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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第四章 アヴァンチュリエの悔恨
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第十話「ネヴという加害者」


 病院に保護されたネヴは、記憶喪失者として扱われたらしい。

 『らしい』というのは、病院側が幼い少女には理解できまいとろくに説明しなかったせいだ。


 しかし、記憶喪失などとはなはだしい勘違いをされたのは、ネヴ側に問題があった。

 彼女は書類上、私生児だったのである。


 父には表と裏の仕事、両方の面がある。

 性格は優しい。だが頭のネジの緩んだところがあり、嫌な好奇心に溢れている。

 無邪気で悪質な好奇心の矢印が最も大きかったのが子どもだった。

 優秀な魔術師の家系らしい彼は、様々な血が混じった多様な子を見たがった。

 彼には契約を交わした幾人かの母親たちがいて、ルリエもそのひとりであった。


 閑話休題。

 ネヴがどう主張しようが、紙の上では彼女は元娼婦の一人娘だった。

 なお、そうした身の上であるから、母ルリエもネヴも、安全のためANFAの所有する地図に存在しない島に住んでいた。

 

 島についてもらせば、両親とアルフ、家族のように接してくれた職員に迷惑がかかる。

 外部に助けをもとめられないからこそ、万が一の迷子もないように、ネヴには常にアルフがはりついていたともいえる。

 神隠しというありえない長距離移動は、こうした地味な害を生んだ。



 猟奇の芸術家の自首から二週間。

 新聞はもう別の話題に切り替わっている。

 押し寄せるインタビューの波も終わり、やっと病室から解放された。


 医者がいうには――先に芸術家が散々言っていた通りに――感染症と障害の心配もないという。

 芸術家は元医者か何かだったのだろうか? はたまた作品への執着が生んだ努力の(たまもの)か。


 新聞では、ネヴの入院費は病院がまかなうとあった。

 だが実際は違う。取材費用をまるごと病院が受け取っているのを知っている。

 それに身寄りの無い子を早々に追い出すと、今度は『外道な上級国民』のスキャンダルとしてマスコミがよってたかってきそうなものだ。


 ネヴの住処はまだとうぶんの間、余暇があった。

 住処だけならば。



 もうすぐ昼になろうかという晴れた午前。

 ネヴは個室にこもるのに気が滅入り、中庭を散歩していた。

 ネヴが歩いているところだけ、青い芝生がひらけて広がる。

 遠巻きに他の患者がひそひそ話しているのを感じた。


(嫌な気分。なにをコソコソ盗み見るのかな。私もあなたたちも同じ患者なのに)


 見世物小屋の動物の気分、というか。

 なにか他人事に見られている気がする。

 ネヴには触らぬ神にたたりなしとばかりに避けるくせ、すれ違う普通の患者にはにこやかに会釈をして通り過ぎる。


 なかには松葉杖をついた少年もいた。

 彼だって怪我だろうに、事件の被害者というだけで、全く違う扱いをされる。

 少年へのいたわりや共感ではなく、得体の知れない異物という態度が、ネヴを息苦しくさせた。


「でも部屋のなかにいたって同じだしなあ」


 嘆息したときだ。ネヴの頭に生ぬるいものが落ちてきた。

 どろりと頬を伝うたっぷりとした粘液を拭い、病院を見上げる。

 窓から乗り出した小さな影が、慌ててひっこむのが見えた。

 多分、子どもだろう。

 重力に従って落ちる黄身を掬い取り、乱暴に芝生に捨てる。


「……アルフ、早く迎えに来てくれないかな」


 しめった黒髪に悲しみを覚え、ネヴは頼れるお目付役を想像した。

 段々、こうしたことが増えてきている。

 被害者になったネヴに異常なぐらい親切な人もいたが、そちらは減った。

 あるものは善意を与えるのに飽きて。あるものは面倒事に巻き込まれるのを恐れて。



 渋々部屋に戻った。

 ナースコールを押すべきか迷い、やめる。

 タオルを手に取って水で濡らそうとしたところで、後ろから声をかけられた。


「ネヴィちゃん、体調どう……って、どうしたの、その頭!?」

「あ……」


 見慣れた看護師だ。彼女は片手にもったバインダーをベッドに放り投げ、タオルを奪った。

おっかなびっくりとした手つきでネヴの髪をふく。

タオルで頭全体をかきまわされ、うまく眼が開けない。

あいまに片目で覗いた表情は、捨てられた子猫を抱き上げるかのような戸惑っていた。


「誰かにいじめられたの?」

「二階から卵なげられた」

「なんてこと! 顔見た?」

「ううん」


 否定すると、看護師はがくっと肩を落とす。


「そっか……親はどんな躾してるのかしら。ツイてなかったわね」


 落ち込んだ声音は心から憤り、残念がっているように聞こえた。

 この女性の看護師は、入院当初から真心でネヴを気遣ってくれるひとりであった。


「最近増えてきたわね」


 暗く呟いた看護師は、ネヴがじっと見ているのに気づいて、即座に笑顔を取り繕った。

 ネヴも意味も無く笑みを作る。

 この看護師は好きだ。彼女がいるから、ネヴも極端な考えに走らずにいられる。

 でなければ、今頃「病院なんてクソだ」と偏見の芽が脳みそにがっつり生えていた。


「だからね、今日はネヴィちゃんにプレゼントがあるの」

「プレゼント?」

「そう。日記帳よ。絵日記なんだけれど、ちょっと幼すぎたかしら。でも色んな使い方ができるから」


 卵をとりおえた看護師は、ベッドから薄い冊子をもってきて手渡した。

 バインダーと重ねて抱えていたのを、一緒に投げてしまったようだ。


「嫌なことがあったら、覚えていること一つ残らずここに書いて。あとで使えるかも」

「下層民でも証拠になるの?」


 罪と審判のための材料作り。そういう話は、たまにアルフと職員の会話で横聞きしたことがある。

 しかし世の中に放り出されてみて、なんとなく、生きるのは甘くいかないとわかってきた。

 人々は、リソースの消費に見合わないと見れば驚くほど冷淡に弱者を切り捨てる。

 彼らは下層民は何も生まない、迷惑ばかりかける穢れた人間だと思っている。


「やらないよりいいはずよ」


 看護師は悲痛に顔を歪めただけで、否定しなかった。

 バインダーからボールペンを取り外し、二回りも小さいネヴの掌に握らせる。

 皮膚を削られ、蔦模様の残った手の甲からは包帯が外れている。

 代わりに、病院は与えられた白手袋で彫刻を隠した。

 手袋の上から、看護師は両手でボールペンを握った拳を包む。


「貸してあげる。生憎、仕事用のペンだけれど。クレヨンじゃなくても構わないかしら」

「ううん……ありがと」

「いえいえ」

 

 看護師が「そろそろ行かなきゃ」と手を離す。


「これぐらいしかできなくて、ごめんなさいね」


 ネヴは生臭いかぶりをふる。

 ちからおよばないのは仕方ないことだ。

 ネヴを苦しめるのが、気持ちで作られる薄気味悪い空気なら、助けてくれるのも気持ちだ。



 病院には、このように好きな人、嫌いな人がごったに生活していた。

 一番好きなのが日記の看護師ならば、一番嫌いだったのは、医院長と医院長の息子だった。


 権力者はみな欲深だ――というのは、嫉妬からくる思い込みだ。

 実際、ネヴの父は倫理観にこそ問題はあれ、金の亡者ではない。

 鉄道会社も、好奇心を満たす資金を満たす手段に過ぎない。

 院長は強欲であった。



 騒ぎが収束して一ヶ月。

 院長が「ネヴを養子にしてもいい」と持ちかけてきた。

 資料を眺める目はネヴに向いておらず、人気を獲得するためのパフォーマンスの一環なのはすぐにわかった。


 東方の血が混じったネヴを、彼は蔑んだ。

 くちを開けば物を知らぬ馬鹿扱いされたので、思い出すのは腹立たしさばかり。

 息子のほうは輪を重ねて最悪だった。

 必要な時だけやってくる院長と違い、まだ学生だという息子は、用も無く病室に顔を出しては、ねちっこくネヴをあげつらった。


「どうせ捨て子だろ。つかえない頭を無理に使おうとするから、嘘を見抜かれるんだ」


 そういって、呆れるほど重箱の隅をつついて、ネヴの価値を下げようとするのである。

 多くは肌の色や性別に起因する、こじつけた。

 アジア人は変な病気をもっているだとか、女だからヒステリーだとか。

 根拠の無い欠点を認めろと、無理矢理押しつけてくるのだ。


 そんな彼にネヴが抱いた感想といえば、


(このクソ野郎。ふざけるなよ)


と単純だった。



 クソ野郎に目をつけられているのはわかっていた。

 圧倒的優位に立てる、なんくせの材料の塊を壊していいオモチャだと認識していたに違いない。

 世話になっている病院の息子という圧倒的優位が、彼に余裕を持たせた。


 それが養子の申し出で崩れた。

 ある日の夜、クソ野郎が鍵をくすね、ネヴの病室に忍び込んだ。


「理解とか許すとかそういう問題じゃあない……」


 当然寝ていたネヴは、クソ野郎がそういうのを聞いた。

 消灯後の暗闇に、少年の面影を残した顔が醜く浮かんでいる。


「汚物と同じ家の人間に見られるなんて、ふざけるな!」


 全く理不尽な言い分だ。

 ねぼけまなこのネヴは起き上がろうとするネヴに、クソ野郎が舌を打つ。

 幼子には過ぎたちからでシーツの上に縫い付けられ、思い切り頭を殴られた。


「っ――」


 悲鳴をあげてやろうと息を吸う。


「やめろ!」


 クソ野郎が手首を回してシーツをからめとった。

 瞠目するネヴを見とがめもせず、ひとかたまりになった布が少女の口腔に詰め込まれた。

 両腕を突き出して男を離そうと暴れる。


(呼吸が、できない!)


 もうろうとするなか、瞳の先、脳の奥で、命の灯火が弾けるのを感じた。

 バチ。存在しないスパークが明滅する。


(死ぬ。殺される。こんな、くだらないことで(、、、、、、、)


 死に際に見開かれた視界に、異様なものが見えた。


 『継ぎ目』だ。


 男の輪郭が七色に輝いて、ぼやぼや揺らいでいる。

 物質的な肉を持ち、したがって物質的な線をもつはずの体が、曖昧にぶれ、頼りない枠を晒している。


「お、俺がこんなことするのは、お前のせいなんだからな! 自業自得だ、嘘ついて親父を騙すから」


 いま息の根を止めようとしている少女に起きている異常事態をつゆ知らず、男は唾とともに言い訳をとばす。

 ネヴは本能的に、それがクソ野郎の『構成』であると理解した。

 この男がどれだけ生まれ持ったものに依存して、山のようなプライドを築き、そして生まれただけで他の精神的支柱(アイデンティティ)を何も作ってこなかったことを。


 クソ野郎という人格と存在を作り上げる素材は、笑えるほど単純で、歯抜けの設計図のような出来だった。

 自分に何が起きているか、動揺するより先に、激情がわきあがる。


(こんな奴のために、こんなにみじめにおとしめられなきゃいけないなんて!)


 あの芸術家でさえ、選んだ意志の責任をとった。

 彼は「悪意ある意志をもった」という悪性すら受け止めていない。

 おぞましいことに、自らの正しさを疑った日さえもないのかもしれない。


(ちやほやされなきゃフキゲンになるのに、私のことはどう? こっちが逆らえないのをいいことに、甘い汁だけ吸いたいだけじゃないか。黙って食い物になってたまるものか!)


 なんたる卑怯。

 なんたる幼稚。

 努力した立派な人間だ、正しい市民だなんだと言って、己の都合に合わせて、心地のいい理屈をこねているだけではないか。


 ネヴは男を押し返すのをやめた。

 枕のしたに死に物狂いで指を入れ、敷いておいたものを引きずりだす。


(嫌なことがあったら記録できるように。そして記録を取り上げられないように、あれははなみはなさず隠しておいた!)


 ネヴを助けたい一心で預けられた、黒のペン。

 クソ野郎を形作る棒の結合点と、解体の仕方は()えていた。


「アンタがッ! 苦しめッ!!」


 ネヴは親指でキャップをはねはずし、その細い先端を全力で彼のこめかみに突き刺した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ネヴちゃん……強い子! この鬱になりそうな状況に追い詰められたところで、自責や自己否定に陥るのではなく、怒りを爆発させる辺り、これまでしっかり愛されてきた子って感じがします。 しかしこのま…
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