第六話「ネヴという少女」
いつもいつも。心が曇ったとき、おびえて眠りにつくとみる夢がある。
薄暗闇のなかで手をのばす。
真っ暗でもなければ、輝かしくもない。
この国はどこもそうだ。生かさず殺さず。
ネヴもそうだった。
父は子への愛を惜しまぬヒトで、金持ちだ。
母は異人ながらたぐいまれな美貌と才能をもち、ネヴに魔道の技術と慈愛を伝授した。
恵まれた生まれだ。そして汚れた誕生だった。
父は人にいえない仕事をなりわいにしている。
母は家族に売られた娼婦だった。
ネヴの私生活は平均以上に豊かだった。
定期的に別荘に旅行に出かけた。金に困るどころか、家庭で金の話題が出たことすらない。必要なものがあれば「買おう」の一言で済む父だった。
それほど恵まれていても、苦しみがまとわりついてきた。
幼心ながらうっすら感じていたものがはっきりわかったのは、まだ年齢が一桁だった時のことだ。
あの神隠しがネヴの分かれ道だった。
地震であたまを打ち付けて、見えなかったものが見えるようになった。すぐあとで、もう数少ない綺麗な海で、彼女は消えた。
どこをどういったのか、思い出せない。
記憶のかどをうろつくのは、深紅の極光混じりの、無限の光――
◇◆ ◇
ネヴは知らぬまに、光の通路に足を踏み入れていた。
上も下も右も左もない、水のなかだか土のうえだかわからないところだ。
「アルフ? アルフ、どこ?」
お目付役を呼び求める。
いつだって美味しい食事を作ってくれて、呼べばいつでも来てくれる赤毛の男は、返事ひとつしなかった。
「アルフ……」
ワンピースのすそを握りしめる。
赤と虹の世界のなかには男どころか、葉ひとつみあたらない。
何も出来ない。ネヴは歩くことにした。
時間を忘れるまで進み続けて、幼いネヴは、また知らぬまに通路を抜けた。
目に飛び込んでくるのは、まだ親しみのある空間だった。
みぞに泥がこびりついた石畳の道路、目にしみる曇天。
体を小さくして足早に過ぎ去る、古着を着た人々。
バラール国の南町だ。
幼いネヴは身をすくませる。
南の土地は温暖で自然が多い。過去、農作物と利権の防衛がらみで自衛団が小競り合った影響で、治安の悪い土地でもある。
アルフをともなって観光に来たことはあるが、ネヴの居住地は主に北ばかりであった。
上等な新品の服を着た幼女へ、ジロジロ無遠慮な視線が投げられる。
四方八方を囲むなめ回すような目が気持ち悪くて、ネヴはたちぼうけになってしまった。
「君。大丈夫かい?」
往来のどまんなかでかたまってしまった少女の肩を、大人の手がおした。
飛び退いて振り向けば、若い男性が驚いて、茶色い瞳をわずかに大きく開いていた。
頬が煤で汚れている。
このあたりの住民らしい。彼はひとめで警戒心をほどくような柔和な微笑を浮かべると、膝を折ってネヴに目線を合わせる。
「迷子かな? どこの子か言える?」
「ううん……」
ネヴが主な住居としていた島は一般に秘密だ。
仲間内以外に言ってはいけないとくちをすっぱくして言い聞かせられていた。
別荘の住所を言おうにも、どこのをいえばいいのか。ここがどこかもわからないのだ。
「そう。困ったね」
オレンジブラウンの髪をした若い男は、帽子のつばをもって深くかぶり直す。
つばをつまんだ爪には緑の絵の具がついていた。
「何か連絡先をもってないかな」
いつもなら持たされているのに、先ほどまで秘密の島でアルフと過ごしている真っ最中だった。
ネヴは着の身着のままで、緊急連絡先の入った鞄も車に置いてけぼりだ。
若い男はざっとネヴの全身をみる。
ふと、彼の目がネヴの手に止まった。
海で遊んでいたために、両の手が丸出しになっている。労働を知らないふわふわもちもちとした手だ。
ヒトの良さそうな若人の声音に、ほんの一瞬、低いうなりが混じる。
「……綺麗な手だね」
「え?」
「ああ、いや。なんでもないよ。しかし、いいところのお嬢さんみたいだね、君は。ここにいると危ないよ。安全なところに移動しよう。ほら、こっちへおいで」
若い男の手はネヴの指を容易く絡め取る。
「あ、」と反抗しようとしたネヴだが、いまだ背後から感じるどろついた目線に、肌があわだった。
嫌な感覚だった。
ひそやかに値踏みをするささやきが耳をかすめる。ちらと様子をうかがえば、モノを見るような目で見られていた。
彼らがネヴの心を無視して、乱暴に扱おうとしているような悪寒がよぎる。空気に嬲られている気分だった。
あれらに比べれば、若い男の態度は随分優しく思える。
「うん。わかった」
ネヴが詳しいANFAの仕事を学びはじめたのは、神隠しから一年後。
だからこれよりずっと後に、この男のようなものを【獣憑き】というのだと知った。