第三十六話「狼少年」
ANFAの所有する隠された島、主要収容所は、慌ただしい一週間を過ごしていた。
ヴェルデラッテ村での対応に追われていたからである。
トリスはファイルを片手に目頭をもんだ。
年齢の割に高い地位に比例して、トリスの仕事は多い。
属する管理部以外ともひっきりなしに連絡を取り合い、入念な確認と指示だしに追われた。
きちんと記憶処理ができたか、農具のメンテナンス業者を装ってさりげなく探りをいれて検査したり。
死亡者の理由付けをするために、条件を整え、新聞社に根回しをしたり。
ネヴの行動が暴走ばかりでなく、理由あってのものだという証明には気をもんだ。
「マシだったのは渦中の実行者である姉弟が協力的だったことぐらいかな」
目的の扉の前にたち、ひとりごちる。
その背後に二人の補助役が並ぶ。名前はティキとミアキ。男女の二人組で、仕事内容は実質トリスの秘書だ。頼れる腹心の部下である。
男性のほう、ティキが悩ましげに扉に眺めた。
「トリスさん。失礼とは承知のうえですが、どうしてわざわざあなたが調書をつくるんです?」
「いっただろう。獣憑きならばともかく、神降ろしだ。しかし、封印チームの支部に移すには弱すぎる」
今のトリスは、本来の温厚な語り口調を取り戻している。
ティキの親しみのある呼びかけに、きつい視線をむけたのは、もう一人であるミアキだった。
カミソリのようにつりあがった目は、しかし、半分は気のせいだ。
神降ろしであるカミッロとの対談の前に、ミアキがトリスの異能の負の部位を引き受けてくれていた。
「あっちも土地に限りがある。神降ろしを収容するだけあって、こちらより厳しい環境だ。あそこで働く従業員を思えば、できるかぎり、負担は人員の多いこちらにまわすべきだよ」
「わかりますが。ボクが『替えの効く人材でやってくれ』って思う気持ちもわかってくださいよ」
直接的でドライな言い分に、トリスは思わず苦笑した。
「君は実に管理部に欠かせない人材だよ。しかし組織としては、替えの効かない人材なんて致命傷だよ。いついなくなるかわからないんだから。そして難しい仕事は、責任を負う立場の人間がやらないとね」
肩をまわしてほぐれをとる。
現状、カミッロは大人しい。姉のベルの身柄をこちらで完全に拘束しているのもあるだろう。
他人に影響を及ぼす異能者への対抗装置は幾つかある。
カミッロの異能は多数の対策と創意工夫、社員の努力によって、大幅に削られた。
「心もちはしっかりと。行こう」
緊張をおさえ、トリスは室内に踏み入った。
まぶしさにミアキが目を細める。
部屋のなかは壁全体が白い革張りのソファのような素材でできていて、天井と床の違いがなかった。
家具らしい家具はない。
中心に木製の椅子と一人分のテーブルがあり、生活感のかけらもない。
生理的な不安をかきたてる部屋だ。精神病棟の一室を思わせる。
非人道的な部屋に少年を閉じ込めている理由は単純。
落ち着かない所内で、急遽用意できた部屋がこれだったのだ。
他の収容物と離れた、余裕のある未使用の部屋。最も、カミッロはどんな部屋でも構わないらしかった。
「やあ。カミッロ。不調はなさそうだね」
椅子に腰をかけ、俯いていた少年は無言で顔をあげる。
収容前より肉付きがよくなり、そげていた頬は健康な丸みをおびていた。
収容以降、少年――カミッロの変化は劇的だった。
姉といた時は白痴に近かった少年は、やむをえないとばかりに、知性をみせだしている。
変化は知能と健康以外にもある。
わかりやすいのは容貌だ。
色素の薄いカミッロの頭部には、ぴょこんと犬の耳が生えた。
カミッロは無表情のまま、新しく生えた獣の耳のフチをさする。
「違和感があるのかな。報告では、二日前に発生したらしいね」
「…………」
「心配しないで。正体に関係ないはずの耳ができて、不機嫌なようだけれど。こちらで意図的に発生させた。受け入れてほしい」
たっぷり毛の生えたふさふさの耳で遊ぶカミッロの前に、ファイルをひらいて資料を並べる。ファイルにはヴェルデラッテ村の写真と、報告書が挟まれていた。
「悪意を伝搬し、扇動して、差し出された命を喰らう。看過できる性質ではないから、ブレーキをかけさせてもらった」
カミッロの指が耳から離れ、紙束を引き寄せる。
書かれている内容に目を走らせているのだろうか。
機械で刻まれた均一的な文字列は、現在、村内の大量死は突如発生した病原菌による流行病のせいになっていると説明していた。
「噂を食い殺すのは更なる噂だよ。都市伝説型にはオーソドックスな対応だね」
「伝説が嘘であると示すための物語。対抗神話」
「あの製薬会社ではゾンビを研究しているらしいという噂があったが、実は過度の勤務で疲労困憊した研究員を見かけただけだった、とかね」
トリスとティキの説明を、カミッロは黙ってきく。
ページがめくられ、工作された村人の遺体の写真があらわれた。
「狼男にもそのような通説がある」
トリスの空色の瞳がカミッロの犬耳を一瞥し、ファイルにそっと指を挟み、大量死のページに戻す。
「狼男は狼に変身できる魔性の人ではなく、狂犬病にかかった罹患者だという。僕達はこのようなカバーストーリーを用意して、君の正体は災害を予言し、実際のものとするものではない、ことにした。
ヴェルデラッテ村の壊滅の原因は、精神錯乱を引き起こす病気のせいだ。村を滅ぼした君はその病原菌の擬人化、狼人間だ。
既に新聞でもそう報道している。今や君を《声》と知るものより、《狼人間》として信じるもののほうが圧倒的に多い。実際は違っても、無意識は集団のチカラをもって、君の正体を偽の認識で包み込む。その耳が証拠だ」
カミッロは肩をすくめた。
ティキとミアキが顔を見合わせる。
怪異にとって情報は肉体をかたちづくる細胞同然だ。
カミッロのたいして気にしていない様子は、二人にとって奇異にうつったのだろう。
「ふむ。沈黙は肯定と受けとるよ。この処理に不満はないと考える」
避難ひとつとばさないカミッロに、トリスは手早く資料をしまい始めた。
それをみても、カミッロは暇そうに耳をいじくる。
資料をまとめ、机でトントンと叩いて揃えた。
ティキに手渡して、鞄にしまうのを見届け、ゆっくり席を立つ。
「……最後まで君は必要以上をくちにしなかったが」
いぶかしむ二人と違い、トリスは落ち着き払っていた。
早々に終わった面談も最初から想定通りといわんばかりに。
「僕にはどうにも、君が以前から『嘘つき』であったように思えてならない。おそらくはカミッロの時から。違うのか?」
カミッロの動きがぴたりと止まる。
「そも、あちらの存在である神性が、何故ひとに執着する? あれほど庇う? ならば、あれは無意識の海への鍵穴となったカミッロの残滓の影響だと仮定できる」
「トリスさん? なにをおっしゃっているんです」
「カミッロ。本当は、君はなにも敗北などしていないんじゃあないのか」
トリスは唇を真剣に引き結ぶ。
悲痛に眉間に浅い皺を刻み、人のよさそうな顔立ちによこぎるかげりに宿るのは、哀れみだ。
「…………ふふ」
カミッロがその日唯一発した声は、笑い声だった。