第十九話「アルフ」
年若き少年少女が鏡の迷宮に囚われていたなか、手持ち無沙汰になっているものがいた。
麗しき赤毛の男、アルフである。
二人の消失は、彼からすれば、迷路を何巡かしたところでいきなりぱっと消えたように感じた。
いやでも最悪の記憶が蘇る。
「やれやれ。参ったな。迷子はニガテなんだぜ、オレ」
ただひとり取り残され、アルフは苦笑とともに肩をすくめる。
二、三度名前を呼んでもこだまひとつ返らないのを確かめ、構えた拳銃の弾を検めた。
「子どもの時分からみてきたお嬢はともかく。イデくんにもこうも情がわくとはねえ」
いたらいたらで気をもむが、二人揃うととたんにかしましい。そんな若者たちがいなくなると、急に寂しくなってくる。
だったらお約束通り、迎えに行ってやらねばならない。
アルフはためらいなく鏡を拳銃で撃った。
しかし、予想したような激しい反応は返ってこなかった。
慣れた手つきで放たれたはずの弾丸は、言い難い感触をもって鏡面の向こうへ吸い込まれた。
あえて擬音で表現すればぬらり、と。
非常識なシーンにアルフの頬がひきつる。
「何度遭遇してもヤなもんだねえ。んん、出ようにも鏡がダメとなると」
そういって次に、目印に使っていた女神像をみあげる。
融けた骨の如き官能的な艶をもつ像は泰然とそこにある。
精巧に削られた夢見るようなまぶたのしたには深い眼窩が仕込まれていた。
人間そっくりに、そこには宝石でかたどった眼球がはめこまれている。ぱっと観察したところ、赤の瑪瑙である。
ミステリアスにたゆたう縞模様が瞳孔の如く、来訪者達を見守る女主人といったところか。
鏡しかない空間における異物だ。
あらかさまに怪しすぎて、かえって触れなかった。それも先ほどまでの話だ。保護するべき子ども達のいない今なら、平気で手を出せる。
アルフは乱暴に足で女神像を押し倒した。
女神像はけたたましく床にたたきつけられる。白い肌にヒビは入らなかった。
「位置が問題じゃあないのか。これでどうにもならなかったら、困るぞ」
リズミカルに軽口と銃弾を撃ち込む。そこまでしてようやく女神像は壊れた。
女神像の中心から不自然な暴風が沸き起こり、アルフの赤毛を巻き上げる。
ネヴか魔術師の素養をもつものがいれば、風は魔力の暴発が自然現象として現出したものだとわかっただろう。
目当ては正解だった。この女神像こそ、鏡の部屋を迷宮たらしめていた道具だったのだ。
そこに込められていた精神波をまとも受け止めるのは、普通であれば自殺行為に近い。毒沼をあたまから直接浴びたようなものだ。
それをアルフは涼しい顔でやり過ごした。女神像の残骸を足で転がす。
「さて。これで外に出られるだろう。あの子達はどこにいったのかな?」
何故アルフが平気でいられるのか。
これはアルフのもつ異能の効果、そのひとつである。
アルフはANFAに属する獣憑きでは、特異なほうの異能者だ。
変わり者ばかりの獣憑きでとくべつどこが違うかといえば、その被害性の低さにある。
強い感情がキーになる条件上、アグレッシブな異能が多い獣憑きのなかにあって、アルフの異能は「自分自身のみ」に効果を発揮する。
それも【怪力】や【呪い】のような劇的な影響を与えられるものもなく。
異常者そろい踏みの獣憑きのなかであって、アルフの異能は極めておとなしい。
それもそのはず。
彼の異能は落ち着きそのもの。
騒がず、慌てず、変わらない。
【不変】。世界中が変わり果てても変われない、強固なアイデンティティ。アルフの異能は歳をとらない。これ以上なくシンプルだ。
不変に至った原因はわかっている。
アルフが生まれたのはまだ災禍がバラール国を孤立させる前か後―――とにかく昔の出来事だった。当時はとにかく世間全般が大荒れだった。
日増しに息苦しくなる世間の空気。人種の違いから起こる忌避感と差別。暴力沙汰が日常茶飯事になるのにそう時間はかからなかった。
当時、まだ子どもだったアルフも例外ではなかった。
生まれ育った家は海の向こうで帰れない。幸い、両親とも異国人同士で多様な言語に親しんでいたおかげで意思疎通には困らなかったが、いつく場所がなかった。
やがて両親は病にかかって早死にし、アルフはひとりで生きていくことになった。
政府の自治が機能しない地区では自警団的行動が活発になり、アルフは言語が通じない異邦人同士の潤滑剤として取り込まれた。
蒸気機関が急速に発達したのもその頃だ。
増加した人口と閉塞した環境の最大の原因は、とにかく物資の不足だ。
不安のガス抜きとなる娯楽の不足も深刻だった。
それらを補うために、魔術師達は禁じ手の封も解いて暗躍し、国が豊かになるなら無茶な開発もなりふり構わない有様だった。
短期間で問題を解決する必要性を迫られた。
魔術師達の存在を隠すカバーストーリーが必要で、たまさか蒸気技術の天才も現れてしまった。
ちからづくの機関革命がもたらしたのは、一時の収束と、深刻な環境破壊。
多くの人々が助かったなか、環境汚染によって障害を起こす人々もいた。
アルフもそのひとりである。めまぐるしい日々に流されるうち、いつのまにか子どもを作れない体になっていた。
アルフは自分の血を継がせられないと知った時、とてつもない寂しさに襲われた。
ひとりとして親族のいない国で、これからもずっと一人きりだ。
生きてきた時間を受け継ぐ誰かがいないことに、代替不可能な孤独を刻み混まれた。
ネヴをつきっきりで世話したことが影響したのか、多少は歳をとったものの、本来の年来に比べれば微々たる変化である。
アルフの異能は依然としてそのままだ。
勘違いしてはならないが、不老なだけで、不死ではない。
傷の治りは人並みだ。死んだことがないとはいえ、診断では致命傷を受ければ当たり前に死ぬといわれている。
アルフは普通の人間のように技能を磨き、銃と格闘術で生き抜いてきた。
かれこれ、ANFAに勤めて五十年ほどになる。齢七十は超えただろう。
突出した才能もなく、積み重ねた時間と、たゆまぬコミュニケーション能力上達の努力がアルフの武器だ。
されどこの【不変】の異能には、もう一点オトクな特典がある。
アルフの内面に変容を強制するもの――――精神汚染の類いを一切受け付けない、という特典が。
アルフは決して幻をみない。
この鏡の迷宮では、アルフを迷いという夢を見せられない。
例外なく全ての人を迷わせるはずの空間に、アルフは何も感じ取れないまま、脱出した。