第二話「不在屋敷」
一台の黒い車がなだらかな坂を登っていく。
イデはこもった空気を入れ換えるため、ハンドルで窓を開けた。
一気に涼やかな酸素と生気のある土の匂いがなだれこんでくる。昨晩は雨が降ったらしい。
警戒に目を配らせるも、あらかじめトリスから聞いていたとおり、人っ子ひとりいない。
場所はひらけた土地だ。屋敷は一面に広がる野の果てにあり、他より高い位置にそびえていた。
者にも阻まれずに辿り着けば、崖下にある海を睥睨できた。
崖の上にある家は、その威容から堂々とした佇まいでイデ達を出迎える。
間違いなく豪邸だというのに、不安定で荒涼とした印象を受けるのは、その場所ゆえか。
車のエンジンを止めるなり、三人そろって車のドアから出る。
バタン、とドアを閉じるてつきはうっすら乱暴で、それぞれの緊張がにじむ。
「いるんですかね、ここに。イデさんのお母様が」
「……知らねえよ。それよか、自分の心配しろ」
真剣な面持ちで別荘を仰ぎみるネヴの髪を乱暴にかき混ぜる。
「むっ! で、でもー……」
ネヴにも、イデが家族仲の悪い家庭に生まれたことぐらい、伝わっているだろう。
やけにいいづらそうなのが証拠だ。
イデは遠い目をして、母を思い出す。
イデの母親――ナタリアは、ある日から帰らなくなった。
最後に交わした会話はほとんど覚えていなかった。
「金を稼ぎにいく」といっていたような気がする。
貧しい家庭ではみんななにがしか手に職をもとうとしていたし、いつもの会話だった。
また明日も同じような会話をすると信じて疑っていなかった。
だからよく聞かなかった。忘れてしまった。
唯一信用できると思っていた人に裏切られたと感じたのが、イデが荒れる大きな要因となった。
(あの人は裏切ってなんかなかったのか?)
考えたところできりがない。
イデは大仰に溜息をついて、呆れるそぶりをした。
「あのな。毎回毎回怪我して、狙われててんのはあんたなんだぞ」
目下、疑いようもなく危険なのはネヴなのだ。
イデの家庭環境を憂っている場合ではない。
ネヴは胸を叩いてカラリと笑う。
「私ですか? ええ、大丈夫です。心境はともかく、やることは決まりましたからね。迷わず進めますよ」
「ビクトリアはともかく、主治医なんだろ。長い付き合いだろう。やれんのかよ」
「『死ね』といわれたならば、言うべきことはただひとつ。『殺す!』」
ネヴの態度はあくまでストレートだった。
「好きとか嫌いとか、正しい・悪いは関係ありません。死ねっていわれてハイ死にますなんてなりませんよ。納得いかないし。『私の命ってそんなもの?』って感じじゃないですか。私が私を呪わないために、そこんところは絶対に守るべきルールです」
「ならいいんだけどよ。信じるぞ」
イデの「知り合いと戦って生き残れるか?」という心配を打ち払うように、言い切った。
「どーんと信じて下さい。だから気をつけるべきはイデさんなんですからね」
「へいへい」
「今日は私から離れちゃだめですよ!?」
「うるさすぎてノイローゼになるわ」
馬鹿なやりとりのおかげで、かたくなっていた肩からちからが抜ける。
彼女は明るく振る舞っているが、そんなわけはない。
イデも、いつまでもウダウダしていられなかった。
近づいて、ドアをノックする。
精一杯丁寧な話し方で声をかけた。
「すみません。突然ですが、ナタリア・カリストラトヴァの……息子、です。母がこちらにお世話になっているときいて、訪ねてきました。お話できませんか?」
返事はない。
ドアノブを回す。鍵は閉まっていた。冷徹な緑のドアがシィンと来訪者を拒む。
後ろで様子をうかがっていたアルフが前に出る。
「もう完全に締め切ってるみたいだねえ。こういうこともあろうかと話をつけておいてよかったな」
車の後部座席から、よっこいせと荷物を取り出す。
とりだしたのは鳥籠めいた箱だった。
色は半透明のターコイズブルー。樹脂に似た照りがあるが、鉛のように重い。イデの知らない物質で出来ているらしい。
長さ二十センチ程度の正方形の箱だ。中身はくりぬかれていて、片手で握れる大きさの何かが跳ね回っていた。
檻の柵は菱形を描き、それが細かく何重にも重なっている。
「なんだそれ」
「収容物だよ。借りてきた。逃げ足が速いから、これで収容物の能力をコントロールしてくれだってさ」
中身が飛びだそうと柵に触れると、触れた部分が泡立つように発光して、中身を内側へ跳ね返す。
「名前は【鍵開け妖精】。厄介ものらしいよ。管理担当者さんになるべく任務を引き延ばして、返却をあとにしてくれって頼まれたぐらい。オレは速攻で片付けるつもりだけれど」
アルフは意気揚々と箱を鍵穴に押し当てる。
半信半疑で見つめていれば、カチッ。小気味いい音をたて、鍵がはずされた。
「よし。オレが先頭になるよ。お嬢は真ん中、イデくんはしんがりを」
箱を戻すと同時、アルフが腰から銃を引き抜く。彼の行動に応じ、ネヴも刀の柄に手を乗せる。
今日は村の時と違い、変装していない。
あらかじめ常在戦場の心得で臨めといわれていた。
イデも、最近渡されたばかりの拳銃を構えた。
「出迎えもありませんね」
乱暴を働かなかったとはいえ、侵入者に対し、広いエントランスホールには人影ひとつ表れなかった。
白い大理石の床は鏡のように磨き抜かれ、イデ達の姿が色も鮮やかに映り込んでいる。
「オレ達をあくまで誘い込む気かな」
アルフの手がホラと指先で二階を指す。
シンメトリーに配置された螺旋階段の先に、幾つも部屋が並んで続いていた。
ひとめでわかる造りが、かえって罠の気配を濃厚にさせる。
「あっちから来ねえならこっちから行くしかねえだろ」
「前向きに考えましょう。待ちより攻めの方が私達らしくていいじゃあないですか」
「意気がよくて結構。だが、ここはビクトリア達のホームグラウンドだ。くれぐれも気を引き締め、離れず行動しよう」
三人で別方向を見張りあいつつ、二階の一室の前へ辿り着く。
その間も奇襲はなく、不気味なまでの沈黙が空間を満たしていた。
分厚い壁が外界の音を完全に遮断するのだ。
「嫌な家ですね。生気がありません」
ネヴがぽつりという。
イデも心の中で肯定した。
時計といった家具も見当たらず、ゴミ一つなく整頓され尽くした家は生活感が皆無であった。
よくできたドールハウスに閉じ込められたかのようだ。
扉はどれもにたり寄ったり。
仕方なく勘で選んだ部屋に入る。
なかは明かりがついておらず、濃密な暗闇で満ちていた。
ただの暗闇ではないのはすぐにわかった。
アルフが懐中灯で照らしてみたが、その光がなかに届かなかった。
明かりの先が扉の先に入った途端、光の円柱がすぱっと断ちきられてしまう。
「魔術の類いかな。お嬢、どう?」
「ううん。空間に関する設定情報をいじくってるみたいですね。『外に居る限り中身が見えない』という風な。帳をしめているようなものです。踏み込めば見えるでしょうけれど」
「結局、いってみなければわからないってコトだね。OK」
目配せしあい、意を決してアルフが飛び込む。
ネヴとイデは一度待ったが、アルフはなかなか出てこなかった。
二分もして、ネヴがしびれを切らす。
「なかでアルフが危ない目に遭ったかもしれません。行ってきます!」
「おい!」
「もし私が出てこなかったら、イデさんは一旦他の部屋を確かめてみてから行動してください。区別がつかなければ、ひとまず私達との合流を目標に!」
いうが早いか、ネヴはアルフを追った。
同時に、ネヴの絶叫が響いた。イデからすれば意味のわからない叫びが。
「こンの欠陥住宅ゥゥーーッ!」