第十八話「時代遅れの救済」
母ナタリアと再会を果たしたイデは、はっと後ろを振り向く。
激しい頭痛がする。衝撃がガラスの灰皿で殴られたかのようにガツンと響く。
「今、地震が起きなかったか?」
「多分エマさんとビクトリアちゃんだわ」
「ビクトリア? あいつ、こういうことするタイプかよ」
もやがかる頭を人差し指でこづいていると、母とネヴ(の虚像)が振り返り、イデを心配そうに見やっていた。
二人は台所で並んで料理をしていた――らしい。
これもナタリアの叶わなかった理想のうちなのだろう。
そのわりに家の間取りには見覚えがある。母とイデ、そして父の三人で育った生家である。
窓はくすみのないピカピカの新品で、いくら掃いても消えない埃は綺麗さっぱり消え失せていたが。
「あのチビ、どっちかっていうとネヴ寄りの猪突猛進タイプに見えたのに」
「ふふ。ま、一生懸命な子よね」
仲睦まじく過ごしていた母が、タオルで手をふいてテーブルについた。ネヴも母の横に座る。
「この場所のことに関しては、エマさんが責任者なの。エマさんというのはビクトリアちゃんの雇い主。わたしにはさっぱりわからないんだけれど、専門的な勉強をしていて、この施設も作ったらしいわ」
「人生に詰まった奴らを集めて、一度入ったら二度と出さない施設か」
「少し誤解があるみたいね。確かにわたしたちはもうここから出られない。でもこうなる前にきちんと説明と許諾はあったのよ」
ナタリアの瞳が冷淡に細められた。彼女はもう『現実ではもう不幸だけ』と思い込んでいる。
『エマ』という人物に、ナタリアは深い信頼を覗かせる。
「いい人よ。いっつも皆のことを考えてる」
「これが『皆のため』か。オマエは幸せにはならないってつきつけるのが」
「事実だもの。現実を変えるより、わたしたちが現実から切り離されるほうがずっと簡単よ」
「それは本当に世界を、社会を変えられたはずのやつらが、俺らを見捨てたってことだろ。政治家とか金持ちとか、隣人とか。そういうやつらがよ」
――――母は、幸せにされるべき人間だったのに。
憤懣に打ち震え、奥歯をかみしめる。
本音をいえば、イデがちからある人間にのしあがって、散々煮え湯をのまされた理不尽を蹴飛ばしてやりたかったのだ。
しかし、貧しい家で威圧的な見目に生まれたイデは、無力なままで。外からの救いなんてあてにできないのに、せざるをえない。
軽蔑していた父を落ちぶれさせたものは、イデの心も折った。母の希望も、なにもかも。
イデと同じ痛みを背負う母は、慈悲深くイデの手をとった。
「頑張ったって、なんにもできないじゃない。私達は。ゴミ扱いで馬鹿にされるのがオチ。だからイーデン。あなたにもこっちに来て欲しいのよ。何もつらくないでしょう、ここは」
「……あんたが出て行った後の……あの街に居た頃の俺だったら、頷いてたかもな」
ネヴがいなければ。
あのよく笑う女に好かれなければ、イデは今も先の見えない人生に荒れていた。
血みどろの現実に、何度手痛い目にあおうが噛みつく馬鹿がいなければ。
いくつもの複雑な感情が去来する。
母に抱くのは悲しみと怒り。そして嘆きだ。
厄介なことに、ここに辿り着いたのは母が消えたおかげでもある。
母が失踪はプラスだったか、マイナスだったか。
母の顛末を知っておきながら、自分の仄暗い喜びに、『悪いことばかりでなかった』と思えてしまう。
自嘲するしかない。
「そうね。あんたには悪いことしたわ」
「なんで出てったんだよ」
「薬の実験台ってね、結構お金が出るの。治験ってやつ。あなたがすごく頑張るから、報われない結果になって欲しくなくて。奨学金がとれなくても短大くらいなら行かせてあげたかった」
「そうか」
母はどこまでも息子を助けようとしていた。
「あー。まあ、お袋もなんだかんだいい方向にいってるみてえで、よかったぜ」
皮肉がもれる。無意味な笑いで喉が鳴る。イデには予感があった。―――これはろくな仕舞いにならない。
ネヴは笑っているし、ナタリアは見たこともない安心しきった空気をまとっていた。
煙草の臭いはない。酒も。父の姿は見当たらない。
ここは安全だ。苦しみひとつない理想郷だろう。
(だが、ネヴの奴は嫌いだろうなあ。ここ)
家畜小屋とかいいそうだ。
思いっきり顔をしかめるのが想像できる。他人が入るぶんには構うまいが、自分が飼われるのはまっぴらごめん。無理矢理入らされそうになれば殺し返す。そういう人間だ。
ナタリアの隣で可愛らしく笑うネヴから目をそらす。幻想のネヴは手袋をしていなかった。
傷ひとつないまっさらで真っ白な手は、虚しいぐらい嘘くさい。
「なあ、お袋。お袋は夢の世界にいるっつってたが、それってどこで――」
意を決して呼びかけた時。
ふたたび世界を地震が襲った。