第三話「鏡面のみち」
「この欠陥住宅ゥゥーーッ!」
ネヴの素っ頓狂な絶叫がまたたくまに遠のく。
耳をすませば、彼女の高い声の行く先は、下方へ向かっているように思われた。
聞き間違えでなければ、ネヴは落下していた。
「くそっ」
なるたけ小走りに他の部屋へ向かう。
注意を払いつつ、なおかつ行動は迅速に。
並列した扉を開ければ、どれも同じような暗闇に包まれていた。
ネヴとアルフが入った部屋が特別というわけではなさそうだ。
あるいは宝箱のように、中身は別物なのかもしれない。
ネヴ達はハズレをひいたのか? 無事か? この部屋のなかにとらねばならないものはないか?
焦りがわいてでてくる。
(いや、ダメだ。「もしもこうしていれば」という推論は無駄だ。最初に『合流して動く』と決めた以上、別れてのローラー作戦は却下しただろうが)
別れての探索は効率はいい。
だが各方面への警戒、注意を払った観察と、ひとりあたりの負担が大きくなる。
100パーセントに明確なリターンが得られないのならば、他の部屋に入るのは悪手だ。
イデはネヴとアルフが入った部屋に戻り、自らも踏み込んだ。
途端、つるっと足が滑る。
踏みしめてふんばろうとしたが、潤滑油のようなものがまかれていて無理だった。
全身が一気に下方へ落ちる。
重力に引っ張られる感覚に鳥肌がたったのもつかの間、どうしようもない落下感は一瞬だった。
すぐに尻餅がつき、方向性を持って滑り始めた。見えないが、これは滑り台だ。
手を上へのばすと、天井をかすめた。
はっきりした曲線がある。脳裏にチューブ状の包みのなかを落ちる想像図が浮かんだ。
数十秒間落ちた果てに、いきなり放り出された。
視界が一気に明るくなる。
まぶしさに目を瞬かせるイデの右手が他の手に取られ、立ち上がらせられた。
「イデさん、大丈夫ですか?」
ネヴだ。
彼女はイデと合流できたことに破顔した。
「つかの間の別れでしたね!」
「状況はなかなか奇異だけれどねえ。ほら、ご覧」
アルフのいう意味は即座にわかった。
明るさに目が慣れたイデの視界は、あたり一面が鏡張りになっていたのだ。
「ミラーハウス、か?」
「ありとあらゆる壁、隙間なく全部。方向感覚がおかしくなるよ」
「そういうわけで、私達もじっと待っていたわけです」
どこをむけども銀色の壁だ。
合わせ鏡のなかでイデ達の姿が無限に連なり、それがどちらを見ても続く。
映像が屈折する箇所で、かろうじて通路があるのが確認できた。
どうやら迷路になっているらしい。
ひとめではミラーハウスの広さもわからなかった。
唯一目立つ物体といえば、イデ達が落ちた場所――仮に入口と称する――に配置された、美しい女性の彫刻ぐらいだった。
「この家、いったいどういう構造してんだ」
「存外、クローンよりも空間をいじくることに特化した魔術師なのかもしれませんね。そうなると、この屋敷の主人は一族の当主ではないのかも」
「どういう意味だ?」
「魔術って、獣憑きが本能的に使う異能を、意識的に『無意識の海』への繋がり方を模索して体系化したものなので。使う魔術に応じて、人格もある程度似通っていることが望ましいんです」
「扱う魔術に対して適正が低い人格だと、無理矢理矯正したりもしてね。当主と異なる魔術系統を学んでいるってことは、嫁入りしてきた家の魔術のほうを受け継いだ、当主以外の親類だという可能性がある」
ネヴとアルフのいう魔術師の事情について、イデは門外漢だ。
なんだかよくわからないがエグイ話という感想だけ抱く。
「どっちにしろ動かなければ始まりません。揃ったところで出発、出発です!」
ネヴの鶴の一声で、三人はミラーハウスを歩き出した。
ミラーハウスは一本道ではなく、途中、何度も分かれ道があった。
一度曲がってしまうと元の道に戻るのも難しい。
アルフが「目印に」と、口紅を取り出して壁に書き込みをしようとしてみた。
鏡自体が特別製なのか、いくらちからを込めても紅がささない。
落としていけるパン屑の類いもない。
「毛糸玉でも持ってくればよかったな」
「こんな場所に入らされるなんてわからなかったんだから、しょうがないじゃないですか」
「冗談に決まってんだろ」
ぐるぐる回っていると、同じ場所に辿り着いてしまう。
入口に配置された、あの女性像が現れるのだ。
女性像は目にはめられた赤い石をてらてらと輝かせながら、三人を出迎えた。
それを五回も繰り返すと、ネヴがなんともいえぬ奇声をあげた。
「びやーッ! もしかしてこの迷路自体、絶対出られない仕掛けになってるとかないですよね? 飢え死にとか嫌なんですけどーッ!」
「あんたの眼でどうにかなんねえのかよ」
「鏡のせいか、どうにもうまくいかなくて」
「あー。メデューサ然り邪眼然り、魔眼って鏡に弱いとこあるからねえ」
目頭をおさえてうなだれるネヴの頭を撫で、アルフも苦笑いする。
「そも、この像が複数あったら、ここが入口だっていう前提も壊れるんだよねえ」
「俺は出口がありそうな気がしてるんだがな。根拠はねえけど……ネヴの話を聞く限り、ビクトリアってやつは妙な正義感があるんだろ。そういう奴がこんな勝ち方を望むか?」
「オレもそう思う。弱ったところに出てきて、っていうのはあるかもだ」
イデとアルフの会話に思うところあったか、ネヴが顔をあげる。
「加えていうならば。もし私だったら、トラバサミの罠ひとつでも投げとくと思うんですよね、ここでガチに殺りにいくなら。攻撃的な意志というより、もっと別のなにかがあるような」
妙案が浮かばぬすえの希望的観測、というには、三人には予感があった。
ビクトリアは、奇襲はしても、割合手段そのものは直接的だった。
彼女とこの婉曲的で気の長い手法が、どうにもかみ合わない。
「ま、どんなものにも穴はあるものさ。幸い時間はあるようだ。探索しながら作戦を考えるとしよう」
「これでいっそ敵がわんさか来れば、できることもあるのに」
「敵の死骸でまたヘンゼルとグレーテルする気か……」
六回目の挑戦に及ぼうとしたイデの腕が、後ろから引っ張られた。
「なんだネヴ」、といおうとして、血の気がひく。
ミラーハウスの探索は、最初に屋敷に入ったときと同じ手法で行っていた。
先頭はアルフ、しんがりがイデ。
ネヴはイデの前方に立っている。
大声をあげて警戒を促すより早く、イデの視界は暗転した。