case MAYUKI
西暦2160年。
この国では、特化型教育と呼ばれる新しい教育プログラムが推進され、 主流となっていた。
特化型教育とは、遺伝子情報から個人の適性と得意領域を明確にし、 その得意領域を特化して高めていく教育方法である。
時の政府は、特化型教育を受ける為に 小学校入学と同時に得意領域を調査する為のDNA検査を行うことを義務付けた。
まさに適材適所。 人口減少に伴う労働力の不足などを補うための、 効率的な教育方法は、子供の将来に対する不安を軽減させるだけではなく、 その子供の個性の確立と活用に大きく貢献を果たした。
――一方で、特性を重視した教育は【ロスト】と呼ばれる存在を生み出してしまった。
ロストとは、特化型教育を受ける為に必要な得意領域を持たない人間のことである。
特化して磨いていくべき分野がない。将来が不明瞭で不安定な存在。
彼らは、得意領域を持つ者たちを補佐する立場として存在を許され、 下級職に就くことを強いられた。 また、得意領域を持つ者の中には、更にランクを持つものがいる。
より専門的な分野の領域に特化した者たちには、「ランク」が与えられ、 その中でも「ランクS」は政府によって丁重に保護、管理された。 「ランクS」を持つ者は、その特権として、成人を迎えると共に 【ロスト】を自らのリザーブとして所有することができる。
彼らにとって【ロスト】とは、いざというときに自らの身代わりとして消費できる存在。
平等であるはずの命には、しかしながら優劣が存在していた。
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幼い頃、母によく言われていた言葉がある。
「繭生、あなたは自由に生きなさい。何ものにも囚われることなく、自由に」
当時はその言葉の意味を正しく理解することはできなかったが、今ならばわかる。
母が願っていたことは、この世界で生きていく上で何よりも難しいことだったのだと。
夏原繭生は、ゆっくりと目を開けた。
何時の間に眠ってしまっていたのだろうか。寝起きのぼんやりとした頭でそんな事を考えながら、左右を見回す。ここは自分の部屋だ。どうやらデスクで作業をしながら居眠りをしてしまったらしい。
繭生は長い溜息を吐きながらゆっくり起き上ると、ふと窓を見た。
窓の外には、脊の高いビルが広がっている。時折、ビルに映るホログラムの広告が、「得意領域を活かして、健康で効率的な毎日を」と謳っていた。
ここは、繭生がよく知っている世界だ。
2000年も50年を超えた頃からだろうか。
その頃からDNAの研究は飛躍的に進み、今や、自分の食の好みから将来就くべき職業、得意不得意、疾患まで分かってしまうようになった。
そして、その便利なデータに最初に目を付けたのは、政府だった。
人口の減少が止まらないこの国では、労働力の減少という問題が起こっていた。
いくら機械化したところで、人が行うべき作業というものはどうしても発生してしまう。しかし当時はまだ、職業選択の自由と言う権利があったという。
当時の人たちは、自分で希望する職を探し、企業によって一定のふるいにかけられ、ようやくその職に就いていた。故に、そのわずかな労働力は職種によって偏りができてしまっていた。また、職につけない若者や就職ができるか不安視してしまい心を病む若者も存在していたらしい。
そこで政府は個人の適性を重視し、得意領域を特化して磨いていく教育方法を打ち出した。
特化型教育。
個人の得意領域をDNAで可視化し、その領域に特化した教育を施すことによって、労働力の分散と若者の不安軽減に貢献するという教育方法だ。
打ち出された当初は夢のような世界だと皆が言っていたが、繭生にとっては、何でもかんでもDNAという遺伝子情報で決めつけられてしまう、反吐が出るような世界だった。
「ランクS」だから、と言う理由で「管理」という名目で自由を奪われ、窮屈な鳥かごの中で生きることしかできない、鬱屈した世界。
「……窮屈で仕方ねぇよ」
その辺にあった書類を、思い切り部屋にばら撒いてみる。
ひらひらと舞う紙を眺めながらも、空しさが増すだけだ。
夏原繭生にとって、退屈は死にも等しいものだ。
「……で、どういうことか一から説明しろ、凛」
繭生は、家を訪ねてきた幼馴染にそう告げると、ぎろりと睨んだ。
「まぁ、そう怒ることじゃないよ、繭生」
繭生の視線の先にいる人物は、彼の幼馴染であり、リザーブでもある、北條凛という男だ。
凛がこうして食材の入ったビニール袋を提げて、繭生の住む家を訪れるのは割と頻繁なことなのだが、今回は少し様子が違った。
しかし、当の凛はいつもと変わらない様子で繭生に笑いかける。
「まだお昼だから起きているか心配だったけど、ちゃんと起きてたね。えらいえらい」
「……早速、話が通じてねぇなぁ、この野郎」
繭生は、視線をビニール袋から凛に移し、その考えを読もうとじっと見つめる。
色素の薄い柔らかそうな茶色の髪と、人好きしそうな穏やかな笑み。
繭生は、男の顔の良し悪しに興味は無いが、きっと凛は世間的には良しの部類に入るだろう。
それは凛の身なりからもなんとなくわかる。
ロストである北條凛は、ロスト犯罪を専門的に扱う部署に勤めている立派な刑事だ。
低級職に就くことが多いロストの中でも特殊で、彼がそこそこ優秀であることがうかがえる。
しかし、凛のすごいところはそれだけではない。彼は、そんな忙しい仕事に就いているにも関わらず、いつも皺のないスーツを纏っている。穏やかだが隙がないというのだろうか。とにかく、凛が繭生と違い、細やかなところまで気の配れる男なのだ。
だからこそ、そんな男が意味もないことをするはずがない。
目の前でにこにこと笑みを浮かべ、一向に本題に入らない男に苛立ち、とうとう繭生から問いかけた。
「……そろそろ話せよ、凛。今日はやけに荷物が多いじゃねぇか」
繭生があごで示す先には、真っ黒な髪を二つに結った少女がいた。
一気にぴんと張り詰めた空気に、少女は小さく後ずさりをする。
……小学生くらいだろうか。少女は目を伏せて、隣にいる凛のスーツをぎゅっと握った。
「まずは、はじめまして、だろ。ごめんね、結ちゃん」
そう言って、凛が少女の頭を撫でる。
「彼女についての詳細は先週渡した書類に書いてあったと思うけど?」
「あ?」
凛の返答が気に食わない繭生は、一応、頭を巡らし、先週渡された書類について思い出す。
そういえば、数時間前に部屋にばら撒いた書類の中に、そんなものがあったような。
確か……少女の名前は、花岡結。
9歳のロストの少女だ。
少女について、他に覚えていることといえば。
「…確か養護施設から抜け出す癖のあるガキだったか」
「繭生」
たしなめるような凛の声に舌打ちをする。
「事実だろ」
繭生は、目の前の小さな丸っこい頭を見降ろす。結は、繭生のことを見ようともせず、凛のスーツを掴んだままだ。
「……まぁ、色々あってね。しばらく僕が彼女の面倒をみることになったんだ」
「どんなことがあったら、そうなるんだよ」
「そのうち話すよ」
凛はそう言うと、ここからが本題なんだけど……と話を続けた。
「面倒をみることになったとはいえ、僕は刑事だし、急に呼び出されることもある。その間、結ちゃんを一人にしておくのは気が引けるだろ?」
そこまで聞くと、繭生にもようやく話の流れが読めてきた。
「…俺は面倒なんかみねぇぞ」
「大丈夫。一緒にいてくれるだけでいいから」
繭生はずっと家にいるでしょ?と小首を傾げる凛にちょっとした殺意が湧く。
しかし、凛は繭生の厳しい視線など気にも留めずに話を続ける。
「このご時世、ロストってだけで差別する人たちもいるし、良からぬことを考える輩もいる。まして、結ちゃんはまだ幼い女の子だ。お世話をすることになったからには安心安全な生活空間を提供したい。繭生は幸いにもランクSを持ってる領域保持者だし、その居住区画は政府によって厳重に管理されてる。これ以上、安全な場所はこの国にはないだろ?」
それにここにいれば、繭生と結ちゃんの世話を一遍に見られるしね、と笑う凛は、一切譲る気のない笑顔を見せた。
繭生は長いため息を吐く。こういう場合は、第三者の意見を取り入れる方がいいだろう。
ひとまず、腕に付いている端末を口元に近づけて、おいと声をかけた。
「…アンタは許可したのか」
すると、繭生の声に反応するようにザッとノイズのような音が響いたあと、端末の向こうで感情の読めない男の声がした。
「政府はこの件について、特に関心を持っていません」
どうやら繭生を保護している政府は、この件については無関心を貫いているらしい。
「秋人さん、お疲れ様」
そう言って凛が繭生越しに端末に話しかけるが、端末の向こうの相手はそれを黙殺する。
凛と繭生の行動に興味を持ったのだろうか。
床ばかり見ていた結がふいに顔を上げると、少しだけ背伸びをして繭生の端末を覗きこもとする。
「……これ、気になる?」
その様子に気が付いた凛は、くすっと笑うと結に声をかけた。
こくんと控え目に頷いた結は、凛と端末を交互に見たあと、小さく呟く。
「……しゃべった」
「うん。この端末はね、ランクSである繭生を守るためのものなんだ。通信相手は柊秋人さんっていう監察員なんだけど、繭生を危険なものから守ったり、困ったときや何かお願いがあるときに一声かけるだけで何でもしてくれるんだよ」
「要は、見張りだ」
繭生の声に、結が小さく身体を震わせた。
それを気にせず、繭生は凛の説明を捕捉するように話し出す。
「監察員ってのは、俺がいつどこで誰といて、どんなことを話していたか、詳細を記録して報告する奴らのことだ。ランクSは政府にとって守るべき人間ってだけじゃねぇ。敵に回ったら困る人間なんだよ。だから、保護と言う名目で管理する。ある程度の生活が保障されてるのも、ある程度の我儘が通るのも、その代償みたいなもんだ。この端末はランクSしか持ってねぇ、要は首輪みてぇなもんだよ」
「繭生」
たしなめるような凛の声に、ふいっと顔を背ける。
凛は軽くため息を吐くと、結の頭を優しく撫でた。
「まぁ、とりあえず、わからないことは僕か繭生に何でも聞いてね。これから一緒にいることになるんだし、遠慮は駄目だよ?」
「おい、凛!」
勝手に話をまとめるな、と抗議しようとすると繭生の口の中に飴玉が放り込まれた。
「……っ!」
「繭生、今日はまだ食事をしてないだろ? 顔色が良くない。取りあえず血糖値を上げようね。せっかく可愛らしい同居人さんが来てくれたんだから」
隣の結にも飴を渡すと、結は恐る恐る受けとり、もごもごと食べ始める。
「結ちゃん、おいしい?」
こくりと頷く結を見た後、凛は時計に視線を落とした。
「……さてと僕、そろそろ行かなくちゃ。繭生、また帰りに寄るから。結ちゃんのことを宜しくね」
「よろしくって……おい!」
「あ、そのビニール袋の中に繭生のお昼ご飯が入ってるから。ちゃんと食べてね。一応、結ちゃんが好きそうなものもあるから、ちゃんと面倒見てあげて」
「聞けこら!」
繭生にビニール袋を押し付け、急ぎ足で去っていく凛の脊中にそう投げかける。しかし、にこりとした笑顔を返されただけだった。しばらくして、ぱたんと扉が閉まる音がした。
……どうすりゃいいんだ。
繭生は元来、そこまで焦ることも困惑することもない。しかし、今回ばかりは話が別だ。
目の前の少女に対して、果たしてどんな言葉をかければ良いかまるで見当がつかない。
微妙な静けさに包まれる室内で、繭生は懸命に頭を巡らせた。
「……おい」
とりあえず声をかけてみるが、少女は自分のスカートをぎゅっと握ったままこちらを見ようとはしない。その反応に苛立ちながら、もう一度、おい、と声をかけるが、やはり反応はない。
繭生は、あー、うーと散々唸った後、ひとまず少女と視線を合わせるためにしゃがんでみることにした。一か八かではあるが、似たような状況にいたとしたら、凛ならばこうするだろう。そして、視線をうろうろさせたままの少女を呼ぶ。
「……おい」
すると、ようやく黒目がちな大きな瞳とかち合った。
瞬きをするたびにふわりと動くまつ毛、ビー玉のようにまんまるな目、幼さを感じさせるような頬の色……
「……とりあえず、ソファに座れよ」
「……うん」
小さな声だが、ようやく聞こえた返事に、繭生は肩で息をした。
結をリビングのソファに座らせた後、繭生は、自分の部屋から書類を引っ張り出し、少女と交互に見比べた。
結が、母親からネグレクトを受けて養護施設に入ったのは約3年前。
それだけの情報で大凡の流れを把握した。恐らく結は、6歳の領域検査のときにロストであることが分かり、親から見捨てられたのだろう。得意領域を持たない子供の育児を放棄する親は多い。それだけじゃない。子供の未来を悲観して手にかける親もいる。
繭生はため息を吐くと、書類をテーブルに投げた。
得意領域不保持の人間。社会的な地位が低い、ロスト。
「……いっそ生まれて来なきゃ良かっただろうに」
無意識に漏れた繭生の呟きに、結がびくりと身体を震わせた。
この国のロストの扱いは酷いものだ。勿論、不当なリザーブ契約や売買、暴力、殺人行為など基本的なことは禁止されている。しかし、ロストという理由だけで制限されていることも多い。例えば、得意領域保持者とロストの婚姻は禁止されているし、両親がロストで子供が領域保持者であった場合、両親は子供を手放さなくてはならない。
そもそも、リザーブなどという制度そのものが、彼らの命を軽んじている最たるものだろう。繭生と同じ「ランクS」の者の中には、遊びのように軽率にリザーブを「消費」している者もいるのだから。
勿論、そんな政府や法律に反旗を翻し人権を主張しているロストたちもいる。しかし、
そんな彼らは、世間から見ればただのテロリスト集団という認識をされてしまっている。
どうやら、一度決まった法律や概念というものは、そう簡単には変わらないらしい。
「腹は?」
「…………」
「喉は……」
「…………」
繭生は居心地の悪さに、思わず自分の喉元を押さえた。昔から、ストレスを感じると気管支がきゅっと狭くなるような錯覚に陥って、上手く息が吸えなくなるのだ。
繭生は凛以外のロストと交流を持ったことがない。相手にしたこともない。
本当に凛は何を考えているのだろうか。繭生にとって今の状況は、物凄く率直に言うとストレスでしかないというのに。
「後は好きにしていい。俺はあっちの部屋にいる」
結局、そう言い残して逃げるようにリビングを出た。
ぱたんとドアを閉めると、喉元を押さえていた手を放し、深く息を吐く。
結がいることを忘れたい一心でパソコンを操作し出すと、不思議と呼吸が楽になった気がした。
繭生にとって、ここだけが息が出来る場所なのだ。
パソコンと向き合っていた繭生だったが、しばらくするとさすがに小腹が減ってきた。
面倒だと思いつつもリビングに戻ると、結は来た時と同じようにソファに座っていた。
すっかり日が傾き、真っ赤な夕日が差しこむリビングで、彼女はただ窓をじっと見つめている。
もしかして、今までずっとそのままでいたのだろうか。
「好きにしてろっつったろ」
「……血の色」
「は?」
結の口から紡がれた言葉には、何も感情が乗っていない。恐らく、ただ思ったことがそのまま零れてしまっただけなのだろうが、子供が口にするには少々物騒な言葉だ。
「血の色って……こういうのは茜色っつうんだよ」
「あかねいろ」
「それより、お前、腹は?」
結は繭生の言葉など耳に入らないようで、何度も「あかねいろ」と呟いては首を傾げ、また窓の外の夕日を見つめる。
意思の疎通が取れない事に苛立ちつつも、繭生は冷蔵庫からゼリー飲料を取り出して、結に渡す。
「とりあえず食っとけ」
「……?」
結は、両手で受け取るが、それ自体が何なのかイマイチ分かっていないようだった。
繭生はため息を吐く。
カチッと音を立てて開封し、口にくわえて吸ってみせる。
百聞は一見に如かず、というやつだ。
「こうやって食うんだよ。ただの食い物」
結は、繭生にならってゼリー飲料を開けようとするが、なかなか上手くいかない。
どうやら少女の力では難しいようだ。
仕方なく開けてやると、結は両手で持って恐る恐る口に含んだ。
そしてゆっくり飲み込んだ後、驚いたように目を見開いた。
彼女の頬がほんのりと赤らむ。
それを見て、繭生は少しだけいい気分になった。
「美味いだろ」
「……あまい」
「甘いじゃねぇ、美味いだ」
「……うまい」
「……うまい、じゃないから。教えるならもっとまともなことにしてくれないかな」
突然聞こえた第三者の声に思わず入口を見ると、そこには呆れた顔をした凛がいた。
仕事がようやく終わったのだろうか、少し疲れた顔をしてはいるものの、食品を買ってくる余裕はあったようだ。
その両手には食品がぎっしりと詰まったビニール袋がぶら下げられていた。
「凛。お前、昼間も何か買ってきてただろ。太らせる気かよ」
「昼間のあれは繭生のお昼ご飯だってば。中身を見てないってことは食べなかったの?」
そう言えば、出かけていく凛に手渡された後、冷蔵庫の前に適当に置いたままだ。
繭生の表情から、お昼ご飯の行方を読み取ったのか、凛は自分の額に手を当てた。
「いつになったらちゃんとご飯を食べるっていう習慣が身につくのかなぁ。とにかく、夕ご飯の材料を買ってきて良かった。一日一食は守ってもらうからね」
凛はそう言うと、ビニール袋を床に置いて結に近づき、笑顔でゼリー飲料を取り上げた。
「結ちゃん、それはご飯じゃないよ?」
「ごはん、じゃない?」
「そう。これから料理を作るから、もう少しだけ待っててくれるかな」
ぽかんとしたまま頷く結の頭を撫でた凛は、さてと、とワイシャツの腕を捲る。
「今日のメインはじっくり煮込んだデミグラスオムライス。添え物はミニエビフライと温野菜のサラダ。スープはセロリとレモンのさっぱり鶏ガラスープかな」
凛の考案したメニューに、繭生がすかさず注文を足す。
「オムライスはライド。スープはセロリ抜きで」
キッチンに立った凛は慣れた手つきでエプロンをすると、結に声をかけた。
「セロリ、一つは食べてもらうからね。結ちゃんは何か苦手なものはある?」
凛の問いに、結はこてんと首を傾げた後、ふるふると小さく首を振った。
「……結ちゃんを見習った方がいいよ、繭生」
「うるせぇよ」
三人で囲む食卓、というのは、何とも言い難い複雑なものだ。
元々、繭生は誰かと食事をするのが嫌いだ。
相手の食べるスピードが気になってしまって食事に集中できないし、何より、人と一緒にいるというのが耐えられない。それが
勿論、凛と食事をすることもあるが、凛は繭生の食べるスピードに合わせてくれるから、そこまで負担にはならない。それが凛の気遣いであることは理解していたが、繭生にとっては当然のようなものだった。
しかし、今回は話が違う。
「おい、凛」
「まさか繭生、部屋で食べるなんて言わないよね。せっかくテーブルに並べたんだし」
先手を打たれてしまった。こうなってはどうにもならないので、凛に視線で促されるまま渋々と椅子に座る。
テーブルの上に綺麗に並んでいる夕食は、見るからに美味しそうだ。先程までそんなに空腹を感じていなかった繭生も不思議と食欲を誘われる。フォークを手にとって、オムライスの真ん中にそっと切り込みを入れると、卵がふわりとチキンライスの上に広がった。
「…ふわふわ」
一瞬、自分の心の声が漏れてしまったのかと思い、繭生は思わず口元に手を当てる。
しかし、声の主は目の前で不思議そうにオムライスをつついている子供だった。
「結ちゃん、おいしい?」
「……ん」
どうやら、結は何かを気に入ると頬が赤らむ癖があるようだ。
もごもごと口を動かしながら、赤い頬いっぱいにオムライスを含んでいる。
ちまちまと食べる繭生とは大違いだ。
ふと、結の頬に手を伸ばした凛が、その柔らかそうな頬についた米粒を掬って自分の口に運ぶ。
それを見ていた繭生は思わずため息を吐いた。
「……そういうこと、よくできるよなお前」
「え?」
「何でもねぇよ」
「繭生もしてほしい?」
「寝言は寝て言え」
「嘘だよ。ところで、繭生、オムライスの味はどう?」
「普通」
「そっか」
美味い、などと言ってやるつもりはない。
しかし、そんな繭生の心を見抜いているのか、凛は満足げな笑みを浮かべている。
その笑みから逃げるように目の前の食時に視線を落とした。
ほわほわと湯気を立てているスープには、セロリが一欠けらだけ浮いていた。
夕食がすむと、皿洗いを終えた凛は、また出かける準備を始めた。
どうやら警察は忙しいらしい。
「…最近、ロストの犯罪件数が増えてるんだ」
「犯罪が多いのはいつものことだろ」
「それもまぁ、そうなんだけど。悪質なブローカーはなかなか捕まらないし、レジスタンスと警察は街中で堂々と衝突するし、本当、困ったなぁ」
少しだけ荒っぽく髪を掻きあげた凛が、珍しく小さな舌打ちをする。
これは相当参っているようだ。
「凛お兄ちゃん、困ってるの?」
「…ちょっとだけね。自由な人たちが多くて」
凛の言う悪質なブローカーとは、ロストを攫っては違法に売買している奴らのことだろう。
最近、行方不明のロストが増えているというニュースは、繭生もよく知っていた。ある者は腕や内臓を失った状態で発見され、また、ある者はリザーブとして明らかに違法な人身売買の被害者となった。警察は組織的な犯行だと踏んでいるらしいが、まだその尻尾は掴めていないらしい。
「……そういや、凛。なんで最近、レジスタンスの奴らが活発になってるんだ? 前までは警察と正面切って争うほどの威勢も実力もなかっただろ」
「ああ。今までのレジスタンスは、ただの少人数のテロリスト集団という認識だった。だけど困ったことに、人を率いるのが上手い奴が現れたんだよ。その彼の語る理念に心酔したロストたちが徐々に集まってきているんだ」
「なんだそれ。しっかりしろよ、警察だろ」
「耳が痛いな…」
昼と同じように凛を見送ってから、繭生も自分の部屋に戻る。
結は、ただじっと玄関の扉を見つめていた。