第七話「ネヴという被害者」
若い男の名を、未来のネヴは覚えていない。
覚えているのは手と――絵の具だ。
幼いネヴが男に導かれた先は、下層の片隅にある大きな建物だった。
幾つもの錆色の箱が積み重なったような外観で、箱の一つが彼の家らしい。
彼は自らの上着をネヴの頭に被せて移動した。
隠されたことに不安感を覚える。だが他の大人はもっと怪しかった。
なかに通されたネヴは、室内のちらかりように目を疑ってしまった。
広さがネヴの別荘の半分もない。足の踏み場を選ばねばならないほど床に物が積まれていた。
資料と思われる書籍に、筆、よくわからないカスと山のようだ。
壁には紙が貼り付けられて、素の壁紙が見えない。
紙はどうやら沢山の新聞の切り抜きに、絵のコピー、無数のデッサンと下書きらしい。
あまりの散らかりかたに、本当に家なのか疑ってしまう。
「ここがお兄さんの家なの?」
「そうだよ。これでも芸術家志望なんだ」
「画家?」
「そうともいえるね。絵も描くが、表現したいことによっては彫る。捏ねる日もある。作れるものならなんでも作るよ」
初めてみるクリエイターの卵にネヴは目を輝かせる。
「へえ。すごいのね! わたしなんて、ぶきようだからっていちいちアルフがチェックするのよ」
「アルフってひとが君の保護者なのかな? まあ、子どもの頃はそんなものさ。気にすることじゃあない、そんなことは」
男は「くっ」と唇を歪にひきあげて笑った。
自らを嘲るような笑みに、ネヴの爛漫だった表情が曇る。
「あの、お兄さん。そうよ、アルフがわたしのおせわをしてくれるの。けいさつさんに行きたいわ。場所がわからないから、教えて欲しい、のだけれど……」
「わかってる、わかってる。警察には必ず届けてあげるよ。少しの辛抱だ」
浮ついた返事だった。
風邪をひいた人間を思わせる。熱っぽく不安定だ。
「いつ連れてってくれるの?」
「そうだ、飲み物をとってくるよ。適当なところに座ってくつろいで」
熱に浮かされた男は、慣れた足さばきで別室にいってしまう。
「ねえ、いつー……?」
控えめに、しかししっかり確認しようとした。
だが小鳥のような高い声が虚しく響いただけだった。
かといってネヴは動き回るのが好きだ。
活発な子どもの例に漏れず、好奇心も強い。
ましてや、そこは一般人からみればガラクタの渦だ。子どもにとっては宝の山と同義である。
壊さないよう気を配りつつ、探索を開始した。
本を少しずらしてタイトルを確かめ。
紙の束を寄せ集め、一枚ずつ見聞する。
絵の具の色に目をこらし、彫られた像を眺めやる。
そうするうちに、部屋の奥に辿り着いた。
最奥だけは床に物が置かれておらず、部屋のなかで、更にくっきりとした境界線ができあがっていた。
結果でもはられているかのようだ。
「おっきな櫃だ」
結界のなかに、四つ足のついた飴色に塗装されたチェストが鎮座していた。
足は短いながら、貴婦人の尻の如き悩ましく大胆な曲線を描いている。
ともすれば、丸まった足先は、恭しく女王にかしづく奴隷の後ろ姿のように見えてこなくもない。
「今にも動き出しそう、なんてね」
生々しい魅力を放つデザインに若干引く。
なお、好奇心は衰えなかった。恐る恐る近づいてみる。
改めて大きなチェストである。
ネヴができる限り四肢を折りたたんでみれば、ギリギリ横たわれそうだ。
(うわあ、すごい。近くで見ると、きれいなもようがはいってるのね)
側面にはびっしりと彫刻が施されている。
色合いは洋風なのに、彫刻はアラビアンテイストだ。
モチーフは植物か。図形には一定の法則性がみられる。
恐ろしいほど細密な図形が延々只管、びっしりと。
いっそ狂気的な念のいれようだ。
(どれだけ集中すれば、こんな小さな図を描くように、木を掘りだせるのかしら! 気が遠くなっちゃう。あれ、でもこんなところに傷が)
彫り込む際にちからがこもりすぎたか、一部、木が欠けてしまっている箇所もあった。
本当にわずかなたまきずではある。
それを二つ、三つ見つけたところで、彫った溝に黒ずんだ血がしみこんでしまっている箇所を見つけた。
どうやらこれはあの若い男の作品らしい。
(こういうの、『力作』っていうのよね。お兄さんにとって宝物よね。何が入ってるのかな)
チェストには無骨な南京錠がぶらさがっている。
だが、見た目が仰々しいだけで、安物だ。
肝心の鍵穴が茶色く錆び付いてしまっている。そのせいで壊れたのだろう、鍵は開けっぱなしのままにブラブラ揺れていた。
「……み、見るだけなら?」
――ああ、いけない。いけないことなのだけれど。
頭のなかで「踏み入るな」と警告が鳴った。
一方、「知りたい」という気持ちがうずく。
隠された宝物はなんなのか?
この素敵なものを作れるあの人はきっと素敵な人だ。素敵な人の大切なものは、どんな素晴らしいものなのだろう。
悪童の悪戯心のまま、ネヴはチェストの蓋を持ち上げた。
櫃には犬が入っていた。
大きな犬だ。犬種はドーベルマンだろうか?
凜々しい黒い太ももを惜しげもなく晒して、どっしり横たわっている。
美しく整った毛並みの一部は、綺麗に取り払われていた。
危うげな男のそり込みようなデザイン性のある彫り込みだ。
引き締まった筋肉と気の強そうな横顔は、ギリシャ神話のなかの英雄の如くだ。
生命を生み出した神の手による奇跡だ。完璧な造形といっていい。
そり込みは、その完全性をあえて崩し、なおかつ新たな調和を与えようとするかのような行為だった。
挑戦的な美に、恐れ半分、好奇心半分で顔を近づける。
そして気がついた。
毛は剃られていない。
肉ごと削がれている。
これは犬の死骸だ。強い薬品の刺激臭に退く。
大切に防腐処理の施された、死後も陵辱されているなきがらに生理的な嫌悪を覚えた。
未知の衝撃におののく幼女の背が、暖かな壁にぶつかる。血の通う、男の足の肉に。
「――見てしまったね?」