第四話「虚像の再会」
次にイデがまぶたをもちあげたとき、彼は雑踏のなかにいた。
「――あ?」
あり得ない光景に眼を剥く。
場所はミラーハウスではない。
やわい色の石が敷かれた道に、人がびっしりと詰められて川のように流れていく。
この光景には見覚えがあった。
イデの生まれ故郷――あの廃海がある都市だ。
イデの住んでいた下層地区ではなく、最も人の往来が多かった中間あたりの土地である。
適度な値段の商品を扱う店が多く、スリも頻繁に起きる箇所だった。
情報の洪水に立ち往生するイデに目もくれず、人々は先へ先へと歩く。
よくみれば全員、入院患者が着る病衣をまとっているのに気がつき、更に肝が冷える。
浅縹の群れが気持ち悪くて、空を見上げれば、またしても同じ色が見えた。
空が青い。底の抜けそうなぐらい澄んだ色だ。
イデの知る空は、青は青でも淀んでくすんだスチールブルーである。
子どもが描いた落書きのようなおぞましい色彩に、渋面を作る。
「くそ、きもちわりいな。どうなってんだ」
途方に暮れかけたイデが独りごちる。
すると、その声に応えるものがあった。
「イーデン」
病衣の群れが、霧が晴れるように消え失せる。
残ったのはイデとひとりの痩せた女性だった。
美しかっただろう銀の髪はくすみ、瞳の下は薄暗く、濃い疲れが見える。
品のいい薄い唇には色が差していなかったが、代わりに儚い笑みが飾っている。
子への慈愛のこもった笑顔だ。懐かしい。
彼女を間違えようもない。イデの母、ナタリアである。
「……お袋?」
かけるべき言葉が浮かばず、イデはナタリアを呼ぶ以外できなかった。
ナタリアは内気で無口な女性だった。
ゆったりとした足取りでイデに寄り添い、イデの片手をとる。
「こっちへ来て」
「離せ!」
衝動的に母を振り払う。
華奢なナタリアは簡単に退く。むしろ吹っ飛ばされるような勢いで尻餅をついた。
唐突に、異様な現れ方をした母を幻覚だと疑っていたイデの顔が青くなる。
触れた感触はぬるく、生々しいほど『人』だった。
そして倒れる母の姿は、過去の、父の癇癪に耐える母の姿に重なった。
イデが父を止めようとするたび、母が「巻き込まれてはいけないから」とイデのほうをいさめたものだった。
大嫌いだったはずの光景に再会してしまった、それも自分がやってしまったことにショックを受け、硬直する。
「そうよね。急にびっくりするわよね。ごめんなさい」
ナタリアは怒るどころか、申し訳なさそうにはにかむ。
昔からそういう女性だった。
いくらイデが言っても父親を庇い続け、無理してイデを育てようとしてくれた。
だから「お金を稼いでくる」の一言で出かけたきり帰ってこなかったのが不思議でならず、イデの行き場のない激情をかきたてたのである。
「最初はすぐ帰るつもりだったの。お夕飯の作り置きもなく来てしまったし」
「俺は――俺は、あんたがどっか遠くへ行ったんだと。いらないもの全部捨てて、何も追ってこないようなどこかへ」
怒りのかたわら、イデは「ついにこの日が来た」と思った。
善い人間でいようと努力した結果、都合のいい人間として摩耗し、限界を迎えた。
複雑なことに、ある意味では喜びすらあった。
「そんなわけない。でも、あなたからみたら、捨てられたと考えるのも当たり前ね。でも違うわ。どう説明していいかわからなかった。そのうちできなくなって」
イデの悲嘆をなじりだと受け取り、何度も謝る。
幻にしては「イデの母らしさ」が過ぎる。
「あんたが幻じゃなくて、理由があってここにいるっつうんなら、教えてくれ。ここはなんなんだ」
ナタリアは「説明しづらいの」と、今度こそイデの片手を握った。
「他の奴らはどこなんだ。俺だけ連れてきて、お袋は俺にどうして欲しい? 俺に、たす、けて、ほしいのか?」
――俺が人を助けるなんて。
らしくない言葉をひりだすイデに、母は穏やかに首を横に振る。
イデを下から覗き込む。
「安心して。わたしがあなたを助けたいのよ」
安心させるような微笑みとともに、また場所が変わった。
これまた見覚えがある。
中間地帯にあったカフェのテラス席だ。
煤を防ぐパラソルの下、ナタリアは白に青いラインのはいったティーカップを優雅に傾けていた。
着ているのも、小綺麗な青緑色のストライプ柄ワンピースだ。
「実は憧れだったのよね。こういうおしゃれなティータイムが」
不健康だった青い頬は、チークで愛らしいピンクに染まっている。
清貧を擬人化したような母の、見たことのない美しい姿に驚愕する。
イデ達のようなみすぼらしい下層民がこんなところにいれば、顰蹙の目で観られたものだが、道ばたの人々は通り過ぎるばかりで一瞥もしない。
「こいつはやはり幻覚か?」
「ええ。幻。けれど、本物の夢幻よ」
顔色のいい母が、片手をあげた。
イデの後ろから知り合いを招くように手をこまねく。
呼ばれた人間は足取りも軽くやってくると、ちょこんと母の隣の椅子を引く。
その顔にぎょっとする。
ネヴだった。
「可愛い子ね。名前、ネヴィちゃんっていうんですって?」
ネヴは行儀良く両手を膝の上にのせ、ニコニコ朗らかに笑う。
格好は屋敷に入った時と同じだ。
イデは椅子に深く座りなおし、母との距離を開ける。
「そいつ、本物のあいつじゃねえだろ」
ネヴは母と目と目を合わせ、また顔をほころばす。
いかにも仲が良さそうで、作り物臭かった。
可愛いくりくりした表情が、かえってイデに都合良く動いているようで、気持ち悪い。
第一、ネヴと母は面識がないはずだ。
「そう。本物じゃない。でも、本物には選んでもらえないと思っているでしょう」
「は」
「本当にごめんね。勝手に部屋の掃除をされたあげく日記を見られたみたいで、気分悪いわよね。でもお母さん馬鹿だから、いい言い方が浮かばなくて。ストレートにいうしか」
ネヴではないネヴは母子の間に流れる微妙な空気を介さず、スコーンに手を伸ばした。
イデが目を向けると無邪気に笑い返してくる。
「あなたとわたしがいるここは【病室】。他にも色んな人がここにいて、眠っている。現実では生きていけない人も、夢幻でなら幸せになれる」
気配を感じ、イデは空を見上げた。
雲一つない透ける空――浅縹の天を仰ぎ、目をこらす。
根気強くジィっと見つめれば、ちゅうを飛ぶ羽虫ばりに小さな足裏がよぎっていった気がした。
「わたしにはよくわからないんだけれど。先生がいうには、この場所は結界? のなかに作られていた一種の異世界だ、とか」
母はピンときていない様子で、首を傾げながら話す。
イデの知る母は受け身ではあるが愚かではなかった。母は事実を明確にできていなくても『現実』として受けいられるほど、この世界になじんでいるのだ。
母が得たいの知れない生命体に見えた。掌がじんわりと汗ばむ。
「わたしたちは夢を見て、精神のみになって夢幻の異世界のなかでまどろんで生きる。
ここではなんでも望み通りになる。何を望んでも夢幻だから誰にも迷惑をかけないわ。
安心して幸せになれる。モノやヒトだって、精神のちからをつかって作った幻だから、夢の世界を現実とする限り、つくりだしたわたしたち自身にとっては本物、なんだとか。
難しいわね。でも、嘘じゃないの。紅茶の味だってする、ケーキは美味しい。あなたはここにいるもの」
――望んだ喜びを得られるのなら、それが真実以上に「本物であるべき」なのではないの?
母は真剣な面持ちで、そういった。
「イーデン。わたしはあなたに幸せになって欲しいの。現世はわたしたちが報われる世界じゃない。わたしとあなた、素敵なお嫁さんと、ここでずっと暮らしましょう。ね?」