第十六話「ネヴという瞬間」
生きていることを全否定されたネヴは、完全に思考停止してしまった。
ネヴの未成熟な薄い胸に、母は包丁のつかを両手で握った。
考えるまでもなく、片手より両手のほうが力強い。
ルリエは本気だ。
「ルリエさん、やめてください!」
ドラードがバネ仕掛けの人形のようにはね、ネヴを突き飛ばす。
抵抗せずに母の刃を受け止めかけていたネヴはされるがままに砂利だらけの地面を滑った。
「ルリエさん、あなたは病んでいるんだ。あなたは苦しみに気づいた時点で、休んで、逃げるべきだった……!」
「あなたはいつでも他人になれるからそんなことがいえるのよ」
冷たく突き放すルリエに、ドラードの瞳孔が薄く開く。
「ネヴが不幸にならないなら、わたしはどうなったっていい!」
ルリエとドラードは激しくもみ合う。
男と女という生物学的な差が嘘のような拮抗とした奪い合いだった。
密着し、包丁を上へ下へと振り乱し、我が手に握ろうと相手を押した。
ドラードの小熊に似た顔立ちがくしゃりと潰れる。
猛烈に抵抗するルリエの眦が吊り上がり、やたらめたらに動き回ろうとする。切っ先がドラードの皮膚をかすめてもお構いなしだ。
「ルリエさっ……離して!」
「あっ」
指をひっかかれ、ルリエの手から包丁が離れる。
先にとろうとドラードが手を伸ばすも、ルリエも包丁を追って腕を高々とあげた。
ルリエの指先がつかのしりをなぞり、ドラードを妨害するだけ妨害して、つかみ損ねた。
包丁は先端から地面に突き刺さった。
ネヴの目の前に。
死体のごとく動かなかったネヴの眼が、ぞろりと鈍色の包丁を眺める。
母娘の瞳がかち合う。
刹那、ネヴは母の姿を観察した。汗で髪が頬にはりつき、絶望と盲信で泥のようにぬらめく眼光に射貫かれ、唇が震える。
「イヤ。イヤ。死にたくない。不幸に死んじゃうのなんかイヤ」
「ネヴ!」
母は倒れんばかりの勢いで地面に這いつくばり、包丁をとろうとしたが、ネヴのほうが早かった。
「私、生きたい。百歩譲って死ぬのまでは受け入れられる。でも諦めて、腐るのはイヤ!」
苦痛に囚われて一歩も動けない母が、あのおぞましい病院の院長親子と重なる。
こりかたまった世界にとどまって、のろのろと「終わっていく」だけの存在。
歯をかみ砕くのではと思うほどつらい思いをさせられた。
あんな人間は嫌だ。その反感と憤怒が、心折られかけたネヴを突き動かす。
「お母さんはきっと正しい! でも私は、私! お母さんじゃない!」
「あなたはまだ世界に晒されたことがないから――――」
「知らないッ! 私から私を奪わないでよッ!!」
視界が澄む。
動作とともになびく空気。次の行動のために座れる呼気。ぶれる虹彩から伝わる感情の揺らめき。視線の先が示す意志。
考えるまでもなく、見ただけで全て理解できた。
心臓の音が眼に映りそうなくらい、目の前の「存在」がクリアに伝わってくる。
母の死を、彼女は見た。
ネヴは膝立ちになり、包丁を投げた。
包丁は真っ直ぐ飛ぶ。さながら母の胸に吸い込まれるように突きたった。
優美な曲線をえがく双丘に挟まれて、根を下ろした銀の枝から、だくだく赤い河が流れた。
母の手が包丁のつかのうえを彷徨う。
しずんだ刃先は、肉の中にたっぷり半分近く埋まっていた。抜いたところで出血をふせぐ栓が抜かれるだけだ。
どちらにせよ、致命傷だった。
ルリエは「何が起きているかわからない」というふうに己の胸を見下げる。
童心に戻ったあどけない、間の抜けた表情でネヴと胸を見比べ、脱力する。
「そう。ようやく、終わるのね……私の方が、先に……可哀想な、ネヴィー……」
崩れ落ちる。
伏したルリエの髪は牡丹の花のように広がり、ルリエ自身を包み込む。
閉じたまぶたに笑みはなく、歪みもみられず、穏やかだった。
魔眼がルリエの命の灯が消えたのを目視する。
膝がくずれ、あぐらをかく。
母との乱闘のゆくすえを見届けたドラードが、よなよな尻餅をつく。
「あ、あ……なんてことになってしまったんだ……ル、ルリエさん……」
母の心にドラードの居場所はおかれていなかったというのに、彼はなおルリエの死を悲しんだ。激しく動揺し、涙を抑えきれない。
ネヴは彼の様子で、恐らく彼もまた母を慕っていたのだろうと悟った。
(お母さん、ころしちゃった)
間違いなくわかっているのに、実感がわかない。
どこか夢見心地だ。ショックから精神を守るための現実逃避だとはわかっていた。芸術家のもとで散々経験した感覚だ。
人形のようになった母に耳うつ。
「お母さんの思いをばかにするわけじゃないんだよ。ごめんね。私には、お母さんの考え方は合わないの。生きてけないの」
母の言うとおり、病院での同調圧力や理不尽な押しつけに、心が荒んだのは事実だった。
あれがこれからも一生続くのだとすれば、気を病むのもわかる。
ネヴを支えたのは、母やアルフ達がネヴを肯定してくれていたおかげだ。
もしネヴに愛された経験がなければ、母と同じになっていたかもしれない。
ちっぽけなひとりでは大勢に押しつぶされるし、散々否定されれば落ち込む。これからもうっすら人を疑い、嫌うだろうけれど。
しかしもう同じにはなれないのだ。
ネヴは自分の命を尊びたい。一方的に傷つけられて、黙って我慢できるたちではない。
なにもしなくたって幸せに生きられるという望みを否定する一方で、きっと幸せになれる方法があると求めてしまう。
無理なのだ。そうせざるを得ないのだ。
「過去を嘆いても変えられない。未来を夢見ても叶うとは限らない。もしかしたらこの世ぜんぶ意味なんてないかも。だったらせめて、いま一瞬を生きるよ。お母さんを殺したのに、殺されるのはイヤなんてこと不平等なこと言わないから。私に生きる価値はないけれど、顔も知らない誰かのために死んでやる義務もないよね?」
もう届かない母に、残った娘がこれからどう生きていくのか、看取りの言葉を投げかける。
心のかたすみに、どうしようもない自己嫌悪を芽生えさせながら。