第九話「ネヴという患者」
荷物をまとめた男は、数週間ぶりにネヴを外に出した。
「煤が降るよ。傘を忘れずに」
ネヴは出会った時に着ていた服に着替えさせられた。
できうる限り綺麗に洗濯したようだ。扱いづらい、飾りの付いた服であったが、いたみもない。手もみで洗ったのだろうか。
「準備はできたかい? じゃあ行こうか」
先んじて歩き出した男を追う。
男は頻繁に後ろを確認しながら前を歩き続けた。
ネヴはトトトと早足だったが、男との距離は常に一歩ぶん離れていて、隣り合わない。
だがそれ以上開くこともなかった。
男はネヴの手をとらずに、彼女を警察まで導きたいらしかった。
奇妙な親切心に、ネヴは口を尖らせる。
「ねえ、聞きたいことがあるの」
「なんだい?」
「どうしてお兄さんは私を選んだの」
「ああ……そういえば具体的には言ってなかったかな」
ネヴを置いていかない歩き方は、男自身にとって非常にゆっくりとした速度だったはずだ。
全力なネヴと反対に余裕を持て余した男は、帽子をかぶった頭でのんびり上を向く。
「一言でいえば、君はとても綺麗な目をしていたからだ」
「目? みんなよく言うけれど。普通の黒い目だよ」
「それはどうかな。これは直感だが」
顎をあげたまま、細まった男の瞳が包帯を巻いた手を見下ろす。
「見えないものを見ようとし続けて、君はすり切れる。いつか限界を超えた先で、君は生まれ変わるだろう。変化と生まれ変わりは生きる限りつきまとう呪いであり、権利でもある。僕の思う生きた芸術とは、そういうものだ」
ネヴは「むう」とうなる。
愛おしそうに眺められる手が、自分の体から浮いたもののように感じられる。
ぶらさがっている手をいくら見ても、手は手だ。
太陽光が足りず終始薄暗い街道で、葉っぱのような手が振り子のように揺れた。
前に連れて行かれた父の職場で、職員を名乗る人達が得体の知れない物品について、やたら熱心に語りあっているのを見たことがあるが、それを思い出す。
彼が何を見ていて、何にときめいているのか、ちいとも想像できない。
「僕も不思議なことがあるんだ。聞いていいかな」
「どうぞ」
「君はあんなことをされたのに、どうして僕を好いてくれるのかな?」
男の質問にネヴは首を傾げた。
彼の意図が心底理解できなかったからだ。だからそのまま答える。
「嫌いだよ?」
目を見開く男の前で、手の甲を掲げた。
恐らく一生残るのだろう傷を刻まれた時間を、光景と会話を、いつまでも鮮烈に覚えている。
文様の形に肌を削り取られ、真っ赤な皮膚をさらけだした皮膚だけが残った。
いつまでも、いつまでも。装飾された手が、ネヴの心身に記憶を呼び覚ます。
「本当に怖くて痛かったんだよ。私、お兄さんが嫌い」
「そっか……いや、そうだな。当たり前だ。納得した」
震えた声でしきりに頷く。
動揺していた。取り乱しはしなかった。
彼はそれきり黙ってしまったけれど、いよいよ警察の前について、ネヴは二つ目の質問を投げかけた。
「お兄さん、どうしてわざわざ自首しようと思ったの?」
今度は男が首を傾げる。
帽子のつばをつまみ、恥じ入るように目元を隠す。
「そりゃあ、君。他者に血を流させるのは罪だ。僕は僕以外のなにの以外のせいでもなく、自らそうすると決めて、ことに及んだのだから。責任をとらないと」
「そうなんだ。うん、私ね、お兄さんのそういうところ、憎めなかったんだ」
「……変わってるねえ、君」
――後から思えば、彼はネヴにとって「初めての獣憑き」は、嫌いな人間でもあった。
だがその生き方はネヴにとって、非常に好ましかったのだ。
少なくとも、この後に出会う人々よりは。
◇◆ ◇
警察に届けられたネヴは、すぐさま保護された。
このあたりの記憶はぼやけている。
随分久しぶりにたくさん体を動かして疲れたのだ。硬く冷たい木の椅子で、うとうと船をこいでいた。
最初、警官は男の自供を胡乱な顔つきで、話半分に聞いていた。
悪戯か、薬物で狂った下層民の戯れ言だと思っているのは明らかだった。
だが彼がいきなり、ここ近年で起きている失踪と身元不明遺体の証言をつらつらと並べだして事態は急変した。
警官は文字通り飛び上がった。署の奥へ駆け込むと、何人かの警官が彼を取り囲み、手錠をはめた。
抵抗するそぶりもない男に、ヤケにピリピリとがった様子で睨むものだと呆れたのを覚えている。
男とはその場で引き離されて、それきりだ。
幼いネヴはろくに理由も説明されず、病院へ送られた。
手は治っていると主張したのに、聞き入れられなかった。
感染症や他の外傷の検査だとか、事情聴取だとか、ネヴに用事が山ほどあるのだという。
このあたりの記憶も、ぼんやりしている。
いい記憶ではないからだ。振り回されるばかりで、どうでもいい時間だった。
身分証を提示できないネヴは、人種から下層民と予想された。
身分に対し、ネヴがいれられたのは、個室であった。
「悲惨な事件の被害者となった少女の心を守るため」というのが建前だった。
訪れる警官と新聞記者は、ベッド脇で必ず同じ第一声を発した。
「可哀想に」。
彼らの目がカラカラに乾いていて、メモ帳ばかり熱心に見つめるのに気づくのに、そう時間はかからなかった。
彼らの様子を観察する以外、ネヴにできることはなんにもなかったから。
遊び道具は与えられたが、触らせてもらえなかった。
本は「どうせ読めないだろう」と手に取るたび取り上げられ、インテリアに成り果てた。
第一、暇がない。起きている間は看護師がつきっきりで、もっぱらインタビューばかり受けさせられた。
最低限の会話だけして、逃げ去るように病室を出るナースの事情も、それで飲み込めた。
だいたいおかしかったのだ。
下層民の子などひとりもいない病院で、何故丁寧な扱いを受けるのか。
食事は中流家庭の入院患者より豪勢で、面会時間の制限は無いも同然。
――今でも、病院で過ごした日々は苦痛極まる記憶として残っている。
要するに、ネヴはネヴとして扱われなかった。
病院の人間をはじめ、ひっきりなしに来る記者と警官たち。ほとんどの人間にとって、ネヴはヒトではなかった。
【猟奇事件の唯一の生存者】という記号だったのだ。
病院の威光を増し、顔も知らぬ民衆を満足させる飯の種。
されど消費に飢えた世間は残忍だ。
人々はセンセーショナルな事件をしゃぶり尽くし、飽きて忘れる。
新聞の一面が移り変わるのに合わせ、ネヴは邪魔者にされていった。