第十五話「ネヴという永遠」
ルリエの頼みに、ドラードが素っ頓狂に声を裏返らせる。
「はい? 申し訳ありませんが、いまのは僕の聞き間違いですよね?」
「いいえ。よく聞こえなかったらごめんなさい。わたし、声が小さいから。この子のこと、殺してほしいんです」
ドラードは信じられないとばかりに「はい?」と繰り返す。
ネヴも同じだった。
肩を掴んで離してくれない母を、困惑の眼で見上げる。
母は困り顔ながらに完璧な美貌のままだ。
ドラードは動揺がおさまりきらず、魚のように口をパクパクとさせた。
「どうして、そんなことを」
「この子はもう表の世間では生きていかれません。今更普通になろうと努めたところで、周りは信じてくれないでしょう」
「そんなことは!」
「世間に、足を引っ張って心を折り、罰を与えようとしても、許す人はいますでしょうか。助けようとはしますでしょうか。いいえ。同情する人がいても、必ず傷つけようとする人がいるし、それは助けようとする人より粘着質で全力です。愚か者は迷いません」
ルリエは穏やかだ。
人の心に一切のささくれを起こさぬ話し方は、娼婦の時代に培ったものだ。
好かれる話し方。本心をカケラも伝えない、完全な女優のしゃべり方。
他者の荒ぶる心を全てのむような、底なしの黒い瞳が、今は得体の知れないものにみえる。
冷静だと勘違いさせる話し方に、大の男でも気圧される【重み】がのしかかる。
顔を青くしたドラードは、かろうじて説得をひねりだす。
「確かにそういった人達はいます。ですが僕たちが、あなたが、大人として親として、この子を支えてあげればいい。これまでそうしてきたように!」
「子どもが健やかに育てるようにって? それは子ども達が自分は自分のままでいい、安心して生きていいんだと思えて、のびのび生きられるという意味ですよね。でもこの子は獣憑きになってしまったわ」
「獣憑き達は……いうほど悪い奴らじゃありませんよ。そりゃあおっかないところもありますが。彼らには彼らなりの道理がある」
ドラードは人差し指でメガネを押し上げる。
彼だって一度は世間からそっぽをむかれ、過剰な侮辱に追い詰められた身である。
侮辱による人格の否定は自身を否定させ、恥じさせる。巨大な恥は人を死に至らしめる。
ルリエの悲観にも共感できた。
反面、彼はANFAに勤務してから、多数の獣憑きと接した。
ルリエと違い、両手をあげて獣憑きであることを否定できなかった。
「彼らは会話はできます。人をむやみやたらと傷つけることができる、他人の言葉を全てはねのけて会話もできないような人達より、ある意味ずっとマシだ。この子の未来はまだ続く」
ネヴの殺害を拒否するドラードに、ルリエは心底困り果てたように、首をこてんと傾げた。
「でも、やはり難しいわ」
ぎゅううう。
母の手がネヴの肩を痛いほど強く掴む。
「だってわたし、この子の愛し方がわからないんだもの」
え?
そういったのは、ドラードだったか。ネヴだったか。
ネヴは母の告白が理解できず、頭が真っ白になった。
魔眼で見上げた母の「中身」に嘘は見えず、本音なのだとわかってしまった。
全身の臓腑が一気に地下に落ちていくような感覚がする。
「お、おかあ、さん?」
「勿論大好きよ。気持ちはあると思うの。でもやり方がわからないのよ」
母の、全てをうつし、そして何も見ていない黒い目が、遠い遠いどこかにむけられる。
「お父様は私をどう使えば便利かだけ考えていた。弟と妹は見ているだけだった。弟は跡継ぎとして大切にされるかもしれないし、妹は次の霊媒を生むためだけの二人目の私になるかもしれない。
男達は私を恋人として求めた。自尊心を満たすだけの美しさと欲望を満たす道具である私を。
そこに私の生まれ持った意志や心なんて必要なかった。だから使わなかった。生まれたはしから、この胎の底にあるうちに殺してきた。
こうやって悩んで、考えていることをこぼすと、みぃんな嫌そうな顔をするのよ。わたしは気持ちよくする側で、嫌な気分にすることは許されない。
人って喜怒哀楽の生き物のはずなのに。相手がそうだと認めているから癒やさせられたのに。わたしは人間じゃなかった。
でもあの人は、違った。
私の【女】は必要ないんですって。家族が欲しいだけ、って。
だからってどうしたらいいの?
道具としての女がいらないといわれても、私のなかの【人】を自由に生きていいなんて言われても。どうやればいいのか。わからない。わからないのよ。
とてもとても難しいの。家族らしい愛し方なんて知らないから、形を真似てみても本当にできているのか自信が持てないの……
その時気づいたわ。きちんとうまくいった人間じゃなければ、幸福を手に入れてもわからないんだわ、って。生まれて初めて機械を、それも説明書のついていない機械を与えられた猿と同じ」
感情の抜けた抑揚のない口調で、ルリエなりの事実が並べられていく。
感情を表すことさえ禁じられ、意志表示の手法を知らぬ女は、肩を落とした。
「でも、それはもういい。ここまできたらもう仕方がない。それはそれで誰かにとっていいことだから、私自身の幸せは来世にでも期待して、死ぬのを気長に待とうって思ってた」
ネヴから手を離す。
「でも――この子にはそうなって欲しくない。この子だけは私みたいにならないで欲しい。だってこんなに小さくて、柔らかなのだもの。この子は幸せに。幸せを幸せとして味わえる喜びを」
ドラードにはネヴが殺せないとわかったルリエは、肩から提げた鞄に手を入れた。
「そう思ってネヴィという名前をつけたの。 終わりなき子!
この世で幸せになれるのは、生まれた時にいっぺんの汚れもなく、死ぬまでひとつの失敗もなかった人間だけ。
あなたの名前を、不幸なまま終われないになんてしたくなかったのに!」
生まれて初めて声を荒げたのだろうルリエは数回咳き込んでから、フェイスタオルで包まれた四十センチ程度のものを取り出した。
たおやかな手でタオルがほどかれる。
「貴方に幸せがわかるなんて限らない。幸福は贅沢品なの。生きてても生まれや貴方自身を理由に否定される。」
現れたのは、分厚い刃をもった包丁だった。
本当ならば家庭の団らんで活躍するよう生み出されたのだろう道具は、今、不幸な家族を断ち切らんとぎらついている。
「希望なんてもって苦しまないで。お願い、お母さんと約束して。必ず幸せになるって!」
ルリエは悲鳴まじりに願い請う。
母の一生に一度の願いに、ネヴは。ネヴは――