プロローグ
イデは生まれて初めての船旅に襲われていた。
『トリス』という職員に会うためである。
Balamの開発者であるライオネル・ドラード博士の行方がわかったと連絡があったのだ。
彼はネヴの上司であるらしく、詳しい話をききにいくのだという。
今までなかったことだ。
特にイデは穴埋めの仮採用のような立ち位置だ。ネヴたち以外のメンバーと会う機会はほとんどなかった。
恐らく、今回の出かけ先が一連の事件の大詰めとなるのだろう。
バラール国には多数の島がある。
トリスはそのひとつに居住しているらしい。
管理施設近くの島で、多くの人々が失った『神秘の海』に属する場所だという。
海といえば、腐った臭いがして、産業廃棄物でどろついている印象が強い。
底が透ける青い海なんて、実際浮かんでみても信じられない。
潮の香りも、嗅いだことなんてないのに、胸が懐かしい気持ちに染められる。
未知の体験はおとぎ話に放り込まれたようだ。
べたつく慣れない空気は、知っているものとは比べものにならない清らかさなのに、かえって気持ちが悪くなる。
「……吐きそう……」
「船酔いだね。でそうになったら海に吐いていい、魚が食べるさ」
「わかった」
せっかくの綺麗な海に汚物を流していいのか?
悩まないこともないが、この未知の嘔吐感には逆らえない。
船のへりでこめかみをおさえるイデをかために、クルーザーの奥からネヴが出てくる。
「初めての人はそうなることが多いですね」
「あんたも?」
「いいえ。私は小さい頃から親しんでますから、船酔いは未経験です。クルーザーの運転すらできますよ。アルフに習いました」
「絶対のりたくねえな」
まだ何も吐いていない口元を拭う。
イデは座っていて、ネヴは立っていた。
軽く顔をあげると、彼女の微笑みがよく見える。
丸い太陽を背に、波風にあおられる黒髪を右手でおさえていた。
吸い込まれそうな黒い瞳を柔らかに細めている。
リラックスした立ち姿には少女らしい無垢さがにじむ。
瞳が真っ直ぐにイデを見た。
大柄な体躯への恐れも、下級者への嘲りもない。
見られている側のほうが照れるような混じりけのない慈愛だ。
スカートとブーツの間の太ももからは、打撲痕が綺麗さっぱり消えた。
あの事件のあとから、元々素直だったネヴの感情表現は更に厚い好意に満ちたものになった。
傷がなおっても、だ。
「こほん」
イデは仏頂面を装ってネヴの視線を受け止める。
それをアルフの咳払いが、見つめ合う二人を打ち切る。
ネヴはきょとんと首を傾げた。
慌てて目をそらしたのはイデだけだ。
「……冷えるな。あんたもよくそんな格好でいられるもんだぜ」
「これが私のユニフォームです。というか、イデさんに言われたくないですね。あなた、モッズコートのしたはタンクトップですよね? 寒さに強すぎじゃあ?」
「オレからすれば、どっちもどっち。二人とももっと色んな服を着てみればいいのに。しかし、もう一月も終わるねぇ。一年で最も寒い時期が過ぎるわけだ」
アルフが遠い目で海の先をみやる。
だんだん大きくなってくる島の影がある。
「春が来るからといって気を緩めてはいけない。季節の変わり目は、時に吹雪以上に人を追い詰める――変化の時期だからね」