第八話「ネヴという被造物」
男の手がネヴの両脇の下に潜り込む。
「櫃も犬も僕が作った。作りたいものを作るから芸術家なのだもの」
若い男はネヴを軽々と抱っこした。
小さな背に手をそえ、父が子を運ぶように丁寧な扱い方だ。
狭い室内をスイスイと渡って、男はそっとネヴをベッドに寝かせる。
安いベッドだ。
布は紙のようにゴワゴワだ。とても眠れたものではない。
温和な目つきと相反して、彼はネヴの手首にハンカチをあて、そのうえから縄を巻きつけた。
ネヴは汗をダラダラ流して、自由を奪われるさまを眺めた。
力づくなふうではないのに、大人と子どもの絶対的な腕力の差のせいで、されるがままなのだ。
ネヴはくちを動かす。彼の瞳にギラつく敵意の色がないのを信じた。
自分の目がギョロギョロしそうになるのを必死で抑える。
「な、なにするの?」
「君に手伝ってほしいことがあるんだ」
「私をここに寝かせないと出来ないこと?」
「半分正解だね。どうしても作りたい作品があるんだ。君をみて『この子だ』と直感した。我々は直感に従う。ああ、前にあった僕と同じような人もそうだったってだけだが」
ネヴと律儀に会話する男は、「あれが必要だな。あとこれも」と枕元に道具を置いていく。
ケースに入った彫刻刀、包帯、その先は横たわっているせいで見えなかった。
「作りたい、作品」
「どこから話したものか。そうだな。まず、美しい形は美しいものに宿って、初めて真実と認められる」
ネヴの手に触れ、血管を熱心になぞる。
注射をするために静脈を探す看護師のようだ。
「『猟奇』という単語を知っているか」
緊張で呼吸が浅くなる。
彼は一番、鉄の曲がり方が急なものをとった。
「猟奇といえば猟奇趣味、猟奇殺人などの印象が強いかな。血腥く、嗜虐に富む。しかし語源はなにも他者への攻撃性を意味するわけではない。
語源じたいはゲテモノ食い、だ。
食べられるかどうかもわからない獣を狩ることが由来らしい。
ひいては、異常、稀、怪奇を探し求め、満足しようとするさまをさす。
実に平凡な欲求じゃあないか」
彫刻刀をメスのように構えたところで、男ははっとした。
「大変だ。最低限の挨拶を忘れてしまっていた。お嬢さん。お名前は?」
「ね、ネヴィー・ゾルズィ……」
「そう。永遠ちゃんか。いい名前だね」
にっこり微笑まれる。
挨拶には挨拶を。そう躾けられたネヴは習慣的に笑顔を返した。
「ははは」と、のんきな自分らしくない哄笑がもれる。
「最高の彫刻家は言った。優れた作品はあらかじめ石のなかに姿がある、私はただそれをとりだすだけだ」
半開きになった少女のくちに、タオルが詰め込まれた。
巻物状に丸められ、紐でくくったハンドタオルだ。
「叫びなさい。生きているのがわかる。ここには子どもの泣き叫ぶ声にいちいち助けに来る大人などいない。舌はタオルが守ってくれる」
どこまでも朗らかに言い聞かせる。
「頼む。受け入れてくれ。僕の全てを捧げても構わないから」
真摯ぶった説得のまねごとと切り捨てるには、彼に偽りはなかった。
ネヴは猿ぐつわをされて何もできない。
一体なにをされるのか。
この画家を何がこうまでかきたてるのか。
混乱と最悪の想像を無限に生み出し、嗚咽し続けるネヴの手に、男はどこまでも丁寧に彫刻刀を挿入した。
◇◆ ◇
ネヴの手に彫刻を施した男は、こう言った。
「芸術品が美しいのは、それが本来偶像を持たない理想に、目に見えるカタチを与えられるからだ。理想とは……創作者ごとに違うだろうが。僕の場合、祈りだね」
男は『作業』を終えると、ネヴを全力で治療した。
傷による発熱に苦しむネヴをつきっきりで看病し、彼の稼ぎでは苦しいだろうに栄養のある食べ物を与えた。
特に傷跡の扱いは極めてデリケートであった。
綺麗に傷跡が残るよう、膿と傷のひび割れを神経質に恐れた。
期間にして、おおよそ半年間。
症状が落ち着いても、傷の定着を確かめるため、ネヴは半年間男と生活をともにしていた。
ネヴは「祈り」について語られ、夕食に使った器をシンクに片付ける手を止めた。
最初は激痛でまともに動かなかった手も、なんの支障もなく動く。
男はネヴを外に出さなかったが、それ以外の扱いは親戚の少女を招く叔父のように甲斐甲斐しい。
洗い物の類いは男の担当だ。しかしリハビリを兼ねて、ネヴも簡単な仕事は手伝う。
男が作った野菜スープとパンの屑をシンクの桶にしまい、コンロでホットミルクを煮ている男の足下に立つ。
「祈り?」
「そうさ。僕の思う美しいものがこの世にあってほしい。美しいものを願い、どうすればいいのか思い悩む自由を、どうにか産み落としてみたい」
「お兄さんにとって、それが幸せなの?」
無邪気な少女を愛おしげに見下ろし、ふわふわの黒髪を撫でる。
「君は幸せが大事みたいだね。そうさ、僕にとって、それは失いがたい幸せ。うんと高い稼ぎを得て、豪邸に住んだところで、何も作れなかったら幸せじゃない。精神の栄養だ」
男はネヴの手の甲を指さす。
息づく薄黄の柔肌に、完璧なアラベスク模様が宿ったそこを。
「生きていなければ生物ではない。しかし、生きているだけでは人ではない。
魂――これと求め、悩み、決断する意志があって、初めて『私として生きる』という成果が生まれる。
僕は子どもの頃から、生きた希望の体現を夢見てきた。
君は僕の希望。僕が僕を認めるに足る、最初で最後の傑作だ」
ミルクをマグカップに注ぐ。
男は欠かさず「熱いから気をつけて」と一言そえる。
ネヴがふうふう息を吹きかけるのを見守りつつ、蛇口をひねって水を出す。
「もうそろそろお風呂も入れないと」
「水道代、大丈夫なの?」
「君の清潔には変えられないさ。でもまあ、そろそろ貯金も尽きる。潮時だな」
最小限の水で皿汚れを洗い落とす。
ネヴは我ながら奇妙なほど、この男との生活になじんでいた。
地獄のような痛みを加えられたはずなのに、何故か憎めないのである。
この男の言葉が心地よく、スポンジに流れ込む水のようにしみこんだからかもしれない。
ホットミルクをちびちび飲みながら、いつも通り棘のない顔立ちの男を見上げる。
「お金がなくなったらどうするの? 引っ越す?」
「いや、お別れだ。明日、約束を果たす。君を警察に連れて行くよ」