第十一話「ネヴという帰還者」
暴力は悪だ。
ネヴを助けたのは間違いなく悪だった。
ボールペンで逆襲して以来、院長の息子はおろか、嫌がらせが極端に減った。
別に、彼は生きている。
狙いやすさで選んだこめかみは、想定以上の激痛を彼に与えたようだったが。
こめかみで出来たのは痛みのみだ。
忘れれば、かえって苛みの熱烈さは増す。
犬の耳を噛むように、「私に手をだすな」と教える必要があった。
ネヴは、クソ野郎が幼女にはあり得ない衝撃におののいた隙に、ペンを耳の穴につっこんで鼓膜を破った。
響き渡る太い絶叫。
即座に押したナースコール。
駆けつける看護師の、あっけにとられた顔といったら。
そのなかになじみの顔をみつけて、ネヴの胸がちくりと痛んだ。
ネヴはまた騒ぎになるのではと己の浅慮を恥じた。
しかし、事態はそうはならなかった。
まだ齢二桁にも足らぬ子どもが、十以上年上の男を一方的にたたきのめすとは、誰も信じなかったのだ。
状況はどうしようもなくネヴを犯人だと示しているのに。
クソ野郎に障害が残らなかったのが、更にネヴを断罪から遠ざけた。
鼓膜の再生は早い。クソ野郎の耳も二週間程度、長くても一ヶ月で治るという。
院長は息子がひとりで、女児の個室を訪れるという醜聞を恐れ、事実をねつ造した。
夜間に、病院へ家無しの下層民が侵入してしまい、息子と乱闘になった。息子は勇敢に戦った――と。
ネヴは、面通しに連れてこられた男を前に、冤罪だと訴えた。同じ下層民の同情だとなあなあにされた。
顔も見たことの無い犠牲者がどうなったかは想像にかたくない。
憮然とふくれっ面のネヴに、院長が「君にとってもこの方が安心だろう?」といわれたのが、また腹が立つ。
裁かれないことに安堵を覚えたことが、今でも小魚の骨が喉につっかかったように残っている。
ネヴが院長の息子を入院させてから三日だ。
アルフがやってきたのは。
その日の朝は日が昇る前から、鼻の頭が鈍くなるような雨の匂いが満ちていた。
彼はネヴの記憶と違わぬ、典型的な伊達男の格好で現れた。
病院前で車を止めたのだろう。
傘も差さずにエントランスにやってきた彼の服は、表面だけ濡れていた。
あまやかな生地のスーツに身を包んだ美丈夫に、患者も医者も問わず女性達が色めき立った。
目立つ赤毛の訪問者の前に、院長がおずおずネヴを差し出す。
「まさか本当にいらっしゃるとは」
「こんな悪趣味な嘘はつきませんよ」
帽子を脱いで爽やかに笑う。
細められた目の奥は冷たく凪いでいた。
しかし、膝を折ってネヴに目を合わせると、凍った瞳が融ける。
「アルフ!」
もう何年も会っていなかったような気がする。
かたい胸に飛び込めば、アルフも涙ぐむ。あのアルフが!
「ああ、よかった。お迎えが遅くなってすみません、お嬢。本当に……」
大きな手が何度も頭を撫でてくれて、じわじわ、『帰れる』という実感がわいてくる。
涙がぶわりと溢れてくる。止めようとしても止まらない。
アルフはネヴをひょいとだっこした。
せきをきったように泣きじゃくるネヴの背をさすり、院長に声をかける。
「なるべく早く家に連れて行きたいのですが。書類も用意してあります。手続きをお願いできますか」
「ええ。はい。すみません。昨日の昼にお電話を頂いたので、まさかこんなに早いとは思わず」
「用意ができていないと? いいですよ。こちらもいきなりだというのはわかっていますから。俺はずっとここにいます。他に必要なものがあれば、他のものにとってこさせましょう」
アルフの言い方は淀みなかった。
偽りなく、本当にネヴにずっとはりつくつもりだと伝わってくる。
院長は頭をかいて「病院の規則が」と口ごもったが、アルフがなにか手紙を渡すと、顔色を変えた。
安心と脱力で、猛烈な睡魔に襲われたネヴは、そのやりとりにわずかに眉をあげた。
――最後の最後まで、嘘つきめ。
手紙に何が書かれていたかは知らない。
わかるのは、アルフはその日病院に泊まり、翌日には退院していたという事実だ。
ネヴは二度とこの忌まわしい病院をたずねることはなかった。
これでめでたし、めでたし――とはいかない。
何故なら、この病院での事件がきっかけで、ネヴに新たな問題が起きていると発覚したからだ。
瞳の異能――【獣憑き】の判明である。
ネヴはANFAでは愛された子だった。
されど、【獣憑き】となれば、見過ごされない。
世の奇怪なるもの、異のものを調べ、接触し、対処することが彼らの役目だったのだから。
安全な環境にあって、ネヴの精神状態が悪化したのも、組織からの診断を苦くした。
心をゆるめられる場所に戻り、散々ため込んできたがストレスが一気に爆発してしまったのだ。
ストレスの引き起こす感情の爆発は、異能の過剰な暴走に繋がった。
他人がどう「できている」のか、ものの構造がどうなっているのか。
そういった組み立てが常に見え、情報の洪水がネヴを荒らした。
ライオネル・ドラードという主治医を得たのは、こうした時である。
時間を経て安定をとりもどしはじめたネヴであったが、その頃にはもはや異能は定着してしまっていた。
ANFAはやむをえず、まだ思春期にも入っていない少女をエージェント見習いとして雇用した。
これは、実質的には、ネヴが爆弾と見なされたようなものだった。
獣憑きは総じて問題がある。異能ゆえ有用とみなされ、きちんと組織がまわっているあいだはいいが、問題が深刻ならば『処罰』を加えねばならない対象になる場合も多々ある。
収容したアーティファクトや異常存在のように、永遠に檻のなかにしまわれた獣憑きもいる。
アルフはニコニコとして「悪いことばかりじゃあありませんよ」と慰めてくれたが、そのネヴには微笑みのうらにあるかげりを見過ごせなかった。
そして、働く以上、まずネヴは経験をつみ、その異能の有用性を示さねばならなかった。
機会の偶然が重なり、ネヴの初仕事は、かつての友人に関わるものに決まった。
ダヴィデの生まれた魔術師の家系、メチェナーデ家の解体である。