきだと思う。俺一人がたまたま流れ着いたこの時代で、気楽に生きるわけにもいかない。帰りを待ってる人がいるって程でもないが、知り合いは多いからな」
「……そっか」
カーンは名残惜しそうにタルトを平らげ、皿にかすかな残り香だけを添えた。フォークを皿の隅に伏せて掛ける辺り、育ちもある程度の水準だった事を感じさせる。小腹を満たして心が落ち着いたのか、リンダは先ほどまでの自分とようやく向きあう事が出来た。
「私、甘えてたのかもね」
「甘える? 誰にだ」
「みんなに。ほら、お兄ちゃんが先生って呼んだ博士、私を少し見ただけで興味も示さなかったじゃない。こっちは何度も命を狙われたのに、まるで、って。そう感じたら、なんか腹立たしくなっちゃって」
「俺の時代にもあんな感じの変わり者の爺さんはいるけど、だいたいあんなもんだな。いつも昔のデータ漁りばっかりで、来客にもろくに挨拶しない」
「そっか、そうだよね。私、普段から村のみんなに良くして貰ってたから、それが当たり前に感じてたんだと思う」
「それだけじゃない。そういう手合いの偏屈者からすれば、小娘なんか眼中にないものさ」
割って入った声に、リンダもカーンも驚きを隠せなかった。振り向くと、テーブルの脇に椅子を引っ張ってきて、兎亜人の老婆がちょこんと腰掛けて紅茶を嗜んでいる。萌黄色と紫を中心とした奇抜なデザインの服から、只者ではない気配を感じさせる。あるいは、ただの変わり者でしかないのかもしれない。長く垂れた耳は、年齢によるものというより、元々こういう種であるようだった。
「上にいるのはニールだろ? あたしの知り合いさね。奴は魔法文明時代という、遠い昔の遺跡に描かれた壁画の美人を追っているような男さ。そう、五百年も千年も昔のね。それらの年季に比べたら、あんたどころかあたしだって小娘さ。まぁ……若い頃は抱いた抱かれたの関係になった事もあったけどね」
「おばあちゃん、あの博士の知り合いなんですね」
「そうさ。おっと失礼、あたしはカリエ、カリエ・リカンパ。精霊魔術師さね」
「リンダです、リンダ・ルビィ。色々あって、エール村から兄と一緒に来ました」
「俺はカーン・モヒトー。信じて貰えるか分からんが、未来から来たんだ」
カリエと名乗った老婆は、カーンの顔立ちや背格好を見て、ふん、ふんと何度か頷いてみせた。
「時空干渉の術式陣だね。あんたの気配に、魔力の残り香を感じるよ」
「分かるのか?」
「たまに、遺跡や迷宮探索をしている奴が、空間転移で飛ばされて来る事がある。そういう時、魔術師はそいつを送り返してやるものさ。こんな時代になっても、魔術師の存在に需要があるのはそういう事さ。カーンと言ったね、あんたはどのくらい未来から来たんだい?」
「それが……」
カーンが答えようとした矢先、リンダが異変に気付いた。グラスの水が小刻みに揺れている。カリエのティーセットも乾いた音を鳴らし始めた。
「地震……?」
「いや、これはもっと別の何かだね……」
カリエはカップに残った紅茶を飲み干すと、自分のテーブルに戻って荷物を手に取り、お代を置いて店を出た。良くない気配を察したリンダとカーンもそれに倣い、店から通りに出た。地震のような揺れは感じたが、実際に地面が揺れた気配はなく、波も別段高くなったわけではない。それ以上に厄介な存在が、波どころか海を押し広げるような形で港にぶつかって来た。
「な、なんだぁ!?」
カーンが素っ頓狂な声を上げた。港の一画に二階建ての建物にまで届くほどの水柱が打ち上がる。その衝撃で揺れる水面は数隻の小型船を弄ぶように持ち上げた。落下の際、傾いた一隻が港に直撃し、大破して反動で転覆し、水が入ったのか、ゆっくりと沈んでいった。ぶつかったのは小型客船ほどの大きさの円筒状の乗り物、潜水艇だった。
「ありゃあ、人を運べる奴だね。あたしの婆さんが若い頃、レンストラ大陸戦争で見たって奴にそっくりだ。写真で見た事あるよ」
カリエの祖母が見たと言う潜水艇は、レンストラ大陸はカレド帝国が先の戦争で用いた、トゥンマ級潜水兵員輸送艇である。外装式の魚雷二発と、上部に備え付けられた歩兵支援用の機関銃と小口径砲を装備しており、二〇名ほどの兵員を輸送する事が出来る。軍港としても機能しているニプモスの港に突如として現れた潜水艇に、行き交う人々は戸惑いと驚きの声を上げ、右往左往するばかりであった。
「ちょっと待って、あんなのが襲ってきたら、ひとたまりもないよ」
リンダの声にも困惑の色があった。潜水艇の正面ハッチが、跳ね橋を下ろすように開かれる。中から溢れるように飛び出してきたのは、予想だにしない存在であった。人よりも一回り背丈が高く、細身の体型に獰猛な毒魚の顔。口元を覆うマスクから伸びる管は、背に負った装置に繋がっている。手にはレバーアクション式の小銃に幅広のナイフが取り付けられている。
「なんだアレは……魚亜人とは違うぞ」
「マンスィスだわ。かつてはオルウークやゴブリンと並んで恐れられていた、海の魔物の一種よ。オルウークやゴブリンが比較的友好になった今でも、マンスィスは敵対的って聞いてるわ」
「なんだって、なんでまたマンスィスが潜水艇になんて乗って来たんだい。しかも奴ら、陸上でも動けるように呼吸装備までしているじゃないか」
口元のマスクと管で繋がった背中の装置は、海水を供給するボンベのようなものだろう。人間が水中で活動するための潜水服は、呼吸の為にヘルメットに地上から空気を送るのだが、マンスィスの装備はその逆であった。定員を遥かに超える数のマンスィスが港に展開し、次々と小銃の引き金を引く。人々の困惑は絶叫に変わった。
「まずい、伏せろ!」
潜水艇上部の機銃が、周辺一帯をなぎ払うように掃射した。船に穴が空き、建物には弾痕が刻まれ、車は穿ち貫かれ、人は砕けて飛び散った。血と火が舞い、煙と砂埃が立ち昇る。異変を聞きつけた警察車輌が何台か詰め掛けたが、展開した警察官には手に負えない事態に遭遇するという不幸が待っていた。車輌は潜水艇からの銃砲撃で焼け焦げた鉄屑と化し、警察官だけでは押し寄せるマンスィスを止められなかった。
「くそっ、このままじゃまずい。リンダ、エリック達を連れて逃げるぞ!」
「分かったわ。おばあちゃん、ここは危険よ!」
「そのようだね。お嬢ちゃん、ニールの奴はこの上にいるんだろう。一緒に行くよ」
そう言ってカリエが加わり、リンダ達は階段を駆け上った。これだけの騒ぎが起きているのだから、分からないはずがない。その間にも突然の襲撃者は港を蹂躙している。リンダは戸惑いながらも、自分の身を守る事で手一杯な現状に奥歯を噛み締めていた。
マンスィス
魔法文明時代には『海のオルウーク』とも呼ばれていた存在。
蒸気文明時代に労働力としての価値を見出されて人類社会に溶け込んだオルウークやゴブリンと異なり、人類と敵対し続けた。
創造神ダレイオクが五大陸を創る際、果てなき混沌の海を統べていた者達の眷属の末裔ともされている。
複数種の毒魚や肉食魚を彷彿とさせる顔立ちに、鱗で覆われたやせ細った長身、細くもしなやかな手足という特徴を有する。
鱗に蛍光色のラインが入っていたり、ヒレの形状が他の個体と異なる者は希少な存在とされ、崇め奉られる傾向にある。
キュリール島の近海では数十年置きに大群が発生、浜辺が襲われるケースもあるが、エラ呼吸のため短時間に留まっていた。




