第五話「ネヴという女」
ネヴがイデの消失に気がついたのは、入口から再出発した直後だった。
ネヴは生来、五感が鋭い。
聴覚は流石にシグマに及ばないが、霊感的な直感は優れている。
イデの気配は特にわかりやすい類いだ。
後ろにいたはずの、がっしりした生き物の気配が消えたのを察して、振り向く。
利き手は刀に。
敵が居れば即座に切り捨てようとしていた目を、咄嗟に閉じてしまう。
光が目を焼いた。
鏡の反射光である。
否。そんな生やさしいものではない。
フラッシュをたかねば出ないような猛烈な白い光だ。白が視界をくまなく埋める。
生理的な涙のにじむまなじりを強引にこすり、目を開ける。
「ああ、うん。やはり空間に対する魔術の使い手ですか」
ネヴはミラーハウスから出ていた。
ブーツの踵が赤いカーペットを踏みつける。完璧な円と毛並みをもつ敷き布は、いかにも高級品だ。
ネヴがいつのまにか立っていたのは、そういう『豪邸の一室』であった。
ベッドに出来る大きなソファに、ぴかぴかのテーブル。
比較的プライベートな部屋らしい。
クールなグレーのソファに人が座っている。――ビクトリアだ。
ビクトリアは、きっちり結んだ後頭部と背中をネヴに向けたまま口火を切る。
「来たのね。あいにく、急なおこしで準備もできず、お茶のひとつもお出しできなくてごめんなさい」
「あら。『おもてなし』は既に、かなり手の込んだものを受けている気がするのですが。気のせいですか?」
性格のあわない少女を前に、ネヴはツンケンととがった物言いをする。
前は売り言葉に買い言葉で、刺々しい反応を投げ返してきたものだが、今日は違った。
ビクトリアは背を向けたまま、くっくと低く笑った。
陰湿で、それでいて、しゃっくりめいた変な声だった。
「いずれ呼ぼうとは思っていたのよ。必ず必要なものから先に仕上げたのよ」
「ビクトリア。あなた、様子が変ですよ」
目をこらしてみるが、よく見えない。
鏡でくらまされたせいか。彼女の体表が機械と取り替えられているからか。
ネヴの目は自然由来のモノや生物ならばよく見えるが、機械のような、文明の果てにできた金属製品だけは妙にニガテなのである。
「成程。先生が言った通りなのね。貴女の魔眼って」
ネヴが、手をのばせば肩に触れられるほど近づいても、ビクトリアは振り向かなかった。
「視界に入れたくないほど嫌いなら近づかなければよいものを」
「できたら苦労しないわよッ!」
ないがしろに扱われているような不快感に苛立つと、ビクトリアが初めて怒鳴った。
情緒が不安定なのがひっかかり、眉をひそめる。
「どうしてできないんですか。何故どうしても私を殺そうとするんです? 先生がそう望んでるんですか?」
「……本当の本当に、自覚がないの? これまでの事件を振り返って、今まで何年も怪異を扱う仕事をしてきて、ただの一度も気づかなかった?」
「はい?」
「どう考えたっておかしいでしょうが!」
激しい感情を発散して、ビクトリアの小さな体躯が震えた。
それでも彼女は振り返らない。
ネヴもようやく、意地悪で「ネヴを見ない」のではないとわかった。きっと「見れない」のだ。
「ここの患者さん達でさえ、きちんと準備したうえで精神と肉体を切り離して、初めて異界を訪ねられる。そも、《無意識の海》と物質に囚われた現世では生物の都合が違う」
ビクトリアの説明は、ANFAで働いてきたネヴならば当然知っている話だ。
先日のカミッロのような存在は、少ないとはいえ、ゼロではない。
「どうして神降ろしの話を? わたしのいったいぜんたいどこがおかしいって――」
「だったら! 幼い頃、生身のまま神隠しに遭い、帰ってきたオマエはなんだ!?」
ネヴのまばたきが止まる。
幼い頃の神隠し。ANFAの管理地域内の海で遊んでいて、前触れもなく姿を消し、再び現れた女の子。
ネヴィー・ゾルズィの過去は、もうとっくに昔のことで、ほとんどの人間が知らないことのはずだった。
可哀想な少女は無事に生きて帰ってきたのだと。
ネヴ自身そう思っている。
主治医のドラードはどう思っていたのか?
それは、知らないことだった。彼は「忘れるべき過去」としか言い聞かせなかったから。
いくら忘れようとしても忘れられなかった過去と、ネヴの存在を疑う質問に、ネヴの顔から表情が抜け落ちた。
サイコロの面のように移り変わる表情がなくなると、親譲りの美しい貌が際立つ。整いようが、逆に能面めいていた。
「オマエがヒトの形をした災害ではないと、マトモな人類だと、どう保証できる?」
遠回しな「オマエは存在してはいけないものなのだ」という宣告に、ネヴの喉から、我ながら驚くような冷え切った声がまろびでる。
「―――私が、神降ろしだといいたいのですか?」
ビクトリアは否定する。
「いいや、もっと悪いものだ」
ビクトリア――あるいはビクトリアと同じすがたかたちをもつもの――は続けた。
「《無意識の海》から来た神は、カラッポになった、カラッポにした殻に入る。針の穴を通すように、その身を小さく小さく縮めて。本体はあくまであちらにあり、一部が化身したにすぎない」
「…………」
「もとよりこちらの世界で生まれたものならば? 通る針穴は最初からない。広い庭のうえで、どこまでも成長できる。神秘と可能性がいまだに生存し、満ち満ちたこの世界で最も恐ろしいのは、成長する怪物だわ」
ネヴが「私はヒトだ」というのは簡単だ。
されど彼女は正直者でもある。
近頃エスカレートしてきた己の気性に、心当たりがないとは言えなかった。
結果的に、言葉がかすれた。
「酷いことをいいますね」
刀の柄を握りしめる。
ドラードはずっと前からネヴをバケモノになると思っていて、その駆除のためにビクトリア達のちからを借りた?
ビクトリア達もまた、ネヴがバケモノになると納得した?
酷い。ひどい、ひどい。
あまりにも酷い話だ。ネヴはこんなにも必死に生きている。バケモノがそんな必死に生きるものか。
激怒と悲しみでちからがこもる。
「私が怪物になる可能性がそんなにも脅威ですか。芽が出る前に摘み取らねばならないと急ぐほど? 審判者にでもなったつもりか」
「ええ。確信しています。それにね、人間だったとしても、これが貴女にとっていいことなのよ。何を今更、と思うかもしれないけれど。貴女が悪いのではないのだから」
「……?」
頭に血が上って頭痛がする。
くすんだ視界で、ビクトリアを注視する。
今、何か。ビクトリアのなかで、気配が混ざったような?
「この世界で生きることに、貴女が向いていない。貴女がいると、皆が危なくなる。だから、ここで永遠に眠ってちょうだい。今のここでなら、幸せな夢を見せてあげられるのよ、私達」
あくまで全体主義な主張に、もの申そうと唇を開く。
だが、麻痺したような甘い痺れで舌がもつれた。
「思い出しなさい。ネヴィー・ゾルズィという人間が、この世でどれだけ生きづらい存在なのかを。今の貴女を作った忌まわしい過去を」
戦意はあるというのに、もやがかかる。
首がガクンと落ちて、信じられない思いが去来した。
アルフが車を長時間運転する時、後部座席でよく起こる現象だ。睡魔である。
「馬鹿な。あなた、あなたあなたあなた、ね……覚えてろ!」
「ええ。いってらっしゃい」