第Ⅰ章2 『鎌使いの少女』
休日出社して仕事に勤しみ、息抜きの仮眠から目覚めた俺は見知らぬ世界に居た。
着ていたスーツは結婚指輪ともども消えており、若返った身体には当時の私服と見知らぬ赤い指輪が填められていた。
此処は何処だという俺の問いに対し、脳に直接情報を刻まれるように現在地を認識させられた。
焼失した村の先には全身燃え盛った巨躯の獅子が、青を纏った剣士と戦闘を繰り広げていた。
……わかってる。
周りの焼け崩れた家屋は映画のセットではないし、犯罪に巻き込まれたわけでもなければ、一般人にドッキリを仕掛ける番組の収録でもない。
鏡で確認したわけではないが身体は確実に若返っているし、服装に関しても中学生の頃に着ていた覚えがある。
巨大な火の猛獣もCGではないし、剣を振るっていた銀髪の少年もコスプレイヤーではない。
そもそも此処は既に地球ではない。これは娯楽で嗜んだことのある、いわゆる異世界転移というやつだ。
…………わかってる。このまま火球に焼き尽くされ絶命することも含め、本当は全てわかっている。
ただ……ただ、理解はできていても受け入れることは到底できない。
これは現実であっても現実ではない。俺の中の現実にこんなものは存在しない。こんなものは……俺の世界じゃない。
――――俺は、現実を、この世界を否定した。
あれ程の火球に飲み込まれたにも関わらず、不思議と熱さは感じない。
それどころか、無意識に突き出していた左手へと火球がみるみる収縮されていき、やがて跡形もなく消え失せていた。
「魔獣の攻撃魔法を……搔き消した……?」
俺の後ろで倒れていた少年は、立ち上がりながら驚嘆の声を上げる。
誰よりも驚いていたのは俺自身だ。これは異世界モノのお約束、チート能力というやつだろうか。現在地を認識できたのもそのためかもしれない。
計らずも生き延びた喜びと安堵で、若干舞い上がり気味だった俺は、大気を震わす咆哮で危機感を取り戻す。
恐らくこの異世界では剣士と呼ぶのが相応しいであろう少年が『魔獣』と呼称した猛る獅子は、「なぜ効かん!」と言わんばかりに吠え立てる。前足の鉤爪を何度も地面に突き立てる動作は怒りを露わにしているとともに、今にも飛びつかんとしているようにも見える。
「君も僕と同じ水属性? それとも……風かな?」
少年は体勢を立て直しつつ剣を構え、一緒にゲームでも遊んでいるかのような質問を投げかけてきた。
先程この少年が攻撃魔法と言っていたように、この世界には魔法が存在しており、恐らくその魔法の属性を問われているのだろう。
この異世界に降り立ったことで、俺も魔法が使えるようになっているのだろうか。仮にそうだったとしても、自分の魔法の属性なんて分からない。俺は言い淀んでいた。
「どちらにしても、魔獣の魔力を無効化するなんてとても心強いよ! 僕には魔法の才能がなくてね……使い慣れたこの剣に魔力を込めることくらいしかできないんだ」
中性的な整った顔立ちに全身の線の細さも相まって、恥ずかしさで照れ笑いをするその姿はまるで少女のようだった。……いや、本当に少女だったら申し訳ない。
「……来る!」
柔らかい表情から一転、凛々しい顔立ちで少年は剣の柄を握る手に力を込める。
魔獣は一瞬にしてこちらとの距離を詰めてきていた。その鉤爪が再び俺たちに向けて振りかぶられた……その時。
――――《トップノート!》
魔獣の鉤爪は、腕ごと何かに弾かれる。黄色く小さな球? がぶつかったように見えたが、速すぎて確信が持てない。
――――《ミドルノート!》
今度は見えた。魔獣目掛けて飛来したそれは、可視化された風の塊のようであり、今しがたのものより大きく、そして速度は多少緩めになっている。
一瞬にして詰めた俺たちとの距離を、自ら再び離さんと遠く飛び退く魔獣。しかし、そんな魔獣を嘲笑うかのように風球は即座に進路を修正し、その身を以って魔獣に痛手を与える。
苦痛と怒りが入り混じった魔獣の咆哮に重ね、三度、少女と思わしき声が木霊する。
――――《ラストノート!》
二発目とは桁違いの巨大な風球が、地面を滑り魔獣へと突進する。暴風を巻き起こすその威力たるや、魔獣に少し同情してしまう程だ。
「他国領地の貧民街で人助けって……レイン、あんたはどんだけお人好しなの。まともに魔法も使えなくて弱いくせに」
大鎌の柄に足を揃えて上品に座った少女は愚痴をこぼしつつ、まるで箒に乗った魔女のように滑空し颯爽と現れる。少年が羽織っている外套と同色であるロイヤルブルーと黒を基調とし、金の装飾が随所に施されたバトルドレスを靡かせながら、黒のニーハイブーツを地に着ける。バトルドレスの装飾に負けず劣らずの黄金色の髪は三つ編みで両肩の前に下げられており、青いダリアの髪飾りがあしらわれている。少女の翠眼は、同い年くらいであろう少年を真っ直ぐに捉えていた。
その姿を見て、『レイン』と呼ばれた少年は申し訳なさそうに項垂れる。反論の余地は毛頭ないといった感じだ。
「いつもごめん、リノア。助かったよ」
不満を露わにしている少女『リノア』は、その可憐な見た目とは不釣り合いな禍々しい大鎌の柄の先を地面に突き刺しながら、俺を一瞥する。
「……で、こいつは何者なの? どう見ても貧民街の住人には見えないけど?」
「彼は凄いんだ! さっきの魔獣の火球を、片手を翳しただけで消滅させたんだよ!」
レインはその碧眼を輝かせながら、出会ってまだ間もない俺のことを自慢げに語ってくれた。
それに対し、リノアは明らかに俺を訝しむ。
「ふーん……、あんた属性は? 風? 水? それとも防御系統の火とか? ていうか、そもそも『魔具』は?」
たじろぐ俺を意にも介さず、質問攻めをしながら詰め寄るリノア。
「……あ、これがあんたの魔具か。指輪型とは珍しいわね。あんた出身は? どこで魔法の腕を磨いたの?」
――――それは直感だった。または第六感とも言うべきなのか。
リノアの放った魔法により辺り一面に舞っていた砂埃に影が映ったその瞬間、俺の左人差し指に填められていた赤い指輪をまじまじと見つめるリノアの肩を、俺は咄嗟に突き飛ばしていた。
危険を感じ取ったわけではない。一片の思考もなく身体が勝手に動いていた。
「ちょっ、なにすん……!」
リノアの声はそこで途切れた。リノアが黙ったわけじゃない。俺の方が聞こえなくなったのだ。
燃え盛る魔獣の幾重にも及ぶ牙にその身を貫かれながら、閉ざされていく口の中で、俺の視覚と聴覚もまた閉ざされていった。