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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第三章 羊喰らいの丘
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エピローグ


 ネヴは毛布を首の付け根まであげ、ベッドにしっかり入り込んでいた。

 輝く黒い瞳も、こころもち半目だ。

 他の二人に先んじて見舞いにやってきたイデも頬をかく。


「あー……食うか?」


 見舞い品のリンゴを差し出すと、彼女は無言で受け取った。

 皮も剥かずに、赤く照った果実に歯をたてる。

 完全にしょげてしまっている。

 看護師にみっちりコテンパンに叱られたせいだ。信じがたいごとに、精神的ショックのほうが肉体的負担より上らしい。


 仕事が終わるたび入院すること二連続。前回は切り傷で、今回は打撲だ。医者としては腹立たしい気持ちもわかる。

 業務上ケガはついて回るものとはいえ、ネヴがヘラヘラしたので、腹の虫にさわってしまったらしい。


「まあ元気出せよ。いっつも入院してるってわけじゃあねんだろ」

「医療に関わる女性を白衣の天使と呼びます。天使の語源は『伝令』ですが、悪に対してそりゃあもう容赦ないとこあって……そういうことですよね、フフ」

「会話になってねえぞ。いや、まさか。してんのか?」

「それなりに? 完治を目的とするものにとって私イズ悪かもってぐらいには」


 ネヴは虚ろにリンゴをかじった。

 しゃりしゃりしゃりしゃり。一心不乱である。


「あ、すみません。うるさいですか。最近、妙に気持ちが浮つくんですよね。躁と鬱を繰り返してる感じ?」

「争いの余韻が残ってるんじゃねえのか。ダヴィデでは大量出血して、今回はひとりで戦い通しだろ。みんなゆっくり休めって思ってる。看護師サンがキレたのもそうだ」

「ありがとうございます。うーん、体はめちゃ元気なんですけどねえ」


 うっすら頬をそめてはにかみ、リンゴを皿におく。

 瑞々しい薄黄の芯が綺麗に残されている。食欲はあるらしい。


「今回は色々お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。イデさんには色んな意味でお世話になりっぱなしで。イデさんが大変なとき、何もできなかったのが心残りですね」

 

 ネヴは心底申し訳なさそうに謝る。

 眉を八の字にした笑顔は出会ったばかりを思い出す。

 いっぽうイデは彼女の謝罪に面食らう。

 目をそらし、ぼそぼそと喋る。


「……アンタは悪かねえよ。どっちかっていうと俺が役立たずだった。男のくせして女をたたせたうえ、バケモノにひっかけられて足引っ張ってよ」

「は? イデさんは役立たずなんかじゃないんですけど? 私の好きな人の悪口いうのやめて貰えます?」


 先ほどまでしおらしかったのに、イデが自虐した途端、急にネヴは怒りをあらわにした。

 今までされたことのない反応に、二度(にたび)戸惑う。


 イデのマイナス評価に対して本人以上に嫌がる人間も、正面切って好きと言われるのも初めてだ。

 しかも、ネヴには媚びや虚飾が一切感じられなかった。純粋無垢な好意をどう扱えばいいか。

 いくつか言いたいことがあるのに、なかなか形にならない。


「あー、あのな。なんであんたが怒るんだよ」

「自分でいって自分で傷ついた顔するからですよ。イデさんが嫌な思いをする。つまり私も嫌な気持ちになるってことです」


 ふんすふんすと胸をはられる。

 彼女にとっては自明の理のようだ。イデの知らぬまに、ネヴのなかでイデへの解釈の変化があったらしい。

 正直かなり困る。嫌ではない。嫌でないのが座りが悪い。


「無事生き残って村を出て、原因も捕まえられたんだから、それ以上の成果はいいじゃないですか。それより……イデさんみたいな人がいてくれるほうが、

『よーし、いい人かもしれないし、また顔も知らないどこぞの誰かを助けてやりますか』

って気分……に、なれる、ので……」

「どうした?」

「……おなかいっぱいになって興奮したら、眠くなってきました……」


 うつらうつらと船をこぐ。

 そういえば、ネヴは看護師に叱られてひとしきりへこんだ後でもあった。

 治療のために体力を費やしているのにあわせて、裏で疲れもたまっていたのだろう。


「ひとしきり騒いで腹いっぱいになったら寝るって、幼女かよ」


 イデはほっとして口元が緩んだ。雑に毛布をかけなおす。

 このままでは褒め殺しにされて返事もできない、地獄の時間が始まるところだった。

 ネヴは幼女扱いに不満を示すも、睡魔には負けた。

 快適な室温とぬくい布団に包まれ、すぐに健やかな寝息が聞こえだした。


「…………寝たか?」


 数分待ち、小声で呼びかける。

 長い睫がぴくりと揺れるも、まぶたはぴっちり閉じられたまま。

 彼女は深い眠りについていた。村にいたときと違って、ようやくなんの警戒もなく眠れるのだ。

 死んだように穏やかな寝顔を見ているうちに、ふと魔が刺した。


 まるで白昼夢に落ちたような感覚だった。

 イデの無骨な指先が、布団に潜り込み、そっと寝間着のなかに滑り込む。


 触れてみたかったのはダヴィデにつけられた傷だった。

 ANFAの医療関係者は優秀らしい。ダヴィデの方は乱暴な応急処置でも痕がだいぶ消えていた。

 ミミズ腫れのように腫上がった縫いあとの、ぼこりとした感触。いずれ消える、生々しい傷跡。


「痛かっただろうに、なんでそんなに戦えるんだろうな」


 イデはかつて、周りからの理不尽に耐えきれずに荒れた。

 自分から戦場に向かうのは、くちでいうほど簡単ではない。

 この傷跡は彼女が全力で生きている証だ。

 血を流して構わないほど、強く願う何かがあるのだろう。貪欲なことだ。


 素直に、綺麗だと思った。

 ネヴがみじろいだのをきっかけに手を離す。

 違和感が消えたネヴは再び眠りの世界に戻る。いま何をされていたのか、何も知らない可愛い寝顔だ。白銀の毛髪のした、イデの相貌が歪む。


「そんなあんたが、なんで俺を好きだなんて言うんだ?」


 何故触ったのか、イデ自身にもよくわからない。

 あえて形容すれば、激しい喜びと嫉妬が獣の姿をして、イデの大きな体躯の下をはねまわって暴れているようだ。

 とにもかくにも、この傷はネヴという少女の人間性の証明のひとつでもある。


――彼女は『得をする』『損をしない』という勘定にこだわらない。

 生命の危機を軽んじている点から察しがつく。ネヴにとって価値があるのは、『生きること』だ。在り方をこそ評価し、執着する。


 現状、イデにはなんの目的もない。

 漠然とした希望をもってネヴ達についていった。


 何かが変わるのではないか。今までどんなに努力しても踏みにじられ、諦め、それでも夢見ずにいられなかった遠いどこかへ。

 屈辱と苦痛に追いかけられず、喜びに満たされる未来を、少なくともあの廃海の街にとどまるよりは見られるはずだと。


 それでもやはりイデには何もないのだ。

 誰かを救いたいと願う華やいだ純な善性などとうの昔に壊れた。

 誰かを踏みにじって平気でいられる愚鈍さを、見下す程度には真人間ぶりたがった。


 しかしイデは、貧しさを乗り越えようと、いい学校を目指したが挫折した。

 周りを実力で黙らせる実力も、辛抱も、才能も持ち合わせていない、凡俗な男であった事実は変わらない。

 

 そんな人間でもネヴは愛を返す。行動で示しさえすれば。与えさえすれば。

 今までイデが散々努力しても出せなかった成果とやらを出せなくても。


 イデを救ってくれるのだ。


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