第九話『底知れぬ脅威』
大陸暦一三五八年、七月二十二日――
初代キュリール国王サイクスと思わしき黒い鎧の告げた名を、知らぬ者はなかった。
「魔王ルハーラ……」
「かつて、キュリール島が『魔の島』と呼ばれていた時代の支配者……」
キスウィーもロックも、真剣な面持ちになった。この二人の刑事はジェリム男とも遭遇しておらず、今回の事件に関して直接見聞きした部分は皆無に近い。それでも、二つと無いはずの黒い鎧が目の前にあり、その中にはサイクス・キュリールと思わしき魂が宿っている。魔法を主体とした文明が衰退して久しいが、それは文明の中心となる技術が成り代わられただけであり、魔法そのものが衰退、消滅したわけではない。
「私が思い出せるのはここまでだ。どういう訳か、自分の名前やその他の事が思い出せない。まるで、記憶に靄が掛かったような気分だ」
「サイクス、あのジェリム男は再び我々の前に現れるのか?」
「現れるだろう。見た所、奴のコアまでは壊し切れなかった。知性と理性を得たジェリムは厄介だぞ。元々の高い再生、復元能力を効率化させている」
サイクスの言葉に、リンダは露骨に嫌な顔をした。一度目は殺されかけ、二度目はシルビアを斬り付けられた。出来れば二度と会いたくない存在だった。しかし、今のままでは再び襲ってくるのは目に見えていた。
「キスウィー殿。あなた達は何故、あのジェリム男に目を付けたのですか?」
「奴は先日、ジョーギンで人を殺しています。そこのお嬢さんを襲った時と同様、謎の占いをした上でね」
キスウィーは返答と同時に、リンダに目配せをした。彼女の顔はどこか強張っていたが、怯えている様子はない。
「古の真実を暴き、未来を塗り替える運命とか……運命に導かれるとか……我が主の為に邪魔はさせないとか……そんな感じの事を言ってたわ」
「古と未来、まさにそこにいる二人のようだな」
リンダはあの日、ジェリム男が占いながら述べた言葉を思い出す。エリックはサイクスとカーンに目をやった。
「……妹の存在は、奴らにとって都合がよくないらしい」
「都合がよくないと言っても、成人してない娘っ子一人の存在が、どう影響するんだかね」
「刑事さん、あのジェリム男は、前の殺人事件でも占いをしていたと言いましたね。他にも同じように狙われる可能性のある人がいるのでは……?」
エリックに言われて、キスウィーはハッとした。リンダの他にも狙われる者がいるかもしれない――
「ロック、俺達は一度ジョーギンに戻ろう。奴の占い道具と人相を押さえたし、大まかな目的も見えてきた。捜査にも指名手配にも、人手が必要だ」
「分かりました。君達はどうする?」
ロックはリンダ達に尋ねた。あのジェリム男がどこで牙を研いでいるか分からない以上、不用意に出歩かせるわけにはいかないが、かと言って拘束するだけの用意もない。暗に自制を促すのが精一杯だった。
「この黒い鎧の正体が気になります。一度ニプモスに行って、クニット先生を訪ねようかと」
「クニット? キュリール王国随一の考古学者、ニール・クニット博士か?」
「えぇ。先日まで一緒に研究の為に出ていました。今ならその分析で研究所にいるはずです」
ロックの目の色が変わった。エリックが師事するクニット博士は、魔法文明時代の研究において秀でており、過去には大陸暦五、六〇〇年代のメーシア大陸における動乱期、通称『火の百年間』を追った事でも知られている。キュリール王国の勃興に関する歴史を紐解いている内に、メーシア大陸の歴史にも触れたのだという。
「博士の著書を何冊読んだ事か……もし、自分が警察官の父や祖父を持たなければ、考古学者になって師事したいと思っていたほどのお方だ……」
明らかに早口になり、自分の世界に浸りつつあるロックの頭を小突き、キスウィーが現実に引き戻す。
「済まない、取り乱した。エリック君、わざわざ博士の弟子である君に言う事ではないが、博士に失礼のないようにな。それと、リンダ君の事をしっかり守ってやるように」
「分かっています。刑事さん達も、捜査が進むといいですね」
「そちらも、二人の手掛かりが掴めるといいな」
エリックとロックは握手まで交わしていた。性質上、考古学者と警察官はあまり相性が良くないとされているだけに、この関係は異例とも言えた。その間にサイクスとカーンの釈放手続きを取っていたキスウィーが、ロックを連れて会議室を出て行く。駐在からも、閉めるので早めに出るよう促された。
「ロック、あの兄妹に入れ込んだのは、兄の方が考古学者だからってわけじゃないだろう」
「……お見通しですか」
会議室を出て、下り階段に差し掛かった所で、キスウィーがロックに尋ねた。ベテラン刑事の流し目が、若手に突き刺さる。
「そりゃあ、な。少なくとも、あの兄妹が生まれる前から刑事やってんだ」
「自分にも、妹がいるんです。十年以上前に両親が離婚して、母方に引き取られたっきりですけどね」
「……そうか」
悪い事を訊いちまった、キスウィーはそんな事を思いながら、静かな階段にバツの悪い足音を響かせていた。
「驚いたよ、シルビアの傷は縫うだけだったよ。消毒も何も、全部済んでいたんだ。警察に連れていかれた、未来から来たっていう男が持ってた道具、ありゃすごいね」
「そうですか、良かった」
「まだ中が塞がってないから、もうしばらく入院になるけど、会っていきな」
施療院に着いたのは昼前だった。シルビアの手術を担当した医者は、彼女の傷の具合に驚かされるばかりだった。それだけ、カーンの時代の医療技術が向上している事を意味する。一同は二階の個室病棟に案内された。
個室のベッドに腰掛け、退屈そうに足をぶらつかせる姿は、まるで子供のようであった。リンダ達が訪れた頃、シルビアの傍にはマークスとウィノアが立っていた。
「おぅ、お前達か」
「シルビアの様子は……大丈夫そうですね」
「まぁな。俺とウィノアの娘だ。医者によると、応急処置が良かったらしい。その道具を持ってたのは……」
マークスはリンダ達の中に、シルビアの命を救った者の姿を探した。少しの間を置いて、カーンが一歩前に出る。マークスは口を半開きにして黙り込んだ。カーンも気まずそうに視線を逸らす。
「ま、まぁ、娘の命を救ってくれた恩人だ」
「……どうしたの? 二人とも」
どうにもぎこちない二人を見て、リンダが横槍を入れた。明らかに態度がおかしいと感じられたのだ。
「いや、近所の居住区で色々とブイブイ言わせてるおっさんにそっくりなんだよ」
「それなら大して変わりないわ。マークスさん、結構気が短いし」
「こら、余計な事を言うな」
カーンにとって苦手な人物とよく似ていたらしい。マークスからしても、また娘に変な虫が付いたのかと思ったようだった。
「マークスさん、カーンは悪い男じゃないわ。出会って昨日の今日だけど、なんとなく分かるわ。見ず知らずのシルビアさんや私を助けてくれたんだもの」
「そうか、お前がそう言うんだったら、信じよう」
マークスは微妙に納得し切れていない節はあったが、リンダの言う事である。普段から酒場で荒くれ同然の男達を相手に働いている以上、人を見る目は非凡であると言ってよかった。
「カーン、マークスさんは短気でよく怒るけど、いい人だよ。両親のいない私達の面倒も見てくれるし」
「……そうか、分かった」
カーンもまたマークスに向き直り、互いに視線を通わせた。いい目をしている、どちらが言ったか定かではないが、それでも気まずい空気は晴れていた。
「ところでシルビア、どのくらい入院だって?」
「先生は一旬って言ってたね。それから半月は安静にして、落ち着いたら抜糸だって」
シルビアは少なくとも三旬、実質一月近くの安静を余儀なくされた。カーンの薬による応急処置がなかったら、もう半月は伸びていた可能性さえある。エリックは元気なシルビアの姿を見て、いくらか落ち着いたようだった。
「さて、皆揃った事だし、ウチの店でお昼にしましょうか。そこの二人、何か食べれないものある?」
「大丈夫、好き嫌いも体質上の不都合もない」
「私も大丈夫だ」
ウィノアが手を叩き、喜色を浮かべる。鎧の中身がないはずのサイクスが物を食べるのか、という疑問はさて置かれた。
「助かるわ。昨日はパスタだったし、今日はピッツァにしましょう」
「えっ、あたし今から退院する」
「あんたにはまた作ってあげるから」
母の自慢のピッツァと聞いて、シルビアが黙っているはずがなかった。が、額を小突かれてベッドに戻されると、口を尖らせながらも渋々従った。
「あんたは食事の前に体を洗った方がいいわね。服は息子が残していった物があるから、それ着ておきなさい」
「済まない、助かる」
マークスの店に戻ってきた頃、時計は十三の刻限を少し回ったほどだった。この時間帯、多くの商店や農場では昼寝をする者が多い。昼下がりに二刻ほど休み、夕方から宵口までの活力にするのだ。村内の巡回バスも、乗り遅れていたら次は十六の刻限になっていた。
「ちょっとあんた、あの人にお湯の出し方を教えてきて頂戴」
「あぁ、そうだったな」
「ついでに、リュークスの服から適当に見繕っておいて」
カーンが風呂場に行ってから、思い出したようにウィノアはマークスを向かわせた。若い頃から荒くれ者の気があるマークスも、妻には頭が上がらなかった。
「きっと、お兄ちゃんもシルビアさんに、あんな風に使われるんだろうね」
「そうなのかな」
悪戯っぽく微笑むリンダに、エリックはきょとんとした顔で応じた。それから間もなくして、風呂場から二人の男のありがたくない悲鳴が聞こえてきた。何が起きたのかを察して神妙な顔つきになる兄妹を尻目に、ウィノアは鼻歌交じりで生地をこねていた。
「まぁ、あんたまで着替えてくる事は予想出来てたわ」
「すまん、俺がミスしたんだ……」
シャワーの出力と湯への温度調節をしくじって、マークスが入って来た瞬間に風呂場じゅうに水や熱湯を噴射した事で、カーンどころかマークスまで着替えざるを得なくなったのだ。心底申し訳なさそうにするカーンと、ウィノアの半笑いに憮然とするマークスが対照的であった。
「さて、焼きたてのピッツァだよ、リンダちゃん、切り分けお願いね」
「任せて。私の得意分野よ」
綺麗に円を描いたピッツァからは、トマトソースとチーズ、香草が織り成す芳しい煙が立ち昇っていた。目と鼻で食欲をそそられる温かなピッツァは、カーンにとっては懐かしいもの以外の何物でもなかった。全てが変わってしまったあの日から、彼らの食事には彩りも香りもほとんどなく、ひたすら飢えをしのぎ栄養を補給する作業と化していた。
「うん、いい香りだ。この赤いソースは何かの実を使ったのですかな?」
「あんたはトマトを見た事がないのかい」
「トマト……えぇ、私の時代にはありませんでした」
サイクスは初めて見る食材に興味を示していた。キュリール王国にトマトがもたらされたのは、大陸暦七五〇年頃とされている。
改めて、サイクスとカーンがそれぞれ過去と未来から来たという事への信憑性が深まっていった。
大陸暦における時間の数え方
一旬は七日であり、新月日、初旬、上旬、満月日、中旬、下旬の三十日で一月、十二月で一年となる。閏年などはなく、一年は三六〇日である。
一旬は判の日、戦の日、智の日、豊の日、狩の日、芸の日、安息日に分かれており、芸の日の半日と安息日には休むべきとされている。
一日は二十四刻で、一刻は六十節、一節は六十拍に分けられるが、刻単位の方が使いやすいのか、あまり節や拍は用いられない。




